草原
何か、大事なものを失くした気がする。
小鳥は鳴いていた。微風が僕の頬を撫で、鼻腔を擽る。それが少しだけこそばゆくて、可笑しくなって目を開けた。僕の掌は柔らかな青草を包んでいる。陽の光を浴びた青草は潤み、暖かく、僕は赤子の手を握り返すようにそっと手を丸める。僕の体は広大な青草の群れの上に横たわっているのだと、五感の信号からじわじわと理解した。微風に靡く青草の音が、僕の体の強ばりを解していき、巻上がった香りはゆらゆらと天に登る。どこまでも高くて、青い空がゆっくりと、斑に置かれた雲を下から上に運んでいる。雲、雲、雲、あいつも、あいつも、右に倣った行進のように規律に則って進む。その雲たちの流れをなぞり、視線を上にあげた。逆さまの一本木の足元、盛り上がった根に誰かが座っていた。少し目を細め、焦点を探る。真っ白な服を着た女の子、だろうか、遠くて顔はよく見えない、だけど、彼女は心の奥深くまで安らぎを与えてくれる表情であったと、ただそう感じた。
静かに吹き続ける微風がどうにも気持ち良い。この時間がずっと終わらなければ良いと思いながら、目を閉じ、僕は深く息を吸った。微風は僕を揺らすのをやめない。「あぁ、ありがとう。」そう言葉が漏れた。目から一粒、涙が流れた。
この先がどうであれ、もういい気がした。今はただこの微風の吹くままに身を委ねていたい。言葉なんか忘れたい。微風の音と呼吸にだけ意識を向ける。風を吸う。息を吐く。全身の力が抜けていく。ただここにいる。ただいきている。それはなんだかこの草原とひとつになった様だった。僕はこの地で生まれ、この地で何十年も生きていたのかもしれない。今ならあの一本木の気持ちが分かる。そう、何も考えてはいないんだね。君もずっと前からそうしてただそこに居ただけ。どうしようと考えようともしない。あるがままでそのままで、ただこの微風を浴びていただけ。それで良かったんだよ、僕も君も。この微風も、あの雲も、この青草も、ただあるだけ。そこにある意味なんて考える必要はないんだ。あれもこれも全てはなるべくしてなった現象なのだ。僕の命も、誰かも知らないあの子の命も、ただここにあっただけ。
風に耽っていた、目を閉じていた。そしてまた息を吸うところ、何かが僕の右足の上に乗った。やけにモフモフとした感触、小動物か、何かが僕の足を木だとでも思ったのだろうか。少し気になってその方を見れば、そこには真っ白なうさぎがちょこんと僕の右足に乗っていた。うさぎか。風、草、空、木、それから動物、絵に描いたような夢心地。これまでうさぎについては特に考えたことはなかった、しかしこう見ると、この小さな丸まりを見ているだけで頬に皺が浮かび上がる。そうは思っても、このうさぎだってただここに生まれ、ここで生きてきただけであって、僕の足に乗ってきたことに意味なんてない。このうさぎが僕の足でひと休みしていても、かじってきたとしても、僕はどうすることもしない。どうしようと考えなくたって、それでいいのだから。もう一度目を閉じ、息を吸う。
「うさぎがフンをしているよ。」
頭上からそう声が聞こえた。僕はえっ、と声を漏らし、また足の方を見る。確かに僕の足にはコロコロとしたフンが三粒ほど乗っていた。うさぎはもう居なかった。僕は軽く足を揺らし、フンを落とした。
「君は木と同じ気持ちになってるんだね。」
さっきと同じ声、僕は頭上を見るため頭を動かす。そこには白いワンピースを着た女の子が居た。恐らく一本木に座っていた子だろう。朗らかな表情は変わらず、長い髪が静かに揺れている。
「え、どうして分かったの、そして君は、」
戸惑いながら僕は聞いた。さっきまでは朧げで見えなかった顔が今はよく見える。どうとも言い難いが、ガラス細工のような雰囲気を纏い、うっすらと消えてしまいそうな儚さがあった。顔の造形はひたすらに美しい。
「あの一本木は何も考えてはいないよ、そもそも考えることも出来ないからね。君はうさぎのフンを振り落としたけど、あの木はそんなことも出来ない。」
彼女は名乗りもしなかった。微笑んだ顔でありながら、どこか説教くさく感じた。誰かも知らないこの子の言葉に、僕はまだ戸惑っている。
「僕はただ何も考えたくないだけなんだよ、今はこうして眠りたいだけなんだ。あ、君もここで横になってみるといいよ、風が気持ちいいからさ。」
「君は人に生まれた。木も、雲も、青草も、そこにあっただけだって思ってる。でもね、彼らは君と同じようにここで横たわって、何も考えず眠ろうなんて考えない。考えることが出来ない。彼らはここで生まれることしか出来なかった、ここで生きることしか出来なかった。君はこの草原でない場所も知ってる。足があって、どこにだって行ける。その中でこの場所に来た。君は人に生まれた。君は選択が出来る。彼らとは違って、選ぶことが出来る。彼らの知らない世界を生きることが出来る。」
まるで僕の話を聞かない。怒られている気分だった。言葉を挟む余地がない。開放的な草原、それに見合わないこの窮屈さ、その違和感が疎ましい。僕は人に生まれた。でもあの一本木たちと同じようであろうとした。それが悪いことなのだろうか。
「ねぇ、君はどうしてここに来たの。」
「・・・」
考えてしまった、思わず。どうしてだろう。どうして僕はこの草原に来たのだろう。何を思ってここで横たわっているのだろう。なぜ涙がこぼれたのだろう。僕は何を失くしたのだろう。
「ねぇ、君は誰なんだい。」
そう聞いても、彼女はまだ微笑んでいる。
僕はなんだか居心地が悪くて身を起こした。別に怒っている訳ではない、しかしどうも彼女の言葉にはここで眠るなという真意が含まれているような気がしてならない。ちょっとだけ、ちょっとだけひと休みしたかったんだ。人として生きることにくたびれた、自分が人であることに疲れた。しかし彼女にそうやって言ってしまえば、また何か言い負かされそうで恐い。
地面に尻を付いたまま、股の間の青草を眺める。この青草たちはただここに生まれた。僕のようにこの場所で横になることも出来ない。そう思うと一気に僕の居場所が無くなった気がした。命の権力、なんて言うことは残酷だが、今の僕はそれを体現していると思った。僕がここで横たわったことも、僕が人であるから成し得たことだ。さっきまでの心地良さはもう無い。
僕はどうしてここに来た。それを考えるほど、視界が霞み、涙が溢れ出してくる。
「なんで、なんでここに。僕はどうして。」
気持ちばかりが昂り、上手く頭が回らない。
「君が失くしたものは何。」
彼女の声が後ろから再び聞こえた。その声はさっきの淡々としたものではなく、どこまでも優しい、温かな声だった。
「分からないんだ、なんでここに来たのかも、何を失くしたのかも。ただずっとずっと息ができない感覚だった。でもここで眠っているとよく息が出来るんだ。そして何も考えないでいられる。ねぇ、僕はもうここに居ちゃいけないのかな。」
「・・・」
「君の側にはもう居られないのかな。」
「・・・」
返事がない。涙を拭い、後ろを振り返る。もうそこに彼女はいなかった。
「あれ。」
呆気にとられ、辺りを見渡す。一面はどこまでも緑、あとは果てしなく青。後ろには少し離れたところにただ一本、あの木が生えている。その木の奥側には森が広がっていた。もうどこにも彼女の影が見当たらない。
彼女を追う目が、泳ぎ泳いであの一本木に集約する。
あの木が呼んでいる気がした。その木の葉は手招きをするように揺れている。ふらつきながら立ち上がる。視界の先端で、あの木以外の全てが歪む。のそりのそりと足を運ぶ。ただ引き寄せられている、ただ誘われている。そこには僕の失くしたものがある気がして。
あの木が魅せる存在感に圧倒され、脈がどどっと暴れた。足が竦んで立ち止まってしまう。固唾を飲んだ。今まで寝転がっていた両の足はばちばちと痺れ、重い。粘土のような感触が足の裏に広がっていた。そこで気づく、僕は落ちていたうさぎのフンを踏みにじっていた。しかしそんな事実は、僕が、この足を留めさせる理由にならない。再び足を前に出す、右、左、地面からはねっかえる自分の重さで、僕は生きていたと、その事実を再び知る。一歩一歩あの木に近づいていく。そうして近づきながら足の裏に伝わる青草の鋭さを踏みしめていく。彼らは一所懸命に上を向いているから、何度も踏めば次第に足には傷がつき、血が流れる。それでも向かうんだ、歩け。木までは、考えていたより距離があった。進むごとに足が震えていく、まだ進むと胃を潰されるような吐き気を覚えた。まるで僕自身が、僕が失くしたものを恐れているようだ。僕が探していたもののはずなのに、それが酷く恐かった。涙はまだ溢れてくる、全身の鳥肌が収まらない。その時、さっきまでの微風は勢いを増した。微風よ、僕に進めと言っているのかい。
風は吹いている、風は言っている、風はいつもただ、だから僕は応えるのだ。木の葉のざわめきが耳を吹き抜け、揺れ、渦巻く。僕は今、届いた。手さえ伸ばしてしまえば、もう足はいらない。そこでは一本木の香りが優しく漂う。あの子の顔が頭に浮かんだ。気付けば風は止み、僕はまた落ち着いた呼吸を戻す。
「久しぶり。」
口が自然とそう言った。木はただ佇んだままで、何も返事はしない。なぜそう言ったのか、僕には分からなかった。だけど、僕がしなければいけないこと、それだけは分かる。
目の前の一本木、その木の、さっきあの子が座っていた盛り上がった根っこ、それの裏側を覗き込む。
「見つけた。」
僕はそこにあった母子手帳を拾い上げる。なぜここに母子手帳があったのか、なぜ僕はここにあることを知っていたのか、何もかも分からない。でも、このままでいい、風が吹くまま僕は。母子手帳を握る手が震えている。やはり僕は恐がっている。それでも、守らなければいけない。
小鳥は鳴いている。また、微風が吹き出した。雲が、青草が、この一本木と共に生きている。そして僕に選べと言っている。だから僕は選び続けなければいけない、進み続けなければいけない。僕はこの母子手帳を恐れながら握り込む。赤子の手を握り返すように握り込む。あの子が誰なのか、少しだけ分かった気がしたから。一番初めに失くしたのは、君だったもんね。
何も分かっていないことに胸の奥が締め付けられる。僕は本当は、全部分かっているはずなんだ。失くしたものも、この場所も、なぜここに来たのかも、あの子のことも。全部分かっているはずなのに、何も分かっていない。だから生きる、だから進む。恐くても。名残惜しく思った、でも、もう、行くからね。
「またね。」
木は返事をしない。僕は木に背を向け、その奥に広がっている森に向かって歩き出す。暖かい、微風はずっと暖かい。巻上がった青草の匂いにつられて、空を見た。相変わらず雲は同じような速さで進んでいる。僕もあの雲たちと一緒だ。僕の顔には笑みが浮かんでいた。木から少し歩いたところで立ち止まり、振り返る。木の葉は微風にゆすられ、僕に手を振っているようだった。
あぁ、あの時もこんな感じだったな。あの時も僕が前を歩いていた。君も一緒に連れて行ってあげようと思って、君の手を引くために振り返った。それなのに君は思っていたよりずっと遠く後ろにいたんだ。そしてそんな風に手を振っていた。僕が君の後ろに居れば良かったのかな、いや、それでも君は僕を突き放したのかな。僕は君を連れて行ってあげられなかった、君を守りたかったのに。君を守らなきゃいけなかったのに。
後悔なんて生易しいものじゃない。これは、僕が僕を。駄目だ、君を置いて歩き始めたくせに、僕が歩くことをやめるなんて。自分への苛立ちを奥歯が受け止める。いや、違う、そういうことではない。僕が歩き続けるのは、僕の後悔を晴らすためでも、今の自分を否定するためでもない。僕が歩き続けるのは、君が見れなかった世界を君に伝えるためでもあるんだ。だから。
また会う時まで、笑顔でいよう。
僕はまた森の方を見る。そして、歩き出す。微風にゆすられる木の葉と一緒に、君の長い髪が静かに揺れていた。




