登場人物紹介①ヨハネス・リヒテナウアー
ヨハネス・リヒテナウアー(Hans Lichtenauer, Lichtnawer)は、14世紀後半のドイツの剣術師範である。彼の生涯についての唯一の記録は、『ポル写本(Pol Hausbuch)(MS 3227a)』(著者は不明であり、便宜上、偽ハンス・デーブリンガー(Pseudo-Hans Döbringer)と呼ばれている)によって書かれたものであり、これはこの流派の最初期の文書と見なされている。その時代に彼が実際に存命であった可能性もある。同書には次のように記されている。
「何よりもまず心得ておくべきは、剣の術はひとつしかなく、それは何百年も前に発見され、発展してきたものであり、すべての剣術の基礎であり核心であるということだ。リヒテナウアー師はこの術を完全に、正しく理解し、修めていた。先にも言った通り、彼自身がそれを発見したり創り出したりしたわけではない。むしろ彼は、多くの国々を旅して、真実で正しい術を見極め、体得するために探求したのである。」
弟子たちはリヒテナウアーを「高名なる師」あるいは「大師(grand master)」と呼び、彼は『ツェッテル(Zettel、「記録」)』と題する長い韻文を著した。この詩は後の師範たちによって注釈を付けられ、教授体系の骨格として用いられた。また、後世の師範たちも流派が発展する中でなお、この詩を引用し続けた。
今日われわれが理解するドイツ剣術伝統におけるリヒテナウアーの影響は、ほとんど計り知れない。パウルス・カールが記した「リヒテナウアー同志団(Gesellschaft Liechtenauers)」の名簿に名を連ねる師範たちは、15世紀の主要な剣術書の多くを著した人物たちである。また、リヒテナウアーの教えは、ドイツの剣術同業組合、すなわち15世紀末に成立し剣術師範認定の独占権を得たマルクス兄弟団(Marxbrüder)や、16世紀後半に登場してその独占を争ったファイター・フェヒター(Veiterfechter)にも受け継がれた。
リヒテナウアーに関するいくつかの事実は、二次的証拠に基づく推測である。『ポル写本』は内部年代が明記されていないが、一般に1390年ごろのものとされ、またしばしばリヒテナウアーの直弟子によって書かれたと考えられている(ただし、これらの説はいずれも議論の余地があり、15世紀の作と見る説もある)。このことから、リヒテナウアーの活動時期を14世紀末に置く根拠とされてきた。
一方で、ハンス・タールホーファーが『MS Chart.A.558』(約1448年)に記録した最初の年代付き『記録』の写本から、リヒテナウアーの活動を15世紀初頭とする説もある。さらに、より古い形態の長剣の『記録』の断片(MS G.B.f.18a, 約1418〜1428)は、H・ベリンガーなる人物に帰されており、これはリヒテナウアーが『ポル写本』に記された旅の過程で学び、後に自らの体系にまとめた教えの一部である可能性もある。
このような年代の幅は、パウルス・カルによっていくらか絞り込まれる。彼は1470年ごろにリヒテナウアーに関係した師範たちの名簿を記し、それを「リヒテナウアー同志団」と呼んだ。
このうち大半は正体不明だが、マルティン・フンツフェルト、アンドレ・リグニッツァー、オット・ユートの三名は、彼らの剣術書の現存最古の写本(1452年、Cod.44.A.8)が作られた時点ですでに故人であった。したがって彼らの活動期は15世紀初頭(あるいはそれ以前)と考えられる。同様に、ジークムント・アインリンクの弟子とされるバイエルン公アルブレヒト三世も、1410年代の教育課程において剣術師範を必要としていたはずである。
これらの時期設定は、『ポル写本』の1390年説と整合しており、リヒテナウアーの活動が14世紀末に始まり15世紀初頭に及んでいたという見解を支持している。
リヒテナウアーの教えは、**『ツェッテル(Zettel,「記録」)**と呼ばれる韻を踏んだ長い詩の形で伝えられている。その内容は、両手で柄を握る「長剣(long sword)」による剣術、馬上および徒歩による決闘術(槍・ランス・スピアを用いる戦い)、剣をハーフソードに構えた甲冑戦闘「短剣(short sword)」、そして短剣による格闘を網羅している。
これらの「難解で象徴的な言葉」は、外部の者が容易に技法を理解できぬよう意図的に暗号化されており、同時に、熟知した者にとっては記憶の助けとなる詩文的符号体系でもあった。
この『記録』は弟子たちのあいだで剣術芸道の核心とされ、ジークムント・アイン・リンゲック、ペーター・フォン・ダンツィヒ・ツム・インゴルシュタット、ルー(Lew)らの師範が詳細な**註解**を著してその教えを解き明かし、さらに発展させようと試みた。
馬上戦に関する詩文のほか、リヒテナウアー流派のいくつかの論書には、**26の「図像(Figuren)」が付されているものがある。これらはリヒテナウアーの二行詩より短い句で構成され、中世的な樹形図**形式で配置されていることが多い。その内容は馬上戦の詩と同じ教えを暗示しており、馬上戦の註解にも引用されている。しかし、この「図像」は『ツェッテル』とは全く異なる構成を持ち、リヒテナウアーの技法を学ぶための別の順序体系を示している可能性がある。なぜ馬上戦のみが詩に加えて「図像」という形式でも伝えられているのかは、現在も不明である。
現存する17点の写本には、少なくとも一部の『記録』が独立した(註解を伴わない)章として収められている。さらに、他にも数多くの写本が、この詩を各種の註解書の一部として伝えている。現存する中で最も長大な『記録』は、いわゆる偽ハンス・デーブリンガー(Pseudo-Hans Döbringer)による註解書に見られるもので、他の版のほぼ二倍の詩句を含む。しかし、この追加詩句の多くは既存の部分の反復や、リヒテナウアー本来の文体とは異なる異質な表現であるため、一般には匿名著者またはその師による後代の挿入とみなされており、原初の『記録』には含まれないと考えられている。他の写本群は、時代を問わず内容・構成の両面で高い一致を示しており、例外はH・ベリンガーに帰される短縮版のみである(この版はハンス・フォルツの著作にも含まれる)。
(wikitenaur より引用)
【本物語における設定】
・物語開始時(1440年1月)に50代。
・身長180㎝超。筋肉質。腹回りに多少肉付きあり
・膝が悪く足をひきずるため、杖をついて歩く。
・ルックスのイメージは、「ウィッチャー3」のゲラルト。
なので台詞が「秋山小兵衛寄りの年配の口調」と「ゲラルト寄りのハードボイルド口調」が混じる。そのうち統一したい。
・フス戦争に長く従事。戦に辟易して、剣客商売に転向。
・1335年まで、ニュルンベルク南側、シュピタール門の近くにて剣術道場を運営
・1337年、ホーホベルク家未亡人ゲルトルートと再婚。以降、ホーホベルク家の家族塔に移り住む。
・上バイエルン=ミュンヘン公をはじめ、複数のパトロンがいる。




