4 子猫と約束
手放したくないものほど、そっと抱きしめてしまう。
けれど、それでも――
手を離さなければならない日がある。
翌日――。
鏡之介は、「かまわぬ」の袷を着てきた。
寺子たちがまた騒ぐのではないかと水絵ははらはらしたが、「かまわぬ」は以前にも着ていたので、寺子はなにも言わなかった。
――袋物屋の娘、おきぬを除いて。
おきぬが作った袋物は、すでに実家の袋物屋の看板商品になるほどで、裁縫の腕は確かだし、かなり目ざとい。
鏡之介が本堂に入ってくるなり、おきぬは上から下まで目を走らせて、
「これ、水絵姉ちゃんに洗い張りしてもらったんでしょ」
と、言い当てた。鏡之介は、一瞬ぎくりとしたが、慌てて表情を取り繕い、
「腕がいいからな」
と、さらりとかわした。
だが、おきぬは、とんでもないことを言い出した。
「だって、水絵姉ちゃん、自分が洗い張りした印、つけてるもん」
おきぬが指差したのは、鏡之介の胸のあたり、「かまわぬ」の「わ」の一つだ。
ばれた! と水絵は慌てた。
丸印のうちの一つに、ちょっとした細工をしてみた。小さい物だから、気づかれないと思っていたが……。
おきぬを止めるために、ふたりに駆け寄ったが、遅かった。
「これだけ、ただの丸じゃなくて、七宝の縫い紋になってる」
鏡之介は眉をひそめて、自分の胸元を見ている。
「どういうことだ?」
「穴が大きかったからですよ!」
おきぬが答える前に、水絵が割って入った。そして、笑顔を取り繕っておきぬに言う。
「それに、おきぬちゃん、これは縫い紋じゃないわ。鏡之介さんの家紋じゃないから、ただの飾り。穴を塞いだところを、ちょっとごまかしただけ。さあ、手習いするから、席に着きましょうね」
まだなにか言いたそうなおきぬの背を押して、自分の席に着かせる。
鏡之介はしばらく自分の胸元を見ていたが、おきぬが席に着いたのを見ると、
「算の稽古を始める。そろばんの用意」
と言った。
その日の夕方。
寺子たちはほとんど帰っていたが、新吉と千代が残って、子猫と遊んでいた。
新吉はチョロがお気に入りで、自分の家に引き取ることが決まっていた。
千代のお気に入りはお鈴で、今も背中を撫でているが、その表情は暗い。
その時。
「ごめんくださいまし」
と、寺を訪れたのは、歌舞伎役者の菊村月之丞だった。
「月之丞さん!」
千代が嬉しそうな声を上げる。
水絵は朱入れの手を止めて、縁側に出た。
「月之丞さん、お久しぶりです。初春は、色々ありがとうございました」
縁側に座って頭を下げると、月之丞は、はんなりと微笑んだ。
「いえいえ、とんでもない。これからも、お声を掛けていただけば、いつでもお席、用意いたしますよ」
柔らかな笑顔は、眞性寺の庫裏にいた時のすさんだ面影はかけらもない。
「よう。ご活躍のようだな」
片付けの手を止めた鏡之介も、縁側に出てくる。
「お久しぶりでございます」
月之丞が丁寧に頭を下げる。
「月之丞さん、今日はどうしたの?」
チョロを抱き上げながら、新吉が尋ねる。
「こちらに子猫がいると聞きまして、まだ間に合うなら、一匹いただきたいと思って、参じました」
「え? ほんと? まだ四匹残ってるよ。月之丞さんがもらってくれるなら、嬉しいや」
新吉は、にこにこ笑って、本堂に散っている猫を集め始めたが、千代の表情は暗いまま。月之丞はそれに気づいたのか、じっと千代を見つめている。
ほどなく、新吉は三匹の子猫を抱えてきた。
「残ってるのは、ブチと、丸と、クロ、それに、千代の抱いてるお鈴だ」
それから、チョロを抱き上げて、
「こいつは駄目だよ。チョロはおいらの猫になるから」
と、ちょっと得意そうに言った。
千代がお鈴をぎゅっと抱きしめる。
その理由を知っている鏡之介と水絵は、思わず顔を見合わせてしまったが……。
「千代ちゃんは、お鈴がお気に入り?」
月之丞が優しく声を掛ける。
千代はこくんと頷く。その目からは今にも涙がこぼれそうだ。
「千代のうち、猫は飼えないんだってさ。そば粉やうどん粉があるからって」
泣きそうな千代に変わって、新吉がわけを話す。
「なるほど……」
月之丞はしばらく考えていたが、ぽんと膝を打った。
「それなら、お鈴はわたしがもらいましょう」
千代が、顔を上げて月之丞を見る。
「芝居が早く引けた日や、出番のない日は、お鈴を連れてこちらにお邪魔しますよ。そうしたら、千代ちゃんは、お鈴に会えるでしょう?」
千代の表情が、ぱっと明るくなる。
「ほんと? ほんとに、お鈴に会えるの?」
「ええ。度々寄らせてもらいますよ。その時は、鏡之介先生や水絵先生に、お教えいただきたいと思います」
「え? わたしも?」
鏡之介はともかく、自分に教えられることなどあるのだろうか? と驚いて聞き返したら、月之丞は少し淋しげに笑った。
「小さい頃から芸事ばかりで、寺子屋など、通ったことはありませんので」
「は、はあ……」
水絵が戸惑っていると、鏡之介がははっと笑った。
「水絵先生はかなり厳しいぜ。覚悟しておくんだな」
「はあ? わたしがいつ、厳しくしたんです!?」
睨みつけると、鏡之介がにやりと笑う。
「そう、ふ…」
「河豚じゃありません!」
言いかけた言葉をみなまで言わせず遮ると、月之丞がぷっと吹き出した。つられて、新吉と千代も笑ってる。
水絵は、恥ずかしさに赤くなりながら、それでも鏡之介を睨みつけた。
そんなことがあった翌日、寺子屋は休みだった。
眞性寺の寺子屋は、ほかの寺子屋と違って決まった休みはない。大きな法要がある日――つまり本堂が使えない日――が休みになる。
だから、水絵は朝から、仕立ての仕事に精出していたのだが……。
「ごめんください」
声が掛かった。
「え?」
水絵が思わず立ち上がったのは、それが鏡之介の声だったからだ。
戸を引くと、そこには間違いなく鏡之介の姿。
「よう」
と言われて、はっと我に返る。
「どうしたんです、いったい。今日は、お休みですよね」
すると、鏡之介は、風呂敷包みをちょっと持ち上げた。
「仕立てを頼みに来た」
「ええっ!?」
大声を出してしまったら、鏡之介に苦笑された。
「ここは仕立屋だろう。仕立てを頼みに来たのが、そんなにおかしいか?」
人の縁もまた、思いがけないところで結び直される。
その先に、どんな話が待っているのかは――
まだ、誰も知らない。




