その後の17
扉付近に突っ立たままの理子に視線を向けることもなく、朱里は冷たい表情と同様の声音で尋ねた。
「何か用?」
用件があったから部屋まで来たことは朱里だってわかっているはずなのに、まるで視線をこちらに向けようともしない朱里に理子は
それでも息をひとつ深く吸うと、固まっていた足をゆっくりと動かす。
「ドレス、ありがとう。朱里が選んでくれたって陽子さんが教えてくれた。」
上着は脱いでいるものの、白いシャツに細いネクタイをしている朱里はまるで映画の登場人物のようで、華やいだ雰囲気とオーラが彼を包んでいる。だからこそ、その冷めたような横顔はまるで知らない世界の朱里がいるようだ。
一メートルほど朱里から離れたベッド脇まで来ると、理子はその足をとめて不安そうに朱里を見つめる。視線は海面を見ているはずなのに、まるでその瞳に感情が見られない。
そこまで怒らせてしまったのかと理子は思う。
一緒に暮らしてきた時間が長い分、ケンカだってしたことはあった。けれど、その時はいつだって朱里のほうから再び何もなかったように話しかけてくれたので、理子からは行動を起こしたことがなかったのだ。
自分の甘さ加減に嫌気がさす。
いつだって私からは何もせずに朱里から行動を起してくれるのを待っていただけなんて。最低だ。
それでもここで弱音を吐いたところで何も解決はしない。理子は冷たいその横顔に向かって話を続ける。
「さっきのこと、雅人さんのことなんだけど。下のロビーで会って、私が部屋に来てもらったの。」
何も言わないが、聞いてはいるのだろうと理子は言葉をそのまま続ける。
「雅人さんを部屋に招いたのは私の考えなさが原因だけど、それには事情があって。」
「事情?自分に気がある男を部屋にいれる理由なんてものがあるんだ?」
棘のあるような物言いにも理子はそれだけ怒らせてしまったのだと、自分を落ち着かせてから言葉をつむぐ。
「雅人さんとは何もないのは朱里だって知っているでしょう?それに雅人さんは相談に乗ってくれただけで。」
理由は言わなかったが、雅人が気をかけてくれたことが単純に嬉しかった理子は、部屋に来た雅人が悪いのではなく、自分のせいなのだと強調する。しかし今の朱里に理子の言葉は雅人を庇っているようにしか思えず、ざわざわと黒いもやが胸の中へと流れてくる。
「理子はいつだってそうだ。何かあると一番最初に頼るのは悠兄。何かあると気にかけるのは翔里。僕はいつも最後だった。僕から声をかけなきゃ、理子は僕のことなんか見向きもしなかっただろう?」
それは違う、と理子は心の中で即座に思う。悠里に一番最初に相談するのは、桐生家をまとめてきた長兄として自然の成り行きだったし、翔里の場合は末っ子で赤ん坊の頃から知っている理子にとっては自然と面倒をみてしまうのだ。
だけれど、きっとそのこと自体が朱里にとってはいつも最後に気にかけられる程度の存在、だと思っているのかもしれない。
理子はどう説明したらいいのかと、そっと自分に対してため息をついた。しかし、そのため息を朱里は自分に対してつかれたのだと
勘違いしてしまう。
「朱里、お願い。こっちを見て。ちゃんと話がしたいの。」
理子は未だ視線を合わせようとしない朱里のすぐ近くまで歩み寄る。
けして朱里をないがしろにしてきたわけではない。そのことを分かって欲しくて、理子はじっと朱里が振り返るのを待つ。
そして朱里はゆっくりと視線を理子へと向ける。しかしそれはほんの一瞬のことで、朱里はそのまま立ち上がると理子を通り過ぎて扉のほうへと歩いていってしまう。
「朱里!待って、ちゃんと話をきい、・・・っ!」
思わず駆け寄って朱里の腕をつかもうと理子はそのまま手を伸ばす。だが、寸前のところで逆にその手を朱里につかまれてしまった。
どくん、と大きく心臓がひとつ跳ね上がる。
掴まれた手に痛みが走っているのに、それでも声を出せなかったのは朱里の視線のせいで。
あまりにも冷たく、そうまるで他人を見るような目つきで見下ろす朱里に理子は動きまでも止まってしまった。
朱里は理子の手をそのまま掴み上げると、身体をくるりと反転させ、そのまま理子の背中を扉に押し付ける。押さえつけられた身体の痛みよりも、朱里の視線の鋭さに耐え切れなくて、理子は視線をはずしてしまった。
朱里は言葉を発することもなく、そのまま理子の首筋へと顔をうずめる。ドレスに合わせるために髪をアップにしていた理子は直に感じる朱里の唇に思わず身体がびくりと硬直した。
それを朱里は拒否の態度だと感じたのだろう、しかし、押さえつける力を緩めることなく右手をそのまま理子の腰へと滑らせた。
「しゅ、朱里?どうしたの、朱里らしくないよ。」
予測不可能な行動をする朱里でも、今のように理子を力任せに押さえつけるなどということはしなかった。
いつか沖縄で同じような状況になったことはあったが、それでも朱里は最後には冗談だと言ってやめてくれた。
普段の理子が知っている、悪戯をしかけるような子供らしさは今の朱里には見受けられない。
目の前にいるのは冷たい目をした一人の男だ。
理子の言葉に首にうずめていた朱里の喉からくっ、と笑いを噛み締めるような声がくぐもって聞こえる。そしてその瞬間にちくりとした痛みが首筋に走った。その痛みに思わず眉をしかめるも朱里の考えていることがわからずに、理子は抑えられている手とは反対の手で朱里の胸元のシャツをぎゅっと掴む。
そのまま朱里の右手は腰から撫でるように下へと向かう。そしてドレスの深いスリットからその手を中に忍ばせた。
朱里のしようとする行為の意味に気づくと、理子はその性急さに動揺する。何も言葉を発しようとしない朱里に、言いようのない恐怖を抱いた。
自分が朱里を怒らせたことはわかっている。けれど、理子の意志も関係なしに行為に及ぼうとする朱里に対して、理子は全身で
朱里を拒否しようと、朱里の胸元にあった手で押し返そうとつっぱねる。
「気軽に男の部屋なんか来るからこんな目にあうんだよ。それを身をもって知ればいいさ。」
理子への皮肉なのか、自分自身への言い訳なのか、そう自嘲気味に言うと胸元を押さえている手をいとも簡単にすでに掴んでいた手と一緒に理子の背後でひとまとめに押さえつける。
ぎしり、と無理に押さえつけられている関節が扉に押さえつけられ軋む。だが、その痛みよりも理子は朱里の行動に未知の恐怖を
抱いていた。
知っているのに、まるで知らない朱里。
金に近いような色のさらさらの髪も、羨ましいほど長い睫の下に隠れる薄茶色の瞳も。
すべてが理子の知っているはずの朱里なのに、わずかな距離もないくらいに接している朱里はまるで別人だった。
なんでこんなことになってるんだろう。どうしてなんだろう。
服を通して体温を感じるくらいに密着し、言葉を発することができないままに理子は抱きしめられている。
そして、それは理子の意志とは無関係に。