戦闘妖精の怒り
地上に落下したマサキはすでに何も聞こえない。左耳に向かって必死に叫ぶ妖精の声も届かない。体中から煙を上げ、皮膚がひび割れた魔人の体は、すでに全機能を失っている。マサキは最後にアントラセンに謝りたかった。しかし声も出せず、そもそも五感が焼け落ちてしまったマサキには妖精がどこにいるのかすら分からない。
この世界で2度目の死が迫る中、マサキはある人物に話しかけられていた。
「魔人マサキ、ボクの声が聞こえるかな」
何も聞こえないはずのマサキに、その声は届く。聞き覚えのある老人の声、それは魔王ナブラヘイムだった。
「魔王様!なんでココに?」声帯も失ったマサキもなぜか声を出せる。しかし周囲は真っ暗のままだ。
「今、ボクは魂の状態で君に語りかけている。この世界では魂は輪廻するんだけど、まだボクの輪廻先は決まってないから、この場所に留まっている。ボクは魂の状態で、君の戦いを見てきた。君はよくやったよ。よくボクの本体を倒したものだ」
状況はあまり理解できないものの、魔王と再び会話できる機会を得たマサキは、とりあえず気になっていた事を尋ねる。
「魔王様は俺との戦いで、なるべく全力を出さないようにしてましたよね。だから倒せたんだと思ってます」
「あれ?気付いていたのか…… うん。そうだね。システムに操られているせいで手を抜く事は出来なかったけど、やれる範囲でなんとか君を勝たせようとシステムに抵抗していた。でもボクを倒せたのは君の実力だ。それは確かだ」
尊敬する魔王に褒められてマサキは喜ぶ。しかし喜びがあるからこそ、最後に使命を果たせなかった事が悔やまれる。魔王もまた、うんうんと頷く。
「あの蛇と人形はズルいよね。実はその2つは創造神様が作ったものではないんだ。だからボクもその存在を知らなかった。多分、この世界を作るのに協力していた誰かが勝手に用意したものだろう」
マサキもアントラセンも、蛇や人形の情報を持っていなかった。もしかして魔王がそれを隠していたのかと心の何処かに引っかかっていたのだが、そうではなかったという答えを聞いてようやくマサキは安心する。その顔を見た魔王もまた、なんとも言えないような表情で言葉を続ける。
「君を倒した人形だが、あれはもともと、創造神様が作った仮の勇者のようだね」
仮?仮の勇者?マサキには理解が追いつかない。勇者というか創造神がこの世界を作ったのである以上、何が仮なのか?
「この世界は地球の遊戯を参考に創造神様がシステムを作られた。その際に魔王やモンスターたちに勇者の武器がどれほど効果があるか試験するために、仮の勇者である人形を作ったんだ。そして世界ができあがった時に、役目を終えたその仮の勇者は廃棄された」
魔王の説明に得心がいったマサキは頷く。多分、あの人形はゲームで言えばテストプレイヤーなのだろう。勇者の力がどれだけ効果があるかデバッグやテストをするために用意されたもの。そんなところか。しかし一点だけ腑に落ちないところがある。
「え?でもあの人形。眼球レーザーを使ってきましたよ?勇者にそんな武器は無いですよね?」
「ああ、仮の勇者は人間を模したものだから、当然その頭部も人間に似たものが付いていた。その頭部を魔王幹部の眼球にすげ替えたんだろう。そもそも仮の勇者が使っていた武器は強すぎたから、創造神様はそれを使用禁止にしたんだ。その封印されし武器を持った仮の勇者を持ち出した上に、さらに頭部まで改造されている。あれでは勇者だけでなく、ボクのような魔王もあの人形に勝つことはできないだろう。神々の感覚ではイタズラ程度なのかもしれないけれど、あまりに理不尽だよ」
首をおおきく振りながら魔王は嘆く。強すぎて封印された武器に、視覚に特化するように魔族の眼球にすげ替えられた頭部をもつ、仮の勇者であった人形。魔王から聞いた情報をまとめても、マサキには人形を倒す方法が見つからない。
「なぜ、そんなクリアできないような敵を用意するんでしょうか?」
「トリックスターのような神様も中にはいるからね。創造神ビハルト様が心を砕いて作り上げた世界と理だけど、その秩序を乱し世界を破滅させるのを喜ぶ神の仕業かもしれない」
そういって魔王は大きくため息をつく。他人が苦しむのを喜ぶ人間が居るように、創造神が作り上げた世界が苦しむのを喜ぶ神もまた居るのだ。まさかビハルダールの世界がそうしたトリックスター的な神に手を出されていたとは…… せっかく魔王が倒され、次世代への革新が見えたというのに、その目前になって計画が潰されてしまった。いや、計画だけでなく世界そのものが潰れようとしている。ビハルダールの世界は老朽化に伴う廃置間近であり、もう時間がないというのに。
「勇者でも魔王様でも倒せないかつての勇者人形。もし俺の後に次の勇者が現れても、どうやって倒せばいいのか…… いや、それでも次の勇者にあの人形の情報を伝えないと……」
落ち込んではいるものの、マサキも必死に策を練る。自分は死んでしまったものの、アントラセンはマサキの戦いの記録を持ち帰り、次の勇者に活用してくれるだろう。そう考えた時に、マサキの心がぎゅっと縮んで苦しくなる。ああ、自分はもう、あの戦闘妖精と一緒に戦う事はできないのだと分かってしまったから。魔人として生まれ変わり、再び勇者となってここまでアントラセンと一緒に戦ってきた日々は、それこそ本当に大変で苦しかったけれども、それ以上に充実していた。しかしやれることはすべてやったと胸を張って言えるだろうか?その自問にマサキは答えられない。やることはやったが、マサキにはまだ後悔が残っているからだ。自分に与えられた使命を果たすことが叶わなかった。それがとてもつらいし苦しい。もう一度、もう一度だけ、やり直せないだろうか?いや、しかしやり直したとしても、あの人形に勝てるのだろうか?
「おや、そう来るか? なるほど、妖精王の仕業だね? マサキ、その答えは君だけが考えるべきではない。君たち二人が考えることのようだ。さあ、行きたまえ!」
魔王は魂となって魔界を見渡し、勇者と妖精が人形と戦っていた結末を見ていた。勇者が人形に倒され、死ぬ直前のマサキの魂に触れてこうして語りかけてきたのだ。首を傾げるマサキに向かって、魔王ナブラヘイムは笑いかける。
「ボクにはあの人形を倒す方法は分からない。けれど君たち二人なら、何とかなりそうな気がするよ。さあ、あと一息だ。頑張ってくれ!」
その言葉と一緒に、マサキは暖かい光に包まれた。
◇
ふと意識を取り戻したマサキは、気付けば目の前に誰かが居た。顔が近い。お互いの顔が触れるほど近い。いや、触れている。顔のどこか……唇同士が触れている。自分の唇に感じるその柔らかさと湿った何かに気づいたマサキは慌てる。その途端、自分の腹の中に何か苦くて熱い物が暴れているのを感じる。熱い、お腹が熱くて火傷しそうだ。
マサキの様子に気付いた誰かが唇を離す。マサキが呆然として自分にキスしていた相手を見ると、それは人間と同じ大きさのアントラセンだった。半透明で身長が17センチメートルの分霊姿ではなく、アントラセンの本体そのものである。長身で軍服に似たスーツ姿に、耳の上で切り揃えられた茶髪、そして切れ長で美しい目に、整った顔立ち。かつて天上界で、一度だけ見たアントラセンの姿をしっかり覚えていたマサキであるが、なぜ今そのアントラセンの本体が目の前に居るのだろうか?そしてなぜ自分に口吻をしていたのだろうか? ここは天国で、これは自分の妄想が引き起こした夢なのだろうか?
「良かった。回復したようね」
状況が理解できないマサキに説明するように、アントラセンが手にした小瓶を見せる。それは空になった小さなガラス瓶だった。瓶の底には金色の液がわずかに残っている。そしてアントラセンの唇にも、同じような金色の雫が見える。
「これは妖精王様から頂いたエリクサーで、どんな瀕死の状況でも一度だけ完全復活させる霊薬よ。私も半信半疑だったけど、アナタの様子を見る限り、本当だったようね」
自分の唇に残った霊薬を指で拭いながらアントラセンは嬉しそうに語る。その仕草が殊の外に蠱惑的だった。
「霊薬?エリクサー?もしかして俺は生き返った?え?もしかしてアントラセンが口移しで俺に霊薬を?」
生き返った喜びも当然大きいが、アントラセンに口吻された事による混乱もマサキを襲う。しかし問われた妖精本人はケロッとしていた。
「ええ、もうまったく動かなかったから、本体をここに呼び寄せて霊薬を飲ませたけど間に合って本当に良かったわ」
どうやらアントラセンの居た環境や文化のせいか、彼女にとってマサキとの接吻は人工呼吸と同じような扱いである。そうはいっても憧れの存在であるアントラセンの、しかも天上界で一度しか遭っていないアントラセン本体に口吻してもらったのだからマサキにとっては喜びの極地だ。
「体調はどう?まだ戦える?」
そんな混乱しながらも浮かれるマサキに気付かず、アントラセンは心配そうな顔を向ける。マサキが生き返ったとはいえ、状況は何も好転していない。いやそれどころか、人形を倒せない以上、妖精のしたことはマサキが死ぬまでの時間を長引かせただけかもしれないのだ。
「俺が死にそうになっている間に、魔王様の魂に会ってきた。あの人形は仮の勇者だそうだ」
まだ戦闘は終わっていない事を感じ取ったマサキは、気持ちを何とか入れ替えてアントラセンに死の間際に得た情報を伝える。人形の正体、強すぎて封印された武器、そして魔王自身もどうやって改造された仮の勇者を倒せばよいか分からないという言葉。語れば語るほど、マサキには勝算が浮かばなくなる。
「あの人形は、勇者のプロトタイプなのね?」
ところがだ。アントラセンはマサキの持って帰ってきた情報を聞くと、何か閃いたような顔をする。それまで心配と焦りが入り混じったような表情をしていた妖精だったが、今はそれが消えている。それどころか、何か自信のようなものが溢れているくらいだ。そんな眩しいアントラセンの顔に見とれそうになりながら、マサキは尋ねる。
「盟友アントラセン、どうすればいいと思う? 俺には勇者を超える武器を持つあの人形を倒す方法が見つからない」
「僚友マサキ、大丈夫。アナタの持ってきた情報で勝機が見えた。私達2人ならあの人形を倒せるわ」
そう言ってアントラセンは立ち上がりながら自分の腰辺りを叩く。マサキには妖精の言うその勝機に見当が付かないが、アントラセンを完全に信頼しているので何も不安はない。いつものことだ。
「わかったアントラセン。戦闘プランを頼む」
「マサキ。あの人形とこの位置で真正面で対峙し、足を止めてボルテックスを撃ち合って。それを維持しているだけで良いわ」
マサキが復活した事で、いつの間にか人形もまた女神像の手の上からこちらに接近していた。やはり蛇といい人形といい、勇者の存在そのものに反応する対勇者兵器のようだ。仮の勇者の時点で通常の勇者を上回る攻撃と防御を有する上に、頭部を魔王幹部の眼球と交換され、圧倒的な視野と眼球レーザーという隠し武器まで備え持つ恐ろしき人形。最強の武器を持つ勇者を越える、まさに世界最強の兵器である。
しかし人形がマナに起因したモンスターではなく、元は仮の勇者であると聞いた以上、アントラセンには策があった。
実体化した状態のアントラセンはマサキを地面に残したまま、背中の羽を使って華麗に空を飛ぶ。人形の眼球は勇者であるマサキだけを見据えており、マサキから離れていくアントラセンには何も意識を向けなかった。そしてマサキにある程度の距離まで近付いた人形は、右手を持ち上げてレーザーシャワーを放つ。
「ボルテックス!」
アントラセンに言われた通り、マサキはその場を一歩も動かずに、ボルテックスを発動させる。赤い爆炎がマサキとその周辺を包み込み、人形の放った光のシャワーを打ち消す。そのままマサキは右手のギガフレイムを人形に向かって放つが、人形もまた左手を上げて黒い爆炎を解放した。
マサキが動かない以上、人形もまた立ち止まっている。およそ3秒が経ち、マサキのボルテックスが消える。それに合わせるように、黒い爆炎が薄れて中から人形の姿が現れる。何度も繰り返された攻防だが、ただ一つだけ違ったのは人形の黒い爆炎が届かないギリギリの位置に実体化したアントラセンが居たことだった。
分霊状態の妖精は事物に干渉する事はできない。マサキに口移しで霊薬を飲ませるために、アントラセンは実体化を使って本体となった。もともと天上界の管理者である妖精が地上や魔界で本体になるのは特例である。今回、勇者を蘇生させるための本体化だったが、アントラセンはその僥倖に感謝した。
妖精は勇者のパートナーであるが、勇者のような武器を持たない。そもそも妖精は天上界にのみ住まう種族であり、地上の生物に干渉や影響をしない存在である。魔界に妖精が顕現したとはいえ、人形にとって打倒すべき相手は勇者であり、妖精は対象外である。妖精アントラセンが数メートルほどまで近付いてきても、仮の勇者でもあった人形は何もしようとはしなかった。人形には感情も魂も無く、ただシステムに倣って動く文字通りの人形である。トリックスターに与えられた使命に従い、勇者を抹殺すべく、右手を上げて封印武器であるレーザーシャワーを放とうとする。
そんな人形の行動を忌々しげに睨みながら、アントラセンは脇から拳銃を取り出した。かつて地球で7歳の誕生日に、護身用として父親からプレゼントされたG社製の拳銃である。その銃は隠匿性と携帯性に優れたもので、人間だった頃のアントラセンは丸10年に渡り、この拳銃を常に身につけていた。体を洗うときも寝るときも必ずこの拳銃を手に届く場所に置き、毎日メンテナンスを欠かさず、アントラセンにとってまさに体の一部であった。
妖精に転生した後も、このG社製の拳銃だけは一緒に持ち込んでおり、毎日の銃の清掃はアントラセンの日課であった。特に戦闘妖精として戦果を上げた暁には、報奨として地球からこの銃用の実弾を取り寄せていた。この世界の魔王や幹部のような巨大な質量を持った敵には、僅か直径9ミリメートルの銃弾が持つ破壊エネルギーなどほとんど効果はない。せいぜい、着弾のインパクトによる瞬時的な目眩まし程度にしか使えないだろう。この世界で効果がないと分かっても、それでもアントラセンにとって人間時代の守り神であり父親の形見でもあるこの拳銃を手放す事はできなかったのだ。
このビハルダールの世界で戦ってきた相手はみな拳銃が効かない化物ばかりだが、しかし最後の敵である人形はこの世界の創造神が作成したプロトタイプの勇者だという。勇者は右手にレーザー光、左手に爆炎攻撃を有し、自在に空中を駆ける能力を有する。その最強の武器と移動能力を持った人形ではあるが、勇者が人間である以上、仮想勇者である人形もまた人間と同じ大きさと耐久力で設計されている。そしてこの世界も正しく物理現象が働いている。相手が人間を模したものであれば、対人間兵器である拳銃が効くはず、アントラセンはそう考えたのだ。
戦場で生まれ育った彼女は戸惑うこと無く銃のセイフティ解除とスライド操作を行い、両手で構えて狙いを定めトリガーを絞る。その動作は流れるようにスムーズで、二秒足らずの出来事だった。アントラセンの握るグリップの弾倉には17発の弾丸が装填されている。10年に渡る相棒である拳銃はまったく造作もなく持ち主の期待通りに撃発し、その銃口から直径9ミリメートルの弾体を飛翔させた。弾の発射に合わせて拳銃からの反動がアントラセンに生じるが、それをきちんと両腕と肩を使って緩和させると、短い間隔でトリガーを動作させて、次弾を発砲する。パン、パン、パンと火薬の爆発音がリズミカルに響き、地面に空になった薬莢が落ちていく。
「ワーヒ,イスン,サラン・・・」
アントラセンはまるで歌っているかのように、撃った弾数をかつての自国語で小さく口ずさみながらトリガーを動かしていく。
初弾と次弾は人形の頭部である眼球のど真ん中に見事に突き刺さり、衝撃波で虹彩までグズグズに砕いた。3発目を首に当てると、人形の頭部が激しく揺れ、構えていた両方の腕が力を失ってだらりと下る。マサキに向けられていた人形の殺意が薄れたのをアントラセンは感じるが、しかしまだ油断はできない。人形の急所が分からなかったため、アントラセンは少しずつ着弾点をずらしていく。
「アル,ヘイム,スイ・・・」
アントラセンの放った4発目から6発目の弾体は胸と腹部に当たり、のっぺりとした人形の胴体に小さな空洞が生まれていた。しかし人間と違って、血やそれに代わるような体液は出なかった。
頭部と胴体を撃たれた人形はすでに動きを停止しているが、人間と違って無力化したかどうかは見た目では分からない。父親や軍の先達から、敵に銃を撃つ時は必ずとどめを刺す事を徹底的に教え込まれたアントラセンは、ターゲットである人形が明確に戦闘不能となったと判明できるまで、弾を撃ち続けた。
「サバ,マリャ,ティサ・・・、アシャ,ワーヒ・アシャ,イス・アシャ・・・」
7発目から9発目は人形の右腕を、10発目から12発目は人形の左腕を撃ち抜く。人形の腕は意外と細かったが、9ミリメートルの弾体は貫通せずに、その人形の腕の内部に留まった。それはつまり、弾体の持つ運動エネルギーがすべて人形の内部で破壊エネルギーに転換された事を指す。もし人間であれば、腕の筋肉や骨までバラバラに砕けていることだろう。
しかし相手は創造神が作ったプロトタイプ勇者であり人間ではない。アントラセンは集中を切らさず、13発目から2発ずつ、人形の太ももとくるぶしを確実に撃ち抜いた。
「ヘイム・アシャ,スイ・アシャ!」
自国語で15、16を数えきり、拳銃の中に残っている弾丸は最後の1発となる。アントラセンに五肢すべてを撃ち抜かれた人形は、グラグラと体が揺れる。そしてすべての関節が力を失ったのか、吊り糸が切れたかのように体を折り曲げつつそのまま地面に向かって自由落下し始めた。どうやら脚部にダメージを受けて、勇者の力である空中浮遊能力を失ったようだ。相手が人間であればオーバーキルであるが、アントラセンはまだ足りなかった。
「サバ・アシャ! ディム・ディ・アーレ!」
アントラセンは人形を追って空中を駆け下り、そして拳銃に残った最後の一発を、男の急所である股間に撃ち込んだ。父親から、武器を持っていない時に男に襲われたら真っ先にそこを狙えと言われた部位である。実際、アントラセンは父親の危惧した状況に陥った時に、容赦なく男の股間を拳で思いっきり殴って窮地を脱した事がある。
パートナーであるマサキを一度は瀕死に追いやった人形に対して、そして魔王とマサキの積み重ねてきた努力を台無しにしようとする人形に対して、アントラセンは怒り心頭であった。本人は表面的には無表情のつもりで居たが、内心では腸が煮えくり返っていた。怒りを弾体に込めて、憎き人形に17回の鉄槌を落としたことで、ようやく彼女の激情は鎮火しつつあった。
人形は17個の弾痕と所々がひび割れた無残な表面をさらけ出し、地面の上で手足があらゆる方向に投げ出されている。それをアントラセンが冷たい目で見下ろしていると、そばに近付いてくる気配を感じた。妖精が視線を人形からマサキの方に移すと、当の本人はなぜか内股の変な格好で向かってくる。何故そんな姿勢なのかという疑問は浮かぶが、まだ人形を倒したわけではないので、質問の代わりにマサキに指示を出す。
「マサキ、人形にとどめを」
了解、と一言だけ返したマサキは、すぐさま右手を目の前に横たわる人形に向け、レーザー光を放った。両腕を含む全身を銃で打たれた人形が、マサキの右腕に宿った光に反応して左手をギシギシと音を立てながら持ち上げる。黒い炎で防御しようとしている様子であるが、しかし弾痕と亀裂が刻まれた左腕からは何も生じない。そのまま抵抗もできず、人形はマサキの放った光に焼かれ、あっという間に全身を赤い炎で包まれた。
アントラセンが油断しなかったように、マサキも残心を保ったまま、いつでも回避できるように構えつつ、燃え盛る人形から視線を外さない。プロトタイプ勇者だった人形は、レーザー光に焼かれながら最後に少しだけ体をくねらせたが、しかしそのまま意外にあっさりと燃え尽きた。
灰色の炭と化した人形を見て、ふん!とアントラセンが荒い鼻息を立て、手にした銃を再び腰に仕舞う。どうやら銃と一緒に妖精の怒りも収まったようだ。しかし今まで見たことのない鬼のような表情をしたアントラセンが、人形に一度に17発も銃弾を撃ち込んだ様子を見ていたマサキは、まだ少し怖くて妖精の顔を真正面から見れない。特に戦闘妖精の最後の一発が人形の股間を穿った時、マサキは文字通り自分の急所もヒュンと来たのだ。
そうして時間が経ち、人形から立ち上っていた煙も消えた。黒い炭だった人形も完全に燃え尽きて、今は白い灰が入り混じっている。アントラセンが乱暴にその炭の塊を足で蹴ると、バラバラと空中に塵が広がった。
「どうやら完全に焼失したみたいね。あと私も時間切れ、分霊に戻るわ」
マサキを横目で見つめていたアントラセンは、再び分霊の姿となり、そのままマサキの左肩に立つ。こうして真のラスボスであろう人形が倒されたが、特に大きな変化は見えない。ただ魔王が倒された後に残っていた不吉な雰囲気はすでに消え、不思議な静寂だけが辺りを支配していた。
さてどうしようかと周囲を見回していたマサキは、ふと何かの声を聞く。実際には何も聞こえないが、なぜかそこに行けと言われたような気がしたマサキは肩に妖精を乗せながら、宙を蹴って女神像の顔の前に駆け上がった。
このビハルダールの創造主である女神ビハルトの姿を模した巨大な像、その顔は相変わらずイタズラっぽさを讃えている。先ほどまで怒り心頭だったアントラセンは今は落ち着いているようだが、逆にマサキは女神像の顔を見ながら不愉快さがこみ上げてきた。
魔王を倒せたのも魔王自身がマサキを魔人として蘇らせ、裏切り者に仕立て上げて勇者にしたからであり、最後の敵である人形を倒せたのもたまたまアントラセンが拳銃を持っていたからである。どちらが欠けてもマサキは3度目の死を迎えていただろう。地球のシューティングゲームを参考にしたというが、だったら誰でもクリアできるような難易度にしろとマサキは言いたい。アントラセンが居てくれたおかげでどんな理不尽な目に遭ってきても何とか乗り越えてきたが、こうしてクリアすると達成感よりも製作者に対する怒りの方が強くなってしまう。
とはいえ、念願だった使命を達成する事ができた。みんなの協力あっての事であり、マサキは心の底に澱んでいた負の感情をやっと拭い去る事ができた。この世界を停滞させ、マナの循環を妨げていたシステムが刷新されると同時に、マサキの澱もまた洗い流され始めようとしていた。
女神像が段々と金色に輝き始める。マサキやアントラセンには分からなかったが、女神像からは聞こえない声域で金色の光とともに祝福と労いの言葉が二人に掛けられていた。もしマサキにその声が聞こえていたら、こう答えていただろう。「激ムズのクソゲー作ってんじゃねぇよ!」




