死ぬ予定だった男
雨だった。
四月なのに冷たい雨で、アスファルトの匂いが夜の街に広がっていた。
男は雑居ビルの屋上に立っていた。
手すりの向こうには、濡れたネオン。車のライト。誰かの生活。誰かの帰宅。誰かの幸福。
全部、自分とは関係のない世界だった。
男――神谷遼、三十二歳。
会社員。
独身。
友人は少ない。
恋人はいない。
貯金は百七十三万円。
人生は、空っぽだった。
ポケットには遺書が入っている。
スマホのメモ帳で書いた簡素な文章を、コンビニで印刷した。
『申し訳ありませんでした』
たったそれだけ。
謝る理由なんて、本当は何もない。
けれど、日本人は死ぬ時に謝るものだと思った。
だから謝った。
雨粒が額を流れる。
手すりを握る。
怖くない。
……いや、違う。
怖い感覚すら、もう薄かった。
疲れ切っていた。
七年間勤めた会社では、毎日怒鳴られた。
「お前ほんと使えねえな」
「なんでそんなミスすんの?」
「空気悪くなるから喋んな」
新人の頃は悔しかった。
五年目くらいから、何も感じなくなった。
感情には容量がある。
壊れ続けると、人間は最後、無になる。
スマホが震えた。
母親からだった。
『元気?』
それだけ。
遼は画面を見つめた。
返事はしなかった。
最後に会ったのは二年前だ。
実家に帰るたび、「結婚は?」「仕事大丈夫?」と聞かれるのが嫌だった。
期待されるのが苦しかった。
いや、違う。
期待に応えられない自分を見るのが苦しかった。
雨が強くなる。
遼は手すりに足をかけた。
終わる。
やっと。
そう思った瞬間だった。
激しい咳が出た。
止まらない。
喉の奥から何か熱いものが込み上げる。
遼は膝をつき、吐き出した。
赤だった。
血。
雨に混ざり、黒く流れていく。
「……は?」
呼吸が浅くなる。
視界が揺れる。
そのまま遼は倒れ込んだ。
遠くで誰かが叫んでいた。
「人が倒れてる!」
その声を最後に、意識が途切れた。
*
病院の天井は白かった。
ドラマみたいだ、と遼は思った。
妙に現実感がない。
酸素チューブ。
点滴。
規則的な機械音。
「気がつきましたか」
医師がカルテを見ながら言う。
五十代くらいの男だった。
「検査結果が出ています」
遼はぼんやり頷いた。
医師は数秒黙ったあと、静かに告げた。
「肺癌です」
遼は瞬きをした。
「ステージ4です」
何も感じなかった。
現実が遠い。
まるで他人事みたいだった。
「転移もあります。正直に申し上げると……」
医師が一度言葉を止める。
「余命は三ヶ月ほどです」
遼は笑った。
喉の奥から、変な笑いが漏れた。
医師が怪訝そうな顔をする。
でも止まらなかった。
三日前、自殺しようとしていた男に、余命宣告。
あまりにも出来すぎていた。
神様がいるなら、性格が悪い。
*
その夜、眠れなかった。
病室には他に患者が二人いた。
一人はずっと寝息を立てている。
もう一人は時々うめき声を漏らしていた。
遼は天井を見つめる。
死ぬ。
本当に。
三ヶ月で。
望んでいたはずだった。
なのに胸の奥が冷たかった。
怖い。
認めた瞬間、涙が出そうになった。
死にたかったくせに。
結局、自分は死にたくなんかなかったのか?
分からない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
スマホを開く。
検索履歴。
『楽に死ねる方法』
『首吊り 成功率』
『睡眠薬 致死量』
そこに、新しい検索が増える。
『肺癌 余命 三ヶ月』
画面には「激しい痛み」「呼吸困難」「終末期」という文字が並んだ。
急に怖くなって、スマホを伏せた。
その時だった。
「眠れませんか」
声。
若い看護師だった。
名札には『朝倉』とある。
「まあ」
「痛みます?」
「……それより、怖いです」
口にしてしまった瞬間、遼は少し驚いた。
自分が素直に弱音を吐いたことに。
朝倉は少しだけ笑った。
「みんなそうですよ」
「俺、死にたかったんですよ」
朝倉の手が止まる。
「でも、いざ死ぬって決まったら怖い」
しばらく沈黙があった。
やがて彼女は静かに言った。
「人って、“死にたい”んじゃなくて、“今の苦しさを終わらせたい”だけの時がありますから」
その言葉が、胸に刺さった。
遼は目を閉じた。
終わらせたかった。
仕事も。
孤独も。
自分を嫌い続ける毎日も。
ただ、それだけだったのかもしれない。
窓の外では、雨が止み始めていた。
けれど遼はまだ知らなかった。
余命三ヶ月という時間が、自分の人生を初めて「人生らしいもの」に変えていくことを。




