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青い蕾  作者: 碧 真白


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 六月某日。憎らしいほど晴れ渡る、青い空。じわりと滲む汗の気持ち悪さを、時折吹く風が刹那的に取り払う。

 そんな夏の気配が漂う中、私は一人ため息を吐いた。足取りは重く、いつもより小さな歩幅で前へ進む。

 アルバイト帰り、お馴染みの河川敷。今は平日の昼間ということもあり、ラッシュ時の喧騒もなく、実にのどかな雰囲気だ。耳を澄ますと、川のせせらぎが微かに聞こえてくる。

 このありふれた景色は、特段気にも留めず通り過ぎる場所だった。職場とアパートを繋ぐ最短ルート。運動不足を考慮し、散歩がてら徒歩で通っている私にとって、実に見慣れた風景だ。

 しかし、今日だけは違った。私は立ち止まり、辺りを眺める。

 風は穏やかで、草木の揺れも僅かなものだった。車も人も見当たらない。あまりの静けさに、今この瞬間は自分しか存在していないのではないか。そのような感覚になった。

 何気なく川に目を向ける。この空間で唯一、それは滞りなく流れていた。私は惹かれるように一人、土手を降りた。

 水辺の近くに来たのは何年ぶりだろう。少なくとも上京して以来、自ら自然に触れることは一度もなかった。水深が浅いことを確認してから、改めてじっと眺める。川は太陽の光を反射して、キラキラと輝いていた。

 私は持っていた鞄を下ろし、ゆっくり川の手前にしゃがみ込んだ。しかし、その勢いで力が抜け、結果的に地面に座ることとなった。紺のチノパンが一瞬で砂まみれになる。私はため息を重ねてから、膝を抱え体勢を安定させた。

 そして目を伏せ、この鬱屈した気持ちの原因となる先程の出来事を思い返した。


 とあるスーパーマーケットの事務室。賑やかな店内とは真逆で、静寂と無骨なだけの空間。七畳ほどの小さなスペースには、作業用の机や数々の道具や書類が全て詰め込まれていて、奥に店長机がポツンと置かれている。

「人が足りてきたから、もう少し時間減らしてもらっていい?」

 突如店長から呼び出しを受けた私は、その第一声に固まった。咄嗟に、椅子に座る彼の横顔に反論する。

「えっ、それは困ります!今のシフトのままで入れてもらわないと生活が……」

「そうしてあげたいのは山々なんだけどねぇ。ほら、新入社員の子も優秀で、どんどん一人でできることも増えているからさ。ヘルプの人数も必要なくなってきてね」

 私の言葉に被せるように店長は告げる。

「だったら他の方は……」

 私はたどたどしくそう言いかける。が、次の瞬間、彼は作業していたパソコンから目を離し、座ったままこちらへ体を向けた。経年劣化によるものか、はたまた耐荷重を超えているからか、椅子のギイッという歪な音が響く。

 そして意を決したように、一呼吸してから口を開く。

「正直ね、山田さん。君、ミス多いよね?昨日もレジ打ち間違えてお客様からクレーム入ったし、この前の棚卸しの数も合ってなかったよね」

 普段穏やかに接してくれる、彼の顔つきが変わったのを感じた。

「他にも雑務のチェックつけ忘れて他のパートさんが再度やることになったり、チラシの商品と違うものにポップ付けて、巡回してたエリマネに指摘されたり……君のミスをいつも誰かがカバーしている、という自覚はあるのかな?」

 今までの彼から想像できないほど厳しい口調で、次々と責め立てられる。私は思わず尻込みした。

 日頃から相当な鬱憤を、脂肪と共に腹にためていたらしい。ここぞとばかりに私の過去の失敗を淡々と挙げ連ねていく。眼鏡の奥で、笑っていない瞳が見える。

 勢いに圧倒された私は、反抗していた自分の態度を改め、ひたすら謝罪に徹した。

「本当に申し訳ありません……」

 しかし、すでに決定事項だったのだろう。突きつけられた事実が覆ることは無かった。

「今日はこの後の研修で人数増えるから、元々上がってもらう予定だったよね?」

 店長はちらりと時計を見た。私もそれに倣い、壁掛け時計へ目を向ける。針は昼の一時を指していた。

「ちょうどいい、これからパートさんと同じこの時間帯で上がってもらうから。午後の空いた時間は、他の仕事を探すことに充ててくれていいからね」

 彼はそう早口で捲し立て、一方的に結論づけた。

「店長、そんな……」

「あまり言いたくないんだけどね、そろそろ定職についた方がいいんじゃないかな?」

 痛いところをつかれ、私は言葉を飲み込む。店長はさらに追い込むように言い放つ。

「とにかく、こっちもいつまでも雇う余裕はないから。悪いけど、よろしく」

 そう言い、彼はパソコンに向き直った。静まり返った空間に、またもや椅子の悲鳴が鳴り響く。

 私は返す言葉もなく事務室を後にする。ドアを閉める直前、店長の大袈裟なため息が聞こえた。


 呆けたように川を見つめる。店長の言葉が頭の中でループしている。

 確かに、私はいつも一時的な感情で突き進んでしまうことがある。先を見通す能力がなく、失敗ばかりしている。自分の考えを疑うことなく、今までも思い込みで幾度となくミスを積み重ねてきた。仕方がない、次からはと切り替えても同じことを繰り返す。

 自分だけじゃない、と心の中で曖昧に誤魔化して見逃していたのだ。それがついに面と向かってはっきり言われ、自覚した。そして、つくづく自分の情けなさを憂いた。

 思えばこの生活に至ったのも、行き当たりばったりの行動からなるものだった。

 滞りなく右から左へ流れる川を羨みながら、これまでの人生を思い返す。


 私は小さい頃から絵を描くことが好きだった。作品を見せると、手放しで褒めてくれる家族や友人。そんな彼らに乗せられ、自分自身もその経験に浮かれ、イラストレーターを目指し単身上京した。

 今考えると、本当に愚かだったと自負している。当時はただ盲目に、目先のことだけを追い求めていた。己の実力や将来の展望といった様々な向き合うべき現実問題から、逃げるように衝動のままにイラストの専門学校へ入学してしまったのだ。

 学費や諸費用は、必ず返すからと親に工面してもらった。彼らは、高校卒業までに何度も他の道を示したが、私は頑として受け入れず、半ば強引に進路を決めてしまった。そんな娘に、両親は最後に根負けし、激励と共に笑顔で送り出してくれたのだ。

 しかし、実際そんな生半可な気持ちでうまくいくはずなどない。専門学校に通ったからといって、もちろん全ての人がイラストレーターになれるわけではない。

 入学し、すぐに周囲との差に愕然とした。傍から見ても、明らかに自分よりもレベルが高い人達ばかりだったからだ。同期と比べると、私の絵など落書き同然のようなものだったろう。

 私が唯一誇れていた特技が、途端に恥ずかしく、惨めに感じた。それでもと、最初のうちは上手くなろうと授業を真面目に受け、デッサンやデザインのコツなど、基礎から応用までひたむきに吸収し続けた。狭い安アパートへ帰ってからも必死で練習し、自分なりに努力をした。

 しかし、一人暮らしにかかる金額は自分の予想を遥かに超えていた。月の支払いは仕送りで足りるわけもなく、アルバイトを余儀なくされた。授業とバイトを往復、疲れが溜まって満足に練習も続かなくなり、私は徐々に堕落していった。

 追い打ちをかけるように、残酷な現実も突き付けられた。これほどまで必死に努力をしても周りに追いつくことはできず、コンテストで賞を取るのは決まった人物ばかりだった。

 そして察したのだ。自分には才能がない。やはり私はこの人達の足元にも及ばない。このままここで、時間を無駄にしてしまうのだろうか。私は何のためにここへ来たのだろう。何度も自問自答を繰り返した。

 そう思いながら、かといって行動するでもなく、結局ズルズルと在籍し続け、将来を考える気力も失っていった。そんな環境で友達など作る余裕もなく、当然のように孤立したまま卒業を迎えた。

 在学中に大した結果も残せず就活すら乗り遅れた私は、そうしてイラストレーターどころかまともに就職することすらできないまま、気づいたらアラサーになっていた。

 両親には卒業後に一度だけ電話報告し、こっちで就職を目指すからと帰郷の打診を断った。彼らの制止を振り切って上京した手前、まともに顔向けができず、私はつい虚勢を張ってしまったのだ。今ではもう、節目に帰省することすらなくなってしまった。

 それからはフリーターとして、目的もなく仕事を転々とする日々を送ってきた。それこそ二十代前半であれば採用される機会も多かった。ミスを重ねても、気まずくなる前に自分から辞める選択をとってきた。

 将来を真剣に考えることを放棄し、変わらない毎日をのらりくらりと過ごし、ただ生きる為だけに空虚な日常に食らいついている。

 今の職場には二年前に就き、家からも近いので、しばらくはここで働き続けようと思っていた。

 だが、そんな矢先に。ついに、この日々が壊れそうな問題に直面してしまった。私は思いがけなく、自分の現状に向き合わなければならなくなってしまったのだ。


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