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ある地域  作者: にぼし
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肝試しの帰り道

 浅い呼吸と弾んだ心臓が落ち着かないまま震える手で木の扉を押した。中からは温かい空気と珈琲の香り、橙色の優しい照明が流れてきた。

 カウンターに立つ赤い髪の若い男と目が合い、男はすぐに笑顔を作り「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と手をひらりと店内に向けた。後ろで青い顔をしている津田に視線だけ向けると、津田は小さく頷いた。店内はカウンター席とテーブル席があり、カウンターには女性が一人腰かけている。普段であればテーブル席に向かうが、今は自分たち以外の人を求めてカウンター席に向かった。津田も何も言わずに着いてきた。

 カウンターに座ると店主が温かいおしぼりを渡してくれた。歪な形に巻かれたおしぼりは温かく白い花の香りがした。おしぼりの熱が冷えた指先から全身に回り、緊張が少しずつ溶けていった。それは津田も同じだったのか、こころなしか表情が柔らかくなっていた。

「肝試しですか?」

 笑顔で訊く店主に、素直に「そうです」と答えた。津田は隣で小さく頷いている。

「道の先の廃ホテルですよね。あそこからうちまで一本道じゃないですか。だから肝試し帰りの方がよく来られるんですよ」

 店主の低く落ち着いた声が、より気分を落ち着かせた。

「車で走っていたら、ここの看板が見えて。他に明かりがついている場所がなかったので」

 いざ話始めると声は少し上ずり、早口になる。そして再び呼吸が浅くなるのを感じた。

「この地域はコンビニも日付が回る前に閉めちゃうんですよね。そのおかげで深夜は駐車場を借りれるんですけど」

 看板の隣にかけられた紙に「お車でお越しの方は隣のコンビニの駐車場をご利用ください」と書かれていたことを思い出した。それを読んで隣の暗い駐車場に車を停めたのだ。

「ホットココアでお願いします」

 津田が突然声を上げたので、驚いて隣を見ると無言でメニューを渡してきた。

慌ててメニューを見たが文字がうまく頭に入らず「俺もホットココアでお願いします」と掠れた声で注文した。

 店主は手を動かしながらもこちらを気にかけてくれた。それに甘えて胸騒ぎを落ち着かせるように、自分たちの話をした。津田とは大学の同級生であること、自分が先週車の免許を取り、二人でドライブをしていたこと、近くに有名な廃ホテルがあること津田が教えてくれて二人で行ったこと。

「あの廃ホテルって、玄関でオーナーが焼身自殺したんだっけ」

 隣で携帯を触っていた女性が突然声を出した。

「そう、らしいですね」と確認するように津田を見ると、津田は水の入ったグラスをじっと見つめながら頷いていた。

「そのことがあって有名な心霊スポットになったんでしょ」

 店主は話しながら、ホットココアを二つ出し「これはサービスね」と言って一口サイズのチョコクッキーが盛られた小皿をココアの間に置いた。

「ありがとうございます」ここに来て、初めて口角が自然に上がった。

「私にはないの?」

「朝熊さんは焼き立てを食べたでしょ。それも勝手に」

 二人の軽い言い合いを隣で聞きながらココアを飲む。優しい甘さが口の中に広がり、小さくため息をついた。隣を見ると津田がカップを握っているが、その手は小刻みに震えていた。

「まだ怖いのか?」

 声をかけると、津田は一瞬こちらを見てからすぐに目を逸らして顔を歪めた。

「そういえばさ、何か見たの?二人とも怯えた感じで来たけど」

 朝熊さんが軽い調子で訊いてきた。

「多分、見たんですよね」苦笑しながら言い、津田を見ると顔を歪めたままグラスを睨んでいた。

「玄関あたりに行ったとき、人影が見えたんです。驚いてすぐに引き返したからよく見えなかったんですけど、オーナーさんっていうよりも若い男の人に見えたんです。僕らと同世代の。でも僕ら以外に肝試しをしているような車もなかったですし」

 話しながら当時の光景と感覚が蘇り、足に冷たい緊張が走る。朝熊さんと店主は黙ったまま、真顔で聞いてくれている。

「オーナー以外にも、あそこで亡くなった方がいるんですよね。廃ホテルの肝試しに行った学生が自殺したって。車の中で津田にきいた話を思い出して、その人の霊だったんじゃないかって」

「それはないんじゃないかな」

 店主の低い声が冷たく店内に響いた。

「あそこに行って自殺した人は誰もいないよ。俺はずっとこの町にいるけれど、そんな人はいない。そうですよね、朝熊さん」

 店主の声は柔らかさを取り戻し、朝熊さんも「そうね」と言って頷いた。

「だから、きっとそれは見間違いですよ。木か何かの影が風に揺れて人影に見えただけかも」

「違う」

 店主の話を遮るように津田が震える声で呟いた。声をかけようとしたが、津田はこちらを一切見ようとせず、何もない空間を睨みつけていた。まるで俺を視界に入れないようにして。

「あれは、人だった。俺とあいつが驚いてその場で固まっていると、その影が近づいてきて俺の手を掴んで走り出したんだ。そのまま車に向かって、その影は運転席に座ったんだ。それで、あいつの顔をして言うんだよ。「何してるんだ、早く乗れ」って。後ろからは黒い影が走って来て、俺、もう怖くて、車に乗ったんだよ」

 津田の震える声が温かい空気の中に沈んでいく。

「なあ、おまえ誰なんだよ」

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