67 休憩時間と夜の訪れ
「もう疲れたーっ!」
「音を上げるのが随分早いな」
昼の食堂では、俺が綺麗になった机にでーんと突っ伏してる図がご覧になれます。キッチンではシェンユゥがでっかいフライパンに何かの木の実や肉を放り込みながら勢いよく焼き上げてる様子が。
そしてキッチンのカウンターでゾイが頬杖をついたまま俺を呆れたように一瞥する様子も。…明らかに馬鹿にしてる目だぞあのオールバック野郎…。
昼までの大掃除では、俺もシェンユゥももうバリバリバリバリ働いた!俺なんてこんなに一生懸命掃除するのはいつ以来かってぐらい、そりゃもう、それはそれはもう!シェンユゥはやっぱり黙ってるけど、目が少しずつ曇っていくし…。
これはまずいぞと思って時計を探すと、シェンユゥが懐からスッと懐中時計を取り出して見せてくれた…その頃にはもうちょうどお昼!
はぁー、と大きなため息をついてから、掃除してた部屋をある程度までなんとかしてやっとお昼ご飯なわけなんだけど…。
食堂ではすでにゾイが待っていて、見るからにへとへとな俺たちにぶっと吹き出しながら笑ってたりで、…もう俺の体力はない。もうなんか、体力ゲージが赤色になってる気がする。
疲れ切った俺は机に体を投げ出し、シェンユゥはパチッと瞬きをしてからキッチンにすぐ入って行った。多分あの瞬きには、さぁもう一仕事、という彼なりの気合いを入れる気持ちが込められてたのかも。
「どうだ、片付きそうなのか?」
「3階はもうほとんど完璧。けど、もう昼から他の階なんて掃除する気ねーよ…また明日。明日は他の階を掃除するつもりだけど、そういやこの一階も客室があんの?」
ゾイが面白がるように犬歯を見せてニヤッとするのに、俺はまた疲れから出たため息を盛大に吐き出しながら答える。食堂にはだんだん香ばしい料理の匂いが漂ってきた。
ゾイは俺の質問に、そうだな、と視線を天井に上げた。
「この一階はここ、つまり食堂とシェフの控室…まぁこれからはシェンユゥの部屋だ。その他に元は宿泊していた客が困った時に助けるヘルパーや使用人が控えていた『案内所』があるな。今はホコリ被ってるが。
あと、ぶっ壊れた大浴場。けど閉鎖の札を立ててるから、別に掃除はしなくていいぜ。と、倉庫もあったか。つか、空き部屋ほとんど倉庫にしたんだったな…」
「それ、何年前の話?」
「倉庫か?俺がまだ『先代』だった頃だ…あれはグラーヂスのときか。そうなりゃ五百年ぐらい前か…?」
「…」
俺氏、閉口。誰だよグラーヂス、あ、ゾイの持ってる『記憶』か。じゃあ魔王が『ゾイロス』のときじゃなくて、もっともっと前の人だった時なのか…って、五百年前!?倉庫に何入れたんだよ、食べ物なら腐ってるどころか砂になってんぞ!
思いを馳せるように黙り込んだゾイが、遠い目で天井を見ている。赤い目がゆら、と揺れると少し違う色になったように見えて俺は少し息をのんだ。
「…そうだ。グラーヂスだ。確かあんときは部下に作らせていた魔武器と魔鎧を倉庫に放り込んでて…、思い出した。ありゃ不良品の山か。…処分しねぇと」
「ゾイ?」
「んあ?…あぁ、そうだったな。話の途中だったか…。一階の倉庫は4部屋ぐらいあるが、どれも不良品の魔装備がしまいこんであるのさ。トルメルさんが掃除する必要はねぇよ」
「魔装備…って、魔武器とか?魔剣とかだよな?」
「今は職人もメッキリ減ってレア物だぜ。けど、倉庫にあるのは下手に使えば暴発する不良品だ、また暇ができたら俺が処分しとかねぇとな。あー、めんどくせ」
ま、魔武器!それを聞いて真っ先に思い出したのはやっぱりニコラの剣だ。あのエッケプレのくじ屋で引き当てた、正真正銘本物の『闇の魔剣』!ぶしゃー、って闇の魔力を可視化して吐き出してるでっかい剣!
そりゃ人間の世界でも、いや盗賊界や闇市でもレアな代物なんだ。…ふ、不良品と言っても治せるんじゃねーの?俺、いいこと聞いたぞ。倉庫にこっそり忍び込んでササッと治して市場に横流しすれば…。
と良からぬことを考えたのがばれたのか、ゾイの低い声がつららのように俺をぐさっと刺し貫いた。
「倉庫の鍵いじんなよ。勝手に触って壊そうとするか許可もなく解除しようとするとすぐに俺に知らせが来るからな。全身氷漬けにしてトルメルさんも倉庫に放り込むぞ」
「や、やだなぁー!この正義感に溢れててどこからどう見ても善良市民なこの俺がそんな盗みに入ろうなんて考えるわけないじゃんかー!」
「…」
「…シェンユゥくん、フライパン動かして。そんな疑うような目で俺を見つめないで」
シェンユゥ、何か俺に気づいてるぞ。さすが千里を見通す目だ。俺の背中は多分冷や汗でいっぱいでぐっしょりなってるだろう…と背中に手を伸ばしてると、ゾイが静かに言った。
「…言っておくのを忘れたが。トルメルさんの『記憶』は全部、昨日の夜に確認させてもらったぜ。盗みは前科があるらしいじゃねーか」
「うげ。プライバシーの侵害だぞ。…………えっ!?勝手に見たのか!!?俺の、俺の記憶!」
「覗いただけだ、記憶操作はしてねーよ。まぁ、本当はしたいところだがそれは禁術だからなぁ…ちっ、残念」
…。…ぎゃああああ!何をサラッと!俺の、俺の俺の大事な…うわああ!マジかよ!何、盗賊時代も?間抜けにもニコラに捕まったところも?シルのこととか、聖セレネ行きの旅とか、もう何でもかんでも?
…なんつーか、それはそれで恥ずかしい。けど魔王だからね。絶対何か仕掛けてるのかなとは薄々思ってたよ。だからこれ以上ツッコまないよ。ただ…覚えてろこの覗きオールバック野郎!
ていうか、さっき記憶操作とか聞こえなかった?真顔で俺がゾイを振り返ると、ゾイが手をひらひらと振った。
「記憶を覗くのは高度な魔法な上に発動条件も厳しいから、そう易々と他人にされるもんじゃねぇ。俺だからやったんだ、安心しやがれ」
「何が安心しやがれだ、一番不安な相手に一番大事なもん見られて心穏やかにしてられっか!…つか、記憶操作って…」
「禁術だ。魔法にも禁術があんだよ。原理はできていても現実に叶えられないものや、魔法は出来上がっていてもルールとして禁じられたものが。記憶操作は後者だ。破ると俺でも手痛い罰をくらうだろう」
「…どんな?」
「考えたことねーな。適当にトルメルさんの記憶を操作して、ここから出て行く理由を失くしちまえば手っ取り早いのによ。監視係もいらなくなるどころか、お前が俺の右腕になったりな」
そりゃ嫌だ。禁術でよかった。俺は表情を険しくするだけで何も追及はしないことにする。…普通に考えれば、そうだよな。俺の記憶を操作できるなら、ゾイや魔族にとって都合の悪い記憶を俺から排除しちまえばいい。
俺がトルメルだってことも、人間の世界に大事な人たちを残してきたことも、全部全部。それで俺が魔族の皆を慕っている、そんな記憶を植え付けたら俺だって出て行こうとは思わないはずだ。
「つっても、嫌なことを一時的に記憶の中でぼかしたり誤魔化すような魔法はあるからな。けど、それはイタズラレベルで、誰かの人生を左右するようなもんじゃねぇ」
ゾイがそう独り言のように低い声を食堂に響かせたとき、ちょうどシェンユゥの料理が出来上がった。不思議な匂いの野菜炒めだ…これはスパイスかな。色とりどりの野菜、木の実、肉がサッと強い火力で焼いてあるらしい。
ふわりと香る異国風の匂いに思わず涎をこぼしそうになりながら、シェンユゥが見守る横でフォークを動かす。…熱っ!けど…美味い!やっぱり魔界で暮らしてたら料理に対する意識が少し変わりそうだ…!
シェンユゥに礼を言うとすぐにシェンユゥが目をぱちぱちさせる。一文字の口が小さく開き、ぱくぱくと魚のように動いた。…なんだろう?
そのままシェンユゥは不思議そうにしてる俺を残してまたキッチンに戻っていく。サァァ、と流しで洗い物を始める音がして、俺はますます首をかしげた。
「…うん?」
「…シェンユゥが、ありがとう、だとさ。あれで照れてんだよ」
ゾイが俺の座ってるところの近くの席にきて、荒っぽくガタッと座る。シェンユゥの必死に料理道具を洗う姿を見ながら、ゾイが口元を緩めた。
「あいつな、…城の魔族には好かれてねぇんだ。千里を見通す目だ、魔族の中でも数少ない一族で世間からは疎まれてる。先代の俺、つまり魔王が奴隷市で売られてたあいつを買ったんだよ。先代の俺は純粋にあいつを哀れに感じてな。
俺…『ゾイロス』がシェンユゥの存在を知ったのは肉体保護結晶で意識だけ存在してた時からだ。孤独に見えて、覚えていた。…あいつは強い奴だ、だから弱い」
「…どういうことだよ?」
「ガードが固い分、気を許せば脆い。シェンユゥは俺のことも信頼してくれてるようだが、トルメルさんのことも随分気に入ったらしい。…裏切ってやらないでくれ」
「…」
最後の言葉はきっと、『魔王』の言葉じゃなかった。あれは『ゾイロス』の言葉だ。…シェンユゥ、そんな過去があったんだ。ゾイはその孤独を知って、共感したんだろうか。
シェンユゥはでかい鍋を洗い終えて、額から流れる汗を拭っている。朝に見たときは表情なんてないように見えたけど、今はそうは見えない。いい奴だ、…シルやミンミみたいに。同時に、『ゾイロス』もいい奴なのかも、と思う自分がいる。
俺はぱく、と肉を口に放り込みながらゾイに笑ってみせた。
「やめろよ。俺はこの城を絶対に出ていくんだから。お前が俺の記憶を覗いたなら分かってくれるだろ?」
「承知の上。元より逃がす気はないがな。こうやって精神的にもトルメルさんを鎖につないでおくっつーわけだ、なんたってトルメルさんもずいぶん甘いお子様のようだしな」
つまんねぇことをぬかす魔王だ。けど、キッチンでテキパキと働くシェンユゥを見てると何も言い返せない。かきこむように皿の上の料理を平らげると、ゾイがさっきまでの真面目な表情をふざけたニヤニヤ笑いに変えていた。…何だよ?
「んだよ、何か変か?」
「いーや?それよりも気になることがある。お前の記憶に登場した黒髪の剣士」
「っ!?ゲッホ、…ゴホッ!やめろよいきなりほんとにもう!むせた!」
水っ!冷たっ!ええい気にしてられるか、と俺は一気にグラスの水を飲み干す。あ、あぁもう吹き出すところだった!なんだっていきなりニコラのことを持ち出しやがるこのクソ魔王!俺の睨みにゾイが大きく吹き出した!
「ふっ!突然態度が変わったじゃねーか」
「るせぇ、むせただけで何言ってやがる!皿投げんぞ!それであのバカ黒髪野郎がどうしたって!?」
「あいつ、魔剣を持っていたな。…あの魔剣は随分前の先代の魔王が趣味で作った闇の魔剣だ、使い心地を聞いてみたいもんだと思ってな」
「…へぇー。あいつ、あの魔剣気に入ってるみたいだったぜ」
俺は頬杖をついてジト目でゾイを見る。あの魔剣、まさかの魔王お手製かよ。こりゃやっぱり売りさばくしかないな、と頭の端で考える。そんな俺の横で、ゾイがハッと笑った。
「そりゃいい。あとは…あいつの使っていた魔法。バラド・ドゥーアという魔法だが、これは闇魔法の中でも最上級に近い高度な技だ。よくあんな若造が使えるもんだと思ってよ」
「騎士団じゃ他にも使えるやつがいるって聞いたけど。そんなにアレすげぇの?」
バラド・ドゥーアといえばアレだ。俺が町の中でスライムに捕まってた時にニコラがぶっ放した、なんか強すぎて俺にもよく分からなかった魔法。確かに上級魔法だってニコラもジャッテも言ってたけど。
俺が首をかしげてる横でゾイが、そりゃまぁ、と頷く。
「魔族が使うとしても素質を選ぶぐらいの上級魔法だからな。素質のある人間でも40年は研究するだろうよ、けどあの剣士はまだ若いだろ?」
「ニコラ、21だっけ」
「ニコラ、っつーのか?人間にも骨のある奴がいるんだな。気が合いそうだぜ」
気は合うでしょうね。俺はニヤッと犬歯をむき出しにするゾイの横を真顔で立ち上がってシェンユゥに空になった皿を渡しに行った。…確かにゾイとニコラって似てるかもな。ゾイの方が荒っぽいし態度悪いけど。
ニコラなら相手が魔王だと知れば逆に喜んで立ち向かっていきそうだから恐いんだよな…あんの戦闘バカめ。つか、若くしてあの筋肉ゴリラで魔王も驚く魔法の素質持っててモテるイケメンだもんな。
「…爆ぜろ馬鹿!」
「…?」
「あ、ごめん、シェンユゥじゃなくて別の奴のことだから!」
「……??」
久しぶりにニコラに対して腹が立ってきたから思わず叫んじゃったけど、目の前にいるのはそんなバカニコラとは違う健気なシェンユゥ!そうだ、シェンユゥはニコラと言うよりはシル側だ、仲良くしていける側なんだ!
シェンユゥが心底不思議そうに目をぱちぱちさせてるのを俺は気まずい思いで見ながら、一瞬閉じた瞼の裏にどうしてもあの馬鹿黒髪騎士を思い出さずにはいられなかった。
―――…ニコラ。俺、遠くにいるんだ。
届くはずもない心の声は、俺の中でロウソクの炎が消えるようにふっと淡く小さくなってしまった。
**
午後はシェンユゥとケーキ焼いた。食べた。美味しかった。
……え?えらくサッパリしてないかって?そりゃそうだよ…もう俺には騒ぐ元気なんて残ってないんだってば。午前の片付けの疲れがズシーンと体に残ってんだ…それに、いよいよここでの環境に現実味が帯びてきたらしい。
じわじわと体がおもーく感じてきて、これはいよいよきたか…と思ったのがケーキ食ってる頃。まだ昨日はいきなりここに連れてこられたことに頭が追い付いてなかったけど、だんだん俺の体も頭もやっとこの状況を理解したみたいだ。
そしたらなんか一気に疲れて…。あぁー、今日はよく寝れる予感がするぜ。
ケーキ作るときも、見たことないような木の実とか材料に最初はわくわくしてたんだけどだんだん疲れてきて。それでも心なしか張り切ってるように見えるシェンユゥにはそんな態度を見せない!それが俺の心遣いだ!
てなわけで。もう食べ終わる頃には疲れがどっと体に押し寄せて、最初はその不思議な味と絶妙な甘さにウオオォォと叫んでた俺も最後はもくもくと食べてた。
まるっと1ホール焼いたから、さすがにそれをシェンユゥと俺だけで食べきるわけにもいかず。昼飯が終わった後この棟を出て行ったゾイもどうせ夜にはまたこっちに来るだろうから、余った分は残しておくことになった。
すっかり満腹の、まだ夕方には遠い昼。疲れ切った俺はシェンユゥにキッチンの後片付けを任せて一眠りすることに…。うん、寝よう。なんかもう…今は何もできる気がしない。珍しいだろ、この俺が!こんなにグッタリだ。
ひやっと冷えてる廊下を裸足で歩く。そう言えばここに来てからずっと裸足だ、また靴も借りないと。服も…、と生活的なことを考えながら薄暗い廊下の先を見つめる。
「…俺、いつまでここにいるつもりなんだろ」
小さな声もふわんふわんとよく通って反響する、静かな廊下。ため息とともに吐き出された俺の言葉は力なく、まるで俺の声じゃないみたいにも聞こえた。
**
…がばちょ。
…ん?俺、…あれ?
俺は勢いよく布団から体を起こした。爽やかな風が窓から入り込み……って、窓、開いてるじゃんか。見渡すと、俺が借りてる部屋だ。明かりはついてなくて、部屋の中はもうほの暗い。夜、か。
うっかり寝過ぎたらしい。昼寝のつもりで夕方には起きようと思ってたけど、こりゃ完璧に夜だ。あ、時計この部屋に置いてもらうの忘れてた!くっそ、今何時だよ…。
闇に慣れてきた目でもう一度部屋を見回す。明かりをつけるためのヒモを引っ張るか悩んだけど、どうせまた寝るんだから、とそのままにしておく。ゆっくりとベッドから足をおろし、部屋の中を確認した。
部屋には俺のほかに誰もいない。けど、机の上に菓子パンがいくつか置いてあった。それと、メモ。薄暗い中目をこらして見ると、わりと綺麗な字で『食っとけ』と書いてある。夕食をゾイが持ってきてくれたんだろうか。
もっしゃもっしゃとパンをかじる。…このパン、干しブドウのパンだ。シエゼ・ルキスのパン屋でもおなじみの…。慣れ親しんだ味にちょっと手を止め、またもっしゃもっしゃとパンをかじる。
そのまま窓辺へ静かに歩いて外を眺めた。昼間見えた景色が、どこの世界にもおとずれる『夜』に様変わりしている。夜風に揺れる花、星明りに照らされて荘厳にも見える城壁、ゆらゆらと波打つ小さな噴水。綺麗な庭だ。
すっと窓の外へ手を伸ばしてみると、バチッと電気にはじかれたように刺激が走る。…あー、やっぱ窓が開いても外が見えるようになっても結界は張ってんのか。だったら最初からこの結界張っとけばいいじゃねーか、もったいぶりやがって。
よく見える景色、けどその外にはいけない。半ば諦めに似た気持ちがもやーっと心に浮かぶのを感じながら、パンの最後の一口を放り込む。…うん、美味い。
綺麗な星空を見る限り、まだ朝の訪れには遠そうだ。けどすっかり眼が冴えてきたから、なんか寝る気にもなれねーや。ふぁぁ、とあくびを一つ、んで体をぐいーっと伸ばした。
そうだ、今のうちにこの棟の中を探検してみるか。まだこの階以外、ろくに見て回ってないし。けど、…真っ暗だよなぁ。…何かこう、何かあったらどうしよう。
「…なーんて、何ビビってんだか!そうだぜ、俺は暗闇を駆ける元天才盗賊様だっての、昼より夜のが似合ってら」
ぱし、と頬を叩いてから俺は部屋の棚という棚をひっくり返した。残念ながら役に立ちそうなものや武器になりそうなものはなかったから、何かマズいヤツに出会っちゃったら全力で逃げることを心に誓っとく。よーし、冒険だ冒険!
しっかり目が覚めちまった。俺は静かに音をたてないように部屋を出て、廊下に出る。いつもついてた廊下のランタンはこんな時間でも灯りがともってて、ちょっとだけ心強い。…え、だからビビってないってば!
しばらく夜型じゃなかったからまだ感覚を戻せてないだけで…。言い訳すんなって?はいはい分かってますよ。正直なところ恐いんですよ部屋からいきなりバターン!って魔物が出てきたらどうしようって…!
――バターン!
「きょあああああっ!?」
と、と、と、突然何だコラ!?変な声出たぞコラァ!?慌てて口を押えて、どっからか聞こえてきた『バターン!』に耳を澄ます。完全引け腰だけど気にしてられっか!
…けど、それからはシーンと静まり返ってる。な、な、なんだよもう脅かしやがって!この恨みはココム海よりも深いからな…!大方どっかの部屋の扉が風で閉まったんだろうけど……あー!心臓に悪い!
ひ、ひとまずだな。冷静になれ。まだ部屋の前だぞオイ。何が冒険だよ、そんなにトルメルの力がないと俺は何もできないのかよ!否!俺は俺だ、やればできる子だ!だいじょーぶ、ハイッだいじょーぶ!
……我ながら情けなくなってきた。
ここ3階は昼間に掃除した場所だからもう把握してる。やたら廊下は広いし長いけど、俺が借りてる部屋以外の部屋も普通の客室でたいしておもしろいモンはない。じゃあ、上の階に上がるか下の階に下りるか、だよな。
2階も確か、この3階と同じように客の宿泊するための部屋になってたと思う。4階はもうちょっとこう、いいお客さんのための部屋になってたような…。さらっとゾイから説明を受けただけなんだけど。
1階は聞いた通り、倉庫とか廊下とか大浴場…は壊れてんだっけ?まぁ、掃除は別に不要って言われた場所。あと…最上階の5階。…あれ?
「…5階のこと、まだ何も聞いてねーぞ?」
思わずぽつりと独り言を漏らし、慌てて自分の口を手でふさいだ。やべ、誰も聞いてないよな…?シェンユゥも寝てる時間だよな?しーん、と静まり返る薄暗い廊下に息を殺して立ち、本当に誰もいないか辺りを確かめた。
けど、幸いなことにやっぱり誰もいないし俺のことにも気づいてないみたいだ。そうだそうだ、例え夜中でも自由にこの棟の中は歩き回っていいって言われたんだ!何を俺は怯えてんだか!いや怯えてねーよ!?
こんなところで百面相してる場合じゃねぇよな。よっしゃ、それじゃあ階段を上って5階まで行ってみるか。廊下を進み、埃に薄く覆われた絨毯が階段にかけられているのを裸足で踏みながら、俺はそーっと階段を上り始めた。
4階…は別にいいや。昼になれば今度は4階を掃除してみるかな…。恐る恐る歩を進めながら、音もなく階段を上り続ける。
5階は最上階だ。けど、5階まで階段を上りきってもまだ階段は上に続いていた。そうか、屋上があるのか。屋上に出てみてもいいけど、まずは5階を探検しないとな。
相変わらず廊下にはほんのりと灯りをともすランタンが吊り下げられている。一見すれば幻想的だけど、長く続く廊下の先は闇に遮られてよく見えない。ふぅ、と息をついてから気を引き締めて俺は一歩ずつ足を踏み出した。
それにしても、廊下が長いのなんの。石の床は階段みたいに絨毯がかけられてるわけでもないから足の裏が冷たい。踏み出すたびにひやり、ひやりって気持ちいいのか気持ち悪いのか不思議な感覚がした。
まず一個目の扉を、ズドーンと続く廊下の左側に見つけた。その向かい側の壁にも同じように扉がある。その隣の部屋の扉はここからじゃ見えないから、結構離れた先にあるんだろうか。
そっとドアノブに手をかける。回す。ガチャ。…あ、やっぱ鍵かかってやがるな…。暗闇に目を凝らしながら俺は膝をつき、ドアノブにじっと顔を近づけた。もちろん鍵を開けちゃうためです!良い子の皆は真似するなってヤツです!
確かに俺の慣れ親しんだシエゼ・ルキスその他の町で使われてる一般的な扉の鍵ならもうカチャカチャポンで簡単に開けられるけど、果たして魔界のドアノブはどうなんですかね。そう思いながらこっそり部屋から持ってきたハリガネを取り出す。
鍵開けにはちょっと情けない装備だけど、俺ぐらいのスキルにもなりゃこんなハリガネでもこれぐらいの鍵開け余裕だっての!
…と、ハリガネをドアノブの鍵穴に突っ込もうとしたとき。
――――グルルルル……
…あれ?なんか…ひくーい…唸り声?何か聞こえなかったか?いやいやまさかー!風が唸っただけだろー?…すいませんちょっと冷や汗出た。俺は一度顔をドアノブから離し、ふぅ、と深呼吸してからもう一度ドアにぴたりと耳を付けた。
――――ガルルルル……
…。
…聞こえなーい!はい聞かなかった!何もない!この部屋にはなーんにもないっ!だからお向かいの部屋行ってみよう!こっちの部屋は開けない!なんか…いやいやいや。何ビビってんの俺、さっきのはだから…。
―――ガウッ
「…ちょい待ち」
俺はぴたっと動きを止めた。開けようとしてたドアノブからはもう体も離してたし、そーっと次のお向かいの部屋を開けようかなと背を向けていたんだけど。
「…さっきの声、…奥の廊下から聞こえたような…」
そう。さっきのグルルルっていう謎の音は部屋の中から聞こえた気がした。問題はその後の『ガウッ』だよガウッ!なんか俺の聞き間違いじゃなければ、この真っ暗闇が続く廊下の奥から聞こえたような気がする。
盗賊やってたから気配や物音には敏感なつもりだし察知するのに自信もある。だからこそ俺は半笑いでひくっと顔をひきつらせた。ギギギ、と顔を人形のようにぎこちなく廊下の奥へ向け、…俺はごくりと唾をのんだ。
窓はない、真っ暗な廊下。仄かに照らすランタンがパチパチッとはじけてふわりと消える。もうこれだけで泣けるだろ、綺麗だなーとか幻想的だなーとか言ってる場合じゃねーだろ?
おまけに。その塗り込められた闇からのしのしと重い足音なんて聞こえた日にはどうする?どうしたい?え、俺?そーだなぁ、…逃げる。
そんなわけで。俺の目の前に廊下の闇からのしっと姿をゆっくり現したのは…っ!
「黒い…狼っ!?」
しかも笑っちまうくらいデケェ!赤い目をギラァッとさせてグルルルと唸るのは、馬よりも大きそうな黒い狼だった!うわぁもう止めろよなんでこんなのが5階に棲みついてんだよ!?しかもこいつ…っ!
「ガウッ!!」
「どう見ても魔物じゃねーか!おいふざけんな俺今武器もないし力も使えね……っ!」
こんなデカいのが普通の動物の狼さんだっていうなら良成長を遂げたと褒め称えたいけどこのゾイみたいな赤い目は魔物の目だし…もう魔物との戦いを幾多と切り抜けたんだ。この迫力は普通の動物じゃない!
もちろん逃げる逃げる逃げる!俺は弾かれたように階段の方へと廊下を走り出した!捕まるかも、なんて考えない!ただ逃げる、足を動かす、考える暇があるなら走るっ!
当然ダダダダッと獲物を見つけた黒狼が俺の後を追う音が聞こえた!ウギャーッ!遠目に見るだけならかっこいいかもしれないけど追いかけられるなんて御免だし食べられるのもお断りだーっ!
必死に走りながら少し後悔した。部屋でおとなしくしてりゃ、こんな未知との遭遇なんてせずに済んだだろうし昼間にシェンユゥと来てたら助けてもらえたかもしれないのに!
階段が見えたところで、ヒュンッと風が頬を激しく打ちつけた。な、なんだよ!?闇に目を凝らす、と!狼が俺の横を走り抜け、下への階段に数歩下りて待ち伏せてやがった!…こ、こ、こいつ…!
迷わず俺は屋上へと続く階段を駆け上がる!ガウッと背後で狼が吠え、また階段をダンダンッと力強く蹴る音がして俺はもうこれ以上ないほど必死に走った!くそ、なんで狼なんだよ!カメの魔物とかなら余裕で逃げるのに!
こんな夜なのにこんな激しい運動させやがって!しかも、…。一瞬背後に意識を向けると、狼の魔物は俺と遊んでいるように軽い足取りで俺を追い詰めてるようにも見えた。魔物って感情とかないんじゃなかったっけ!?
それともこいつ本当はただの狼なのか!?いや、考えるのは後!遊ばれてるのは悔しいけど今はガチのダッシュで逃げねーとヤバい!
階段を上りきった先には古びた扉!思い切り体当たりすると木の扉は粉砕っ!よっしゃ、ここからなんとか…!足の裏が何かを踏んで切れそうになってるのも気にならないまま俺は扉の向こうの屋上に駆け込む!
そして、絶句。
目に飛び込んできた景色は、せいぜい一部屋分の広さだろうって感じの小さな屋上が…高い石壁に囲まれて…。道は続いてない。背後からはダダダッと勢いのある迫力満点の足音!
い、い、い…っ!
「行き止まりかよーっ!!?」




