森
青草を踏む音、小鳥の鳴く声、淑やかな薫風、それら全てがあの森に向かっていく。一心に、長く、長く。一本木を離れてからどれだけ時間が経ったか、しかし太陽は目を覚ました時から傾きを変えず僕を見つめ続けている。この草原もあの太陽と同じように何一つ姿を変えず、ただあるだけ。それは不思議と恐くなくて、僕という存在を何も言わず受け止めてくれる、そんなあの頃の心地良さを、僕はこの草原に感じていた。
僕は何を思い出しているのか、いつのことに思いを馳せているのか、これがあの森に行けば分かるはずなんだ。ここに来た理由だって、あれ、そもそも僕はどうやってこの草原に来たのだろう。目を開ける前の記憶が無い。僕は今どこにいるのだろう。それすらもあの森は教えてくれるのだろうか。
段々と木々が一本ずつ見えてきた。森の入り口に生えた草木の足元に何か小さくて白いものが見える。あれは何か、と目を凝らして見れば、それは一匹のうさぎだった。さっき僕の足にフンをしたやつなのか、僕は目を細めながらそのうさぎに近づいていく。うさぎの瞳がようやく見えた。この草原を写し出したような緑色、うさぎは僕を見つめたまま体を震わせている。怯えているのか、僕に。もしかしたら僕はあいつに嫌われているのかもしれない。確かに僕は動物をすこぶる好いているわけでは無いが、嫌われるのはちゃんと悲しい。
とぼとぼ進んで、あと十歩もすれば森に入れるところまで来た。少し足を止め、息を吐き、大きく胸を動かす。いざ目の前にしてみればやはり僕は恐がっていて、このうさぎのように弱々しく体が震えている。このうさぎが僕に怯えているように僕はこの森を恐れている。森を前にしては僕もうさぎと変わらない小動物なんだ。しかし恐れていては生きていけない。お前もそうだろう。
僕はうさぎに再び視線を移す。もううさぎは震えることをやめ、ただ僕を見つめている、さっきよりも瞳を丸くさせながら。そうだ、もう進むしかない。僕は一歩足を前に出す。その時、うさぎは振り返り、草木の隙間から森の中へ消えた。うん、僕も行くよ。僕はうさぎを追うように草木を分け、森の中に入った。
ひとたび森に入ってしまえば、陽光も顔色を変えて薄暗く漂っている。差し込んだ木洩れ日が地面に点々と落ちて、木下闇の奥の方まで道筋を朧げに映し出していた。それは誰かの足跡にも見える。
うさぎは既に僕の何十倍も先にいた。あんなに遠くから僕を見つめている。僕を待っているのか、呼んでいるのか。分かった、そっちなんだな、そっちにあるんだな。なら、今はお前について行くよ。
森の中には風も吹かない。僕の目を引くのはゆらり揺蕩う木洩れ日と、森の薄暗さにまるで見合わないうさぎのみ。僕はあの白点を目印として、道を踏み外さないよう地面にぽんと伸びる光斑一つ一つの型へ順々と足を置いていく。その一瞬の温もりが唯一の安らぎだった。僕の両端で葉を伸ばし切っている高草は草原の緑のような活力はなく、その疲れ果てくたびれた表情を木の隙間から垂れる余光のみが照らし出している。葉の先をもう上に向けられないのか、地面に着きそうなほどだらんと間抜けた葉脈、それがずらりずっと続く。歩くたびにそれが足に当たり、力なくも縋りつこうとする手のように思えた。ごめん、僕には救えない。今僕は自分を救うことで手一杯なんだ。ここで目を覚ました時からそうだ。初めから僕は救われようと、自分を救おうと進んできた。何が変わったのかは分からない。でも、本当に救われたくて。だから今は僕だけのことを考えさせて欲しい。僕が過ぎ去った後の高草たちは悲しそうに葉を揺らしていた。
歩くほど暗く、肌寒くなっていく。少しだけ後ろを見てみれば、僕が入り込んだ隙間が小さく明るかった。ここから引き返すことは考えたくない。かと言って正面はずっと暗くて、恐ろしい。再び息が乱れた。
暗い、草原の穏やかさとは対極の薄ら寒くて荘厳なかたち、世界が見せる二面性の呼応に僕は何も出来ず、ただちっぽけなひとつの命として存在することしか許されない。畏敬とはこのこと、僕は彼らの戯れの内で小さな小さな脈動を必死に抱えている。彼らの気が向かうままに、僕はいつ消えてもおかしくない。これこそが命の権力、それでも僕ら小動物はそんな摂理に抗おうと、いや、全ては掌の上か、どちらにせよ、自らの命が願う場所へ、自らの意志で向かうことこそ僕らが持ち得る小さな命の権力ではないのか。僕らは、まだ美しいはずだ。
恐れによる詭弁か、生命としての渇望か、そもそもこれは僕の本心なのか、もしやお前の本性か、教えてくれ、教えてくれ。
僕の足は速度を増して、道程の途中に佇むうさぎにどんどんと近づいていく。日の溜まる地面が抉れるほどに僕の足には強く力が込められている。僕が動いたせいで僕の両脇に生い茂る高草がぞうぞうと揺れ出した。まるで僕を引き止めるかのように。
歩き続けた両足は土まみれで汚い。その両足は犇めき合う草木たちが集う森の中に、大袈裟な土埃を巻き上げた。僕の衝動を受けて揺れる高草につられ、木々も低く重厚な音を立てて惑い始める。僕は動かない森の中に風を起こした。
僕はもう足元を見ず、ひたすらに駆ける。足の傷口に潜り込む角の尖った土、項垂れる小枝、絡みつく荒草、この森の細部として寡黙に生きるものたちが、その体に血を巡らせたかごとく僕を捕らえようと力を振り絞り、背伸びをする。掴まれ、掻かれ、覆われ、突かれ。僕の腕に、足に、首に、顔にと次々にぱっかり割れた鮮傷が刻まれる。未だ知らない痛み、どくりどくりと血が巡り、僕の動悸は余計に暴れる。痛い、痛い。恐い。訳が分からなくなっていた。痛みと恐怖、それだけが頭を埋め尽くす。体は泣こうとするのに頭は涙を閉じ込めていた。息が切れ、段々と視界が霞んでくる、耳さえも途切れ途切れの信号を出して、僕の体は各々の役割など忘れようとしていた。
足の力が抜けていく、それでも力を込める。もう体を支える力など携えてはいないのに。だから目の先にあった枝にも気が付かなかった。僕の反応は遅れ、眼球に枝が刺さる一歩手前で体を仰け反らせた。そして重心を崩し、足を絡ませたことで僕は額から地面に倒れ転げる。一瞬のことで声すら出なかった。土にうつ伏せた数秒間、その間だけ、森は落ち着きを取り戻す。そこでやっと体は大きな呼吸をした。息を吸う、息を吐く。役割を思い出した頭は一気に涙を押し出した。
痛みと恐怖でこんがらがった体は、森の中に嗚咽を響かせることしか出来ない。顔をつけた土の上に涙と血が混ざった染みが出来上がった。僕は顔を顰める、懐かしいくらいに。
前方から土が擦れる音が聞こえてくる。しかしそれはあまりに軽やかな音だった。顔を埋める僕の前に何かが近寄ってきている。僕はぐしゃぐしゃになった顔をなんとか上にあげた。
この森に見合わない活き活きとした緑色、それを包む白色は木洩れ日をきらきらと反射している。
僕の目の前に、あのうさぎがいた。うさぎの瞳を見れば、あの草原の安らぎを思い出す。いや、草原以上の心地良さを。
僕はうさぎに泣きついた。僕がうさぎを抱きしめているのに、僕の全身が包み込まれ、抱きしめられているように思えた。うさぎは僕の傷を心配しているのか、撫でるようにその前足を僕の顔に当てる。うさぎの瞳が潤んでいるように見えた。
思い出した、何もかもが初めてだったあの時を。立ち上がって、転んで、泣いて。その時は分からなかった。でも、僕が気づかなかっただけで、しっかり見ていてくれたんだね。でも、僕があなたと会えなかったのは、僕のせいじゃないか。
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
僕は転んだ時よりも一層大粒の涙を流している。しかしその涙は痛いとか恐いとかではなくて、心の底からの喜びと、それを大いに超える罪悪感から溢れたものだった。あなたのことも、僕は失くしてしまったから。
もし僕が生まれていなければ、まだあなたは生きていたのだろうか。もし僕が生まれていなければ、あの子だって。
自分が持って生まれた罪の大きさを、なぜ僕は忘れていたんだろう。忘れて尚、この草原に来た。僕は弱者だ。僕は悪者だ。ごめんなさい、ごめんなさい。いくら謝っても、失くしたものは帰ってこない。だからこそ僕はその罪を忘れてはいけなかった。それなのに僕は。
自分への苛立ちと無力感で全身が力なく震える。母子手帳を抱える右手に、僕はぐっと力を込めた。そしてうさぎの存在を確かめるように、また抱き締める力を優しく、強める。本当は得られなかった優しさを、また。
抱き締める最中、うさぎが僕の持つ母子手帳を見つける。その途端、うさぎは僕を小さな力で押し離し、僕とうさぎの体は再び遠ざかった。唖然として僕がうさぎを見つめていると、うさぎは母子手帳に顔を近づけてその匂いを嗅ぎ、数秒止まった。そして森の奥にまた駆けていく。しかし走り出す前のうさぎの表情には、まだ暖かさが残っていた。
「待って。」
待ってくれ、待って欲しい。置いていかないでくれ。僕はうさぎの後を必死に追いかけ始める。また足を回して、呼吸を乱して。もう一度進み始めた僕を、森は許そうとはしない。小枝も、高草も、土も、走る僕の速度に合わせて、僕を傷つけようとする。痛みが再び僕を劈いた。僕は覚悟を決める。
「ごめん、ごめんね。」
僕は両手を使って草木を掻き分け始める。顔に当たる枝を引きちぎり、足に絡まる高草を蹴り飛ばす。森が僕を止めようとするなら、僕もそれに抗おう。それが僕の、小さな命の権力だ。小動物なりの、とてもささやかな躍動。
前進とは時に残酷なものである。進むことで生まれる犠牲。大事なのは、その後の犠牲たちとの向き合い方なのかもしれない。だから、今だけは、僕が進むための犠牲であって欲しい。ごめんね、ごめんね。
僕に弾かれた森の細部たちがぐったりと地面に転がっていく。僕が進んだ後の道には捥がれた草木、それらが木洩れ日に照らされていた。
うさぎの背中を追う、ただひたすらに、酷く不格好に。僕の息が、かっ、かっ、と途切れながら漏れる。まともに呼吸ができない。体の真ん中が、潰れそうなほど痛い。それでも夢中だった。風に晒される傷口がまたきりきりと痛む。それでも、夢中。
うさぎの先に光が見えた。僕もうさぎもその光に向かって全速力で走り込む。もうすぐで辿り着く、もう触れられる、あの光に。止まるな、止まるな。もう手を伸ばせば。
目の前の光に包まれた瞬間、僕の視界は真っ白で、もはや何も見えなかった。
足を段々と緩め、ゆっくりと止まる。眩しさも少しずつ収まっていく。
そこは木々が丸く開け、森の中の暗さを忘れさせるほどに太陽の光が差し込んでいた。地面も草原を思い出させるような青草が、柔らかく活き活きと上を向いている。その青草の中心に、一輪の白いカーネーションが咲いていた。木々はそのたった一輪を取り囲むように佇んでいる。その姿はどうにも神秘的で美しかった。森は、この場所を大事に守っていたのか。うさぎはあの花の隣で僕を見つめていた。
ここでは微風が吹いていた。
風を吸う、息を吐く。やっとまた大きな呼吸が出来た。ここにいると恐さもない。暖かくて、心地良い。僕はうさぎにゆっくり近づく。あなたはここに、僕を連れて来ようとしたんだね。
「ありがとう。」
一粒、涙が零れた。そのままうさぎの元まで歩く。うさぎはカーネーションの下を見つめていた。分かった、そこにあるんだね。
僕はカーネーションの下の地面を、両手を使って掻きながら掘る。爪に土が入り、手のひらが汚れる。僕はそんな事など、もう気にしてなどいなかった。
草がめくれ、土が砕け、穴は段々と深さを増す。そうして掘っていけば、指先に土ではない感触が伝わった。あった、もうすぐだ。僕はその緊張の中で息をのむ。そしてとうとう、僕は土の中から取り出した。
それは、小さな車のおもちゃと、髪の長い女の子の人形だった。
僕は声にならない声を、震える口から漏らすことしか出来なかった。肩を落とし、うずくまり、頭を地面に付ける。その背中は小刻みに揺れていた。微風はただ吹いている。微風は、その様に悲しむわけでも、寄り添うわけでもなく、ただ吹く。
どうにも動けない僕の頭に、うさぎが体を擦り付けてくる。柔らかくて、暖かい。知らないはずの感覚、本当は得られなかったはずの感覚、こんな風に頭を撫でられて、僕はただ涙を零すだけ。
僕は、本当は望まれていた。生まれることを願われていた。全て僕のせいだと思っていた。だから自分を裁こうとした、あなたの気持ちも知らないで。どうか許して欲しい、そんな自分勝手な制裁を。
僕は俯いたまま、うさぎをまた抱き締める。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あなたは僕を望んでくれたのに、僕は望まれていたのに、僕は、全部自分のせいだって、僕が生まれなければって、そうして自分のことを恨んで、呪って、あなたや、あの子がどんな思いだったか、どれだけ希望を持っていたか、何一つ考えていなかった。苦しさだけに目をやって、どうにも出来ずに自分を傷つけて、僕はずっと弱いままだった。僕はあなたにも、あの子にも会いたかったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
やっと言うことができた。ずっと謝りたくて、ずっと伝えたくて。
「それでも、行かなきゃいけない、僕はまだ。僕はあなたを愛してる、ずっと。もうあなたを忘れることなんてしないから。また会った時には、もう一度こうして頭を撫でて欲しい。もう僕は、行くからね。」
僕はうさぎを地面に下ろし、車のおもちゃと女の子の人形も抱え、ゆっくりとふらつきながら立ち上がる。そして足を前に進めた。いつまでも追いかけていては、僕は僕を生きられないから。うさぎは白いカーネーションの隣で僕の背中を見つめ続けている。
微風が、どうしようもなく暖かい。この心地良さを置いて、僕はまた進む。
草木の前まで来た。僕はもう、振り返ることはしなかった、僕の決心が揺らいでしまわないように。草木の隙間から見える森はやはり暗い。だけど不思議と恐いとは思わなかった。この森も、僕と同じように守るものがあったのだから。
僕は草木を分け、再び森の中に入る。風も、光も、音も消えた。それでも進まなきゃいけない、僕が僕を救うために。僕が、あなたや、あの子に伝えるために。
暗闇に消える背中は、少しだけ大きくなったように見えた。




