66 無口な料理人
チリリン、と高い音がした。それに目が覚め…ってことは、俺は眠れたのか。
昨日ゾイと話した後、どうも寝つけなかったけど…やっぱり疲れてたのかも。ごそごそとベッドから身を起こしながら、重い瞼をゆっくりとこすった。
「ふあーぁ……あ」
「よぉ。間抜けな寝顔だったな」
俺の大あくびに声をかけたのは、ベッドの傍の木の椅子に座るゾイだった。ん、ゾイ…?ぼーっと俺はしばらく黙ってゾイの赤い目を見つめて…。
「って、いつからいたんだ!?」
「深夜。様子を見に来たら布団の中で唸ってやがったから、睡眠魔法で眠らせた。そっからずっと」
「あー、だから俺、寝つけないと思ったけどよく眠れて…………っ!?お、お前な!俺が女だったら一大事だぞ!?」
「夜這いのことか?」
ぐ、ぐ、ぐおお…っ!何をサラッと朝から…!オカゲで目が覚めた!ニヤニヤしながら尖った歯を見せるゾイに、思わず手を伸ばしてゲンコツを入れるっ!
―――ゴッ
…。確かな手ごたえに俺は目を丸くした。
あれ。避けなかった。絶対避けると思ったのに…って!俺はゾイの髪と額の間ぐらいにぶつけた拳をそのままに、そーっとゾイの表情を窺がう。ぜ、前回を思い出せ。また魔法で氷漬けとか酷い目に遭わされたらっ…!
けど、部屋の温度は下がらなかったしゾイが反撃の魔法を使うこともなかった。ただ、じっとしてる。赤のギラギラした目は相変わらずで、その内部の感情なんて俺には探れない。
…。ど、どうしよう。謝るべき?い、いや、一応眠れなかった俺を寝かせてくれたんだろ…?それって逆に感謝するべきだったんじゃ…。うっかりなんかムカついて殴っちまったけど…。
ゾイはじっとしてる。じっとしたまま、俺の次の行動をただ待っている。俺は少し気まずくなって、ぶつけたままの拳を開いた。そのまま、アリシアにしてやるようにぐしゃぐしゃとゾイの頭を撫でる。め、目は合わせないけど!
「…わ、悪かった。その…ね、寝かせてくれたんだよな。…あ、あの…あり、がと」
ゾイのオールバックな髪型が崩れるほどぐしゃぐしゃ力強く撫でる。それでも反応がないから、俺はそーっと手を離した。ゾイは無表情なまま、自分の手を前髪のあたりに持っていく。ゾイの前髪は不恰好にぐしゃっと崩れていた。
あれ、なんだよ。前髪ある方がマジメそうに見えるなコイツ、と俺が思ってると。ゾイがフッと小さく笑った。
「他人に撫でられるのも、悪くはねぇな」
「へ?」
「…なぁ、」
「な、何」
「朝飯、食いに行くか?」
ゾイが崩れた髪のまま部屋の入り口を指さす。部屋の入り口には、あの真っ黒な結界がなくなっている代わりに薄暗い廊下が見えた。
**
ゾイに連れて行かれたのは、俺がいた部屋を出て少し廊下を歩き、階段を下りてまた歩いて…とちょっと距離のある場所。窓は廊下にはなく、薄暗い石の通路を天井にぽつぽつと吊り下げられたランタンが火を灯して照らす。
幻想的なその様子に口を閉ざして、黙って数歩先を歩くゾイを追いかけていくと。ゾイが扉のないある部屋の入り口で立ち止まった。…この部屋は?
促されるままに入ってみると…ここ、食堂か?だだっ広い部屋にはでっかくて長い木の机がズドーンと置いてあるものの、テーブルクロスはところどころ裂けてるし煤か何かで汚れてるし、埃もかぶってる。
けど、部屋は豪華だ。大きな窓はすりガラスで、外の景色は見えないけど白い光を部屋の中に伝えている。壁には絵画やタペストリー、部屋のあちこちに観葉植物の鉢がある。…そして。
「でっけぇキッチン…」
「元は、客が来た時のための食堂だ。今じゃそこまで大規模なパーティーもしないからな、この客用の棟を使わなくなって久しいっつーわけだ。この食堂を使うのも何十年ぶりか」
…な、何十年ぶりて…そんなに放置されてるのか、この棟。…俺、しばらくこの棟を自由にしていいんだよな?よし。掃除から始めよう。
俺が小さな決意をしてる隣で、ゾイは静まり返った食堂をゆったりと歩き出す。食堂には俺とゾイ以外には誰もいないから、小さな声で話しかけても音がよく響いた。
「なぁゾイ、この棟…えっと、『駆風の棟』だっけ。俺が掃除してもいいよな?」
「掃除なんて、そんなもん、魔法で…」
「俺が暮らす場所なんだろ、俺が掃除して当然。それに暇だし」
「…じゃあ掃除用具は準備しといてやるから、好きにしとけ。物好きだな、トルメルさんは」
ゾイがその逞しくてちょっと冷酷にも見えるその顔を、一瞬ぽかんとさせたのを俺は見逃しませんでしたよ。ふふん、なんか楽しくなってきたぜ。ここにいる間の遊びは、この俺様オールバック野郎をどれだけポカンとさせてやるか、だな!
そうは言っても。今からこのだだっ広い食堂を掃除し始めても、朝飯にいつありつけるか…。つか、そんなに長い間使ってないキッチンだ。ちゃんと使えるのか?
デカい机の横を通り過ぎて、こっちもまた広い台所に足を踏み入れる。流しも広いし、お、この鍋めっちゃデケェ!一回使うだけで何十人分のシチューができるぞ!…こっちもちゃんと水、出るな。すげっ、竈まである!
こりゃ、俺の部屋の台所設備とは大違いだな。こんだけ設備もありゃ、それはもう目もくらむようなご馳走ができるだろうさ…っ!
俺が上機嫌で好き放題に台所を漁ってると、突然後ろから…なんというか、すんごい鋭い視線を感じた。
「………」
「…なんか…いるのか?…」
「……」
なんか、誰かに見られてるような気がする。ぱっと素早く振り向いても誰もいない。ゾイを見ると、食堂中の観葉植物に水をやってるのが見える。あれ、アイツ結構良い奴…じゃなくて!これ、何の違和感だ?
それからもジロジロと感じる謎の視線の気配を俺は探った。ふと後ろを見ると…めちゃくちゃでっかい鍋がある。何だこれ、鍋に顔の絵が描いてあるし。いよいよ魔界っぽい、と思ってる俺に、また視線が!
「………………」
「…?…あ!」
鍋の後ろに誰かいる!鍋の中を見るためには梯子が必要にも思えるほどのデカい鍋だ。そんな鍋の陰にひっそりと隠れられても…、そんな場所にそいつはいた。
ヨレ、としおれたようなコック帽、ふにゃっと曲がったネクタイ。だけど白いエプロンはピカピカで、ちゃんと真面目に着こなしてる。そして見事な体操座り。なのに目をかっ開いてる!恐い!
「な、な、なんだお前っ!?」
慌てて俺が飛び退くと、ちょうど後ろにあった鍋の山に背をぶつけてガランガランと鍋が床に転がる。うおお、当たっちまった!い、いや、その前にこの鋭い視線の主は誰なんだ!?
俺は鍋を拾うのも忘れて、後ろにカサカサと退きながら体操座りの『そいつ』を見た。コック帽の下は綺麗な深緑、癖のないサラサラしてそうなその髪は肩よりも短い。んで、目だよ!目がすんげぇデカいし開いてるし!
吸い込まれそうなほどの黒の目、まつ毛はそんなに長くないけど右目の下に大きなほくろがある。年頃は…俺と同じぐらいか?あ、でも魔族って人間と見た目・年齢が違うんだよな。そいつの耳も当然尖ってるから魔族なんだし…。
俺が黙ってその大きく見開かれた目を見つめてると。すっくとそいつが立ち上がって、俺の前にずんずんと歩いてきた。ぴた、と俺は動けず、そいつがほんとに鼻と鼻が触れそうなほどに近づいてくるのを黙って見てるしかなかった。
な、な、なんだこいつ?さっきから瞬きひとつしてないし…。つか、目の前目の前!近い!
「あ、あの、アンタ誰なんだ?」
「……」
「おい、聞こえてんだろ…?」
「………」
「…。ゾイ、」
返事がない。だが屍にも見えない。俺はこのおめめパッチリさんから目を逸らして、ゾイの方を振り返った。ゾイが俺の声に気づき、どこにあったのか知らないけど持ってたジョウロを窓辺に置く。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも!こいつ誰だよ!話しかけてもガン見されるだけで返事ないし!生きてんのこいつ!?」
「あぁ、そいつは今日からトルメルさんの専属コックだ。名はシェンユゥ。声を持たない代わりに、千里を見通す目を持つ魔族の一人だな」
「…シェンユゥ?」
目の前のおめめパッチリさんが、俺の声にこくんと頷いた。相変わらずその口は閉じられたままで、目は瞬きひとつしない。俺より少し身長の低い少年姿のシェンユゥは、キッチンをぐるりと見回した後俺をまたガン見してきた。
な、なんだろう…。この目力…。俺はその黒い目の迫力に冷や汗を流しながら、助けを求めるようにまたゾイを見た。ゾイはからかうように犬歯を見せてニヤッと笑う。
「大丈夫だ、慣れりゃ目を見ればそいつの言いたいことなんてすぐ分かるようにならぁ。無口でちと頑固だが、トルメルさんを悪くは扱わねぇよ」
「でも…」
「シェンユゥは何を考えてるか分かりづらいと魔族連中にもよく言われるが、考えもしっかりしてるし料理の腕はこの俺様も買ってんだよ。命令に忠実、性格も悪くない。おまけに怪力だ、見た目に騙されんなよ」
ゾイの言葉にすぐシェンユゥが反応した。すっと俺の前から退いて、キッチンの机にあるめちゃくちゃ重そうな鍋をひょいっと片手で持ち上げて見せて…って嘘だろ!?なんだその怪力っ!俺なら動かすことすら難しそうな重い鍋を…っ!
ぐいっと無表情なままさらに鍋を高く持ち上げて見せるシェンユゥに俺は慌てて「もういい!下ろしていいから!」とジェスチャーすると、ドッスーンと重い音を立てて鍋が下ろされる…。うわぁ…。
「な?」
「…うん。人は見た目で判断しちゃいけないってよく分かった」
「シェンユゥは魔界料理だけでなく、人間界の料理も日々研究している。簡単な料理ならなんでもリクエストしてみろ、なんなら菓子も作ってくれるぜ。…言い忘れたが、シェンユゥもお前を監視する一人だ。
専属コックで怪力でしかも千里を見通す目だ。頼りになる人材だろぉ?」
マジかよ。そりゃ、あんなビックリ怪力ショー見せられたらこっちも歯向かう気、なくなるけど…!ゾイがシェンユゥに焼き魚定食をリクエストしてるのを見ながら俺は言葉を失っていた。
…。こんなコックさんつけられても。料理なら俺に任せてくれてもいいのに…。シェンユゥが目を大きく開いたままこくりと頷いて、さっそくキッチンの掃除と料理の準備を始めるのを俺は黙って見つめるしかなかった。
しかし、監視係か…。これはシェンユゥと仲良くなっとかないと、後々で脱走するのが難しくなりそうだ。そう、俺はここでのんびりまったりと一生を終えるわけにはいかない!いつかは逃げないとダメなんだ。
なのにいきなり『千里を見通せちゃう監視係』なんてつけてくるんだぞこのオールバック魔王!ガチじゃねーか!逃がす気全くないだろ!まずいぞ…。俺が隠れて何やろうがお見通しってことじゃねーか。
いや、作戦は後だ。俺はキッチンで濡らした雑巾で食堂の机をガーッと勢いよく拭きながら、シェンユゥが料理する様子を楽しそうに見物しているゾイをひっそりと睨んだのだった…。
**
結論から言おう。シェンユゥの料理は俺の料理スキルを遥かに上回るほどの実力でした。……なんだコレ!なんだこの料理っ!
「うっめーっ!何!?魔界の魚ってこんなに美味いの!?しかもこの香辛料、この野菜、めっちゃ合う!コレ何、パン!?素材なんだよ、このモチモチ感…っ!うおおおお」
「お前はグルメリポーターか」
なんか以前に聞いたことがあるようなコメントをゾイが投げつけてくるけど、知るか!俺は目の前の白い皿の上にほくほくと並ぶ焼き魚料理に夢中なんですー!しかもこのパンとジャムも!水まで美味く感じるっ!
朝の光が差し込む、馬鹿みたいに広い食堂にたった3人。うるさくガツガツと料理を平らげる俺、そんな俺を呆れたようにか面白がってるかよく分からない表情で見るゾイ、そして無表情でおめめパッチリなシェンユゥ。
ゾイは俺をからかってくるけど、シェンユゥは俺の言葉に少しだけもじもじしながらヨレヨレのコック帽をとった。
「……」
「シェンユゥ、これめっちゃ美味いよ!パンもさっき焼いてたよな、いやー…待ってる時は空腹で死にそうだったけど…こんなにアツアツほくほくもちもちのパンが食えるなら俺、いつまででも待てる!」
「…!」
「これからシェンユゥに飯作ってもらうの、ちょっと楽しみになってきたぜ」
「………」
もちろん本心です!…え?いつか出し抜いてここを脱走するつもりなのに何で相手を褒めるのかって?バカヤロウ!こんな美味しい料理、…褒めないわけにはいかない!暇ができたらシェンユゥに料理習おうとさえ思える!
単純だな、と呟くゾイの横で。シェンユゥは少しだけ目を床に向けて、コック帽をもじもじといじっている。あ、照れてる!
「なんだよー、シェンユゥって無表情キャラだと思ってたけどカワイイところあるじゃんかー」
「……」
「トルメルさん、あまりからかってやるなよ?俺もシェンユゥがこんなに分かりやすい態度をしてるのは見たことねぇけど…。ま、城の料理人の中じゃ一番若いが熱意は一級品だ。褒められりゃ嬉しくて当然か」
今度はゾイの言葉にシェンユゥが顔を上げて、そそくさとキッチンに戻って行った。ザァァ、と流し場で洗い物をせっせと始めるシェンユゥを見ながらゾイが言う。
「…とりあえず、この棟でお前を監視するのはバイト制で決めた。毎日この棟で暮らすことになる魔族は、この食堂にいつもいるシェンユゥと…あと中庭に庭師がいる。
庭師も変わり者だが、まぁ暇ができたら会いに行け。暇つぶしにはなるだろ」
「監視員をバイトで決めるって…」
「当然、俺様が選んでいる。トルメルさんがよくないことを考えてイタズラを仕掛けても十分に対処できる上に、ついカッとなってトルメルさんを殺したりしないような、理解ある優秀な人材をな。
今日これから城の大広間で、城にいる魔族にトルメルさんを捕まえたことを報告する。そうすりゃ、トルメルさんを嫌う魔族がこの棟に押し寄せてお前を殺すこともあり得るっつーわけだ。
俺はお前を殺したくはない。が、俺に歯向かうヤツらも城にはそりゃ山のようにいる。かといって俺が四六時中トルメルさんをお守りするわけにもいかねーから、監視員はお前のガードマンでもあると分かるな?」
ゾイの赤い目が窓のステンドグラスを見つめた。すりガラスの多い窓の中でも一枚、美しい技巧の施されたステンドグラスに夜空の様子が神々しくデザインされている。ふと、魔界にも朝があるんだなと俺は思い直した。
「その監視員バイト、今日はいるのか?」
「いや、今日の監視はいない。明日からつけることになった。んでもまぁ、食堂にはいつもシェンユゥがいるし中庭に庭師もいるから退屈はしないだろうさ。…掃除用具がいるんだったか?またシェンユゥに持っていかせるから部屋で待ってろ」
「へいへい。…ほんとに、棟の中、どこでも自由に見て回っていいんだな?」
「結界はもう張ってある。行けるところまで見て回れ…あぁ、そうだ。中庭に行くときは少し気を引き締めて行くか、シェンユゥを一緒に連れていけ。人間界の植物はおとなしいのか?」
なんだその質問?植物がおとなしいって……あ、あぁー。ここ、魔界ですもんね。植物系の魔物が中庭にパラダイスってわけだろどうせ。うんうん、植物系の魔物はシルと旅してた時によく倒してもらってたなぁ…。
俺が遠い目で思い出してると、ゾイがふん、と小さく笑って目を閉じた。
「察しの通りだ、強い魔力にあてられて育った魔界の植物は随分元気なんだよ。肉食の獰猛な植物もいるから一人で行ってうっかりぶっ殺されても知らねぇぞ」
「殺さないって言ったくせに!」
「そうなる前に庭師がなんとかするだろうが、いや、なんとかするようにはいつも言ってるんだがな。信頼できねぇところがあるからな」
「何だよソレ…」
はぁ、とゾイがため息をつく。ゾイがここまで言う『庭師』ってどんな奴なんだろう…。けどうっかりぶっ殺されるって恐ろしい!これはシェンユゥについてきてもらうしかないか…。ついでにシェンユゥと仲良くなっとこう。
シェンユゥが皿をてきぱきと洗っているのを見ながら、俺とゾイは食堂を出た。ゾイはそのまま城の本部に戻るらしく、渡り廊下が続いてるらしい方へと歩き去った。
ぽつんと残された俺も、薄暗い廊下を一人でとぼとぼ歩きながら複雑な道筋をたどって部屋に戻る。ぺたぺたと裸足で歩く音だけが静かな廊下に響いた。
**
クローゼットを勝手に漁ると、普通の服があった。いや、普通って言ってもこの白いワンピースよりはまともって感じの。けれど俺がシエゼ・ルキスとかで着てた服よりはちょっとクセのありそうな服だ。
これが…下に着る服か?これズボンだよな?んで羽織があって…。…。よく分からん。これ、どうやって着るんだろう。謎の紐とかボタンとか帯があるし。布の染も独特のガラと色で、ユハの町の民族衣装みたいだ。いや、ちょっと違うけど。
ゾイやシェンユゥ、ロザの服装を見てもこんな民族衣装チックな感じじゃなくてもっとこう…一般的な服なんだけどなぁ。もーちょい普通の服はないのか?
俺はクローゼットで見つけた服を着るのを諦めてソファにぽいっと投げ、窓のカーテンを開けた。カーテンを開けたところでどうせ真っ黒な結界が見えるに決まって…あれ?
俺はカーテンを掴んだ手をぎゅ、と強く握ってその向こうの景色に息をのんだ。窓の向こうに見える…青い空。緑の草原、ぽつぽつと見える花畑に青々とした森。城壁の向こうに広がるのどかな景色。
そういえば、ここは棟の3階なんだっけ。窓はどうしても開かなかったけど、見えるようになった景色は俺にため息をつかせるのに十分だった。
なんつーか…。魔界って、もっとおどろおどろしくて、もう空とか真っ赤なレベルだと思ってた。けど普通だ。本当に普通だ。窓を蹴破って外に飛び出したくなるぐらいに…。
冒険してみたいなぁ…、魔界・ノイマーティア。こうやって窓から眺めてみると、確かに知らない場所なんだけど武器と飯を片手にぶらぶらと気ままに旅してみたくなる。
いったい何分窓の外をぼんやり見ていたか分からない。けど、広がる世界に俺は言葉もなくただじっと黙って、窓の向こうを見つめ続けた。
…ノイモントがじわじわと迫っているこの状況を何とかして。シエゼ・ルキスに聖剣を戻して、鼻息の荒い魔族たちを抑えることができたら…。俺が自由に大陸中を旅してまわれる日が来たらいいのに。
そのときはトルメルとか、そんな風に呼ばれるんじゃなくて…。冒険者ステイトって呼ばれてみたい。トレジャーハンターでも良し、謎の旅の少年でも良し!好きなところを目的もなくぶらぶらと旅してさ、たくさんの人に会いに行って。
そしてまだ見ぬ世界のお宝を我が手に!ふははは!まだ俺は諦めてませんよこんな風にシリアス続きな展開になったとしても!そう、お宝あるところに俺あり!
「待ってろよノイマーティアの秘宝!この俺がいつか必ず一つ残らず手に入れてやる…っ!」
「……」
「…ん?なんか視線を感じる………って、うわああぁあぁシェンユゥいつの間にっ!?」
突然の気配に俺はビクゥッと体を震わせて、みっともない声で叫んだ。びびびびびっくりした!ドアが開く音もしなかったのに、シェンユゥが部屋の中でぽつーんと立ってたから…!
よく見ると、後ろ手に箒とかモップとかバケツとか、いろんな掃除道具を持ってる。もう持ってきてくれたのか、と俺はシェンユゥに近づいた。
「……」
「ありがとな、シェンユゥ。掃除道具…どこに置いとくかな…、よし、ひとまずここに置いとくか」
シェンユゥがすっと渡してくれた掃除道具を部屋の隅にとりあえずまとめて置いておく。さて、掃除を始めたいんだけど。こんな白いワンピースじゃなぁ…。それに、ソファの上に投げた民族衣装っぽい服も、なんか『正装』って感じで。
俺は黙ってクローゼットを睨んだ。もっと都合のいい服置いてないのかよ。すると隣にいたシェンユゥが、黒い目をパチッと瞬かせた。あ、瞬きするんだ…。
「…」
「シェンユゥ?」
そのままシェンユゥはとててて、と部屋を出て行く。なんだろう、と思ってるとすぐに部屋に戻ってきた。その怪力には見えない手には…おおぉ!
「フツーの服だ!」
「…」
シェンユゥの手にあったのは、別に汚れても気にならなさそうな灰色のシャツと黒のズボン!ついでにエプロンと三角巾…?完璧に休日の家事手伝いモードというか、家政婦か何かの服っぽい!
俺はシェンユゥが差し出してきた服を歓声を上げながら受け取って確認する。さ、サイズぴったりだ!思わずシェンユゥの深緑の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「やるじゃんシェンユゥ!服に困ってるってよく分かったな!ありがとう、俺、これ着たらすぐ掃除を始めるぜ」
「……」
シェンユゥが黒の大きな目を伏せて、一文字に結ばれた口を少しだけ緩めた。ちょっと俺よりも低い身長、俺よりも幼く見えるシェンユゥが…なんというか、デキる弟みたいで…!確実にこれは言える、ゾイよりも仲良くやっていけるぞ!
ささっと着替えて軽くストレッチ、それから箒を片手に部屋を出る。そういえばシェンユゥはどうするんだろう、と思って廊下を歩きながら何気なく振り返ると。
「…」
「おわっ!…って、シェンユゥ。…それ、お前の箒?」
「…」
こくり。
シェンユゥが俺の後ろをとてとてとついてきていた。しかもちゃんと自分の箒と塵取りまで持って!…手伝ってくれるらしい。なんていい子なんだシェンユゥ…!その真摯な眼差しに俺はにこりと笑ってみせた。
「ありがとな。お前も大変だな、いきなりトルメルなんて魔族の天敵を監視したり飯食わせたり…。掃除まで手伝わせちまって」
「…」
薄暗い廊下にはランタンがふわふわと揺れる。一つの階に部屋は4つだっけ、とゾイの言葉を思い出しながらシェンユゥに話しかけると、シェンユゥは目をカッと開いたまま首を横に振った。
じぃっと無表情で俺を見つめてくるシェンユゥは、ぎゅ、と自分の持つ箒を強く握る。お、やる気だ。裸足のままぺたぺたと廊下を歩きながら、俺はちょっと振り返って声をかける。
「掃除、好きなのか?」
「…」
こくり。なるほど。仮に「別に手伝わなくてもいいよ」なんて言ったら無表情で箒を投げつけられそうなほど頑なな意思を感じる頷きに、俺は反論できなくて一緒に頷く。頼もしいコックというか監視員というかお手伝いさんというか…!
廊下の一番奥の部屋のドアは半開きだった。ギィ、と木の扉を開けると、こっちは物置らしい。無造作に置かれた古そうな家具や埃をかぶった杖、剣などが部屋にある。
部屋の奥のカーテンもボロボロで、部屋のいたるところが蜘蛛の巣だらけ。こりゃ随分放置されてるみたいだな…、この埃っぽさだけで目がかゆくなりそうだ。
うわちゃー、と思わず声を漏らした俺を、シェンユゥがじっと見上げた。
辞めるの?と俺に尋ねてるようにも感じるその視線にぶんぶんと首を横に振り、俺はガッツポーズをするように気合を入れて箒を上に持ち上げた!
「…いや、やるぞ俺は。今日はこの棟の、この3階を全部屋綺麗にするぞ!んで時間があったら、」
「…?」
シェンユゥが俺の隣で、無表情だけど一緒に箒を上に持ち上げる。それから俺の言葉の続きを大人しく待つ。俺は…、時間があったら中庭に行って『庭師』に会いに行くつもりだったけど。
この一部屋ですらこの惨状だ、ゾイをぎゃふんと言わせるほど部屋をピカピカにしようと思ったらそれこそ時間も体力もすぐになくなっちまう。
じ、と興味深そうに俺を見つめるシェンユゥに、俺はふぅとため息をついてからまたにこりと笑ってやった。
「時間があったら、お疲れ様のケーキでも一緒に焼こうぜ」
「…!」
無表情なシェンユゥの目が俺の言葉に強く輝き、俺もふすっと唇の端から思わず笑いがこぼれちまった。頃はまだ朝!…休憩には、まだ程遠い。




