第三章 自前ストーカー①
「おい、麻耶。ちょっと台所からジャムを取ってきてくれ」
「ん」
妹は、俺の言葉に食パンを口にくわえたまま、生返事した。
ぼーっとした目で、もきゅもきゅと機械的にパンを租借している。
俺は嘆息を漏らして、もう一度言った。
「麻ー耶ぁ。コーヒーのおかわりは俺が注ぐから、台所からなにか取ってくるのは、おまえがやるんだよな? そういう約束だったよな?」
朝食の席である。ダイニングルームの麻耶の席は俺より台所寄りだ。反対にポットのあるワゴンには、俺の方が近い。
で、今言ったような役割分担でいこう、と言いだしたのは、こいつ自身のはずなんだが――
「ん~、麻耶眠いの~、ってゆーか、そっちを使って、自分でとってくればいいじゃん」
麻耶が、行儀悪く、箸である方向を示す。
そこには、一人の少女が静かに腰掛けていた。じっと正面を向いたまま、微動だにしない。
「自分で、ね」
俺は皮肉げにそう洩らすと、怠惰な妹を使うのを諦め、自分で取ってくることにした。
注意力を、脳内映像の方に傾ける。すでに『彼女』を操作し始めて4日目。いまでは意識の比重を、ある程度シフトさせるだけで、自在に操れるようになっていた。
瞬き一つせず、乙子が立ち上がる。
そのまま、右を向き、すたすたと台所まで歩く。
もちろん、俺の頭の中には、彼女のアイレンズに映る我が家の台所の風景がリアルタイムで映し出されている。その画像の鮮明さたるや、実際に俺が目にしている麻耶のアホ面よりよっぽどくっきりしているくらいだ。
乙子を冷蔵庫の前まで移動させる。手を伸ばして取っ手をつかみ、手前に引く。
冷やりとした空気が頬を撫でる感触がした。こういう体感覚まで、センサーで感知し、正確に送信してくるんだから、まったく驚異である。
ジャムのビンを探し出し、ドアを閉めた。
乙子をダイニングルームまで戻す。
アイレンズ越しに映るひどい寝癖頭は、我が妹のものだ。こうやって客観的に見ると、わりと可愛い容姿をしている……ように見えなくもない。
そして、彼女の対面には、地味な顔立ちの少年が、ぼーっと座っていた。
……いや、俺自身だけど。
「そういえば麻耶、おまえ、俺がこいつ乙子の裸を見ても、ぜんぜん怒らなくなったな」
俺は彼女にそう言った。
「はぁ?」
「ほら、乙子が送られてきた初日、おまえすごく怒っただろ? 変態とかなんとか言って」
たしかあのときの麻耶は、俺の首をへし折りかねない様子だったはずだ。
ところが一夜明けた次の日には、俺が乙子を風呂に入れようが、一向に気にしなくなっていた。それどころか一緒に洗うとまで申し出てくる始末だ。
この豹変っぷりはどういうわけだろう、と俺は密かに気になっていたのだった。
「ああ。だって、あのときは、この子がほんとに人間の女の子だと思ったんだもん。今はロボ子ちゃんだってわかってるしー」
「そこがよくわかんねえんだが。ロボだろうが、なんだろうが、その、なんだ、女としての造りはアレなわけで……そのへんは、おまえ的にNGにならねーのか?」
麻耶は、パンを一口もぐもぐやると、こともなげに言った。
「そんなのいまさらって感じだよぉ。だって、兄ぃ、なんかアニメっぽいお人形の着着せ替えとか、いっつも部屋でやってるじゃん」
「な――」
あまりの驚愕に言葉を失う俺。こ、こいつ、なんで俺が美少女フィギュアを密かに集めてることを知ってんだ? 普段はガンプラの箱の中にきちんと隠してあるというのに。
「お、おま、どんだけ俺の部屋をかぎまわってんだよ!?」
「でも、ぱんつ履き替えさせるときに、寄り目になるのだけは気をつけた方がいーよ。あれ、傍から見て、最っ高にキモいから」
「傍から見んな!」
まさか盗撮カメラでもセッティングしてんじゃないだろうな。今度部屋を徹底チェックしておかなければ。
「まー、よーするに、小さいお人形遊びが、ちょっと大っきめのお人形遊びになっただけでしょ? 麻耶、そのへんはもー諦めてるから」
「………左様ですかい」
もはや、反駁する力も失い、俺は力なくそう言った。
しかし、まさかフィギュアまでばれてるとは。麻耶や美羽は、当然俺がオタクであることを知っているが、どの程度ディープなのかは、極力表に出さないようにしてきたつもりだった。
その前提を根本から見つめなおさなければいけないようだ。
そこで、俺はふと、二日前の放課後女子トークを思い出した。
あのときもたしか、似たような衝撃を受けなかったか。
「なあ、麻耶」
「まーだなにかあんの~」
「ぶっちゃけ俺って、オタクっぽいか?」
ずばり核心を質問する。
「なに言ってんのいまさらー。オタっぽいもなにも、兄ぃは立派なオタクじゃん」
「いや、そうじゃなくてさ。普段の言動とか、見た目とか、みるからにそれっぽいオーラがでちゃったりしてるかって、話なんだが?」
『なんかそんなオーラが出てるってゆーか』。あの日、菱沼が言っていた言葉を思い出す。
麻耶は、ちょっとだけ真剣な顔になって、こちらをうかがった。
「いいの? はっきり言っちゃって」
「おお」
「出てる。それもおもいっきり出てるよ」
妹はあっさりと告げた。
「……マジで?」
「うん。身内のひいき目から見ても、否定しようがないっくらい。麻耶、やさしーからいつもは言わないけど」
「ち、ちなみにたとえばどんなとこが、オタっぽい感じなんだ? できれば具体的に頼む」
「ん~、そーだなー、一番アレなのは、よくにやにやしてるとこかなぁ」
「え? にやにや? してる? 俺」
「うん。テレビ見てたり、漫画とか読んでるときに、思わず笑っちゃうのはわかるんだけど、兄ぃの場合、なんにもないときに、にやにやしてることがあるでしょ? 頭ん中でなに考えてんのかな~、とか思っちゃうわけ」
言葉を失う俺。そんな風に、にやにやしてる自覚なんかないぞ。いや、カラガミのヒロインとのやりとりを思い出し立てるときなんかは、たまーに自分で『あ、いけね。俺笑ってるじゃん』とか思うことはあるけど。大概の場合は、自制をきかしている……はず。
俺は試しに、先日、カラガミでプレイした八咲との会話を思い出してみた。
『先輩、なにスカートの中、見ようとしてるんですか。そんなことしても無駄ですよ』
→選択肢から『無駄なら見せてくれよ』を選ぶ。
『いいですよ。ほら、水着を着てるでしょ? 残念でしたね、えっちな先輩』
俺は、乙子の視点に映ってる自分の姿を、確認する。
にやにやしていた。それも思いっきり、気持ち悪い感じでにやにやしていた。
そんな馬鹿な、と思う。なにより、恐ろしいのは、いまだ自分が笑っている自覚がないことだ。
自分では表情筋を普通にキープしているつもりなのに、脳内映像に映る光景では、たしかに、にやついている。
そうか。……これがオタばれの原因か。こういう無自覚なもんが積み重なって、『オタクっぽいから、オタク』という判を押されてしまったわけだ。
なんてこった。一瞬目の前が暗くなる。ひとたび周囲に、そういう印象が根付いてしまったら、まず覆すのは不可能だろう。すくなくとも、一朝一夕には。
なら、いっそ――
「兄ぃ、どーしたの、ぜんぜん箸が進んでないよ? いらないなら、麻耶にちょーだい」
妹がベーコンをひょいとつまんで口に運んでも、俺はそれを咎めることさえしなかった。
頭の中に沸きあがった、あるプランを検討するのに、忙しかったからだ。
恐らくかなりの危険を伴うことになるだろう。どうするか……。
ふと、食卓に置いといた今朝の朝刊の一面に、俺の目がとまる。そこには、大きな見出しで『国内のリストラ対象者が過去最高記録を更新』と記されていた。
……やむを得まい。俺なんかよりも、路頭に迷うかもしれない大勢の人たちの方が重要だ。
俺は決意を固めると、さっさと朝食を片付けるべく、箸を手に取る。
しかし、皿を覗き込むと、すでにおかずは一品も残っていなかった。
「ごちそーさまぁ、あー美味かった☆」
◆◆◆◆◆◆◆
ピンポーン。玄関のチャイムが鳴った。
「いま行くー」
来訪者が誰なのかわかっていた俺は、大声でそう叫んだ。麻耶とともに玄関まで行き、靴を履いてドアを開ける。
案の定、俺たち兄弟を出迎えたのは制服を着た幼馴染みだった。
「おはよ」
「おはようさん」
「おっはぁ、美羽ちゃーん」
朝の挨拶を済ませると、美羽は怪訝そうな顔で、俺たちの背後へ視線を向けた。
「あれ? 字円さんは?」
「ああ、彼女なら、まだ身支度してるよ。もうちょっと時間がかかるから、先に行ってて欲しいってさ」
「そうなの? じゃあ、私たちも待ってましょうよ」
「いや、本人がいいってんだから、先に行っとこうぜ」
「え? でも――」
「いいからいいから」
俺はかなり強引に美羽を門外まで連れだした。同時に屋内の乙子を操作し、声をあげる。
「先に行っててくださいー、私にお気遣いなくー」
「ほら、かえって気を遣わせることになるだろ」
美羽は不承不承といった感じで、歩き出す。
やれやれ、なんとかうまくいったか。俺は、軽く胸をなで下ろした。
今日のリア充演出プランは、この登校時がスタートとなる。
キーポイントは、『最初は単独行動』。昨日の話の流れからいって、美羽は乙子と一緒に登校したがるだろうと思っていたが、どうにか引き離すことができたようだ。
俺は、美羽や麻耶とたわいのない話をしつつ、乙子を動かし始める。
玄関まで移動させ、靴を履かせ、門を抜けさせる。
そこで立ち止まり、門柱の陰から、そっと前方の様子をうかがった。
十数メートル先を並んで歩く三人組。一人が男子で、残りは女子という構成だ。
もちろん、俺自身と麻耶と美羽である。ついさっき、まさにこの家から、出発したのだから、姿を確認できて当前だ。
にしても、てくてく歩く自分の後頭部を後ろから眺めているというのは……変な感じだ。
まあ、いい。さっそくプラン通り、事を進めよう。
俺は乙子を数メートル先の電信柱の陰まで、移動させた。
電柱から顔だけを突き出し、俺たちの方を確認する。
「雄一君………」
そう呟かせ、何をするでもなく、じーっと遠ざかってゆく俺の背中を眺め続ける。
ある程度、距離があくと、小走りに次の電信柱の陰まで移動し、再び頭を出してのぞく。
俺は、乙子に一定の距離を保たせ、同じことを繰り返させた。
いったいなにを行っているのか。それはずばり、『好きな男子のことを、物陰からそっとうかがうシャイな少女』の演出である。
男というのは、積極的に好意をぶつけられるのも好きだが、同じくらい、恥ずかしそうに自分になかなかアプローチできないというシチュエーションを好む。いわゆる、『物陰ヒロイン』にキュンとくるのだ(いわゆるとか言いながら、命名は俺だけど)。
前回までは、そうとうアグレッシブな演出を行い、またそれにことごとく失敗したので、今回はちょっと攻め方を変えてみることにしたわけである。
「……雄一君、美羽さんと話してるとき、すごく楽しそう……」
乙子の呟き声に、道を行く人々が怪訝そうな顔で振り返る。
ちなみに、こそこそ動いているように見えて、実は乙子は目茶苦茶目立ってる。というか、意図的に俺がそのようにしている。
理由は単純。登校中の我が校の生徒たちの目にとまりやすくするためだ。
今回のプランは『物陰ヒロイン』の演出がベースだが、だからといって、本当に人目につかないように行動していたのでは意味がない。
俺は、ベストカップルコンテストで優勝しなければならず、そのためには生徒の投票を多く集める必要がある。票を集めるためには、いかにリア充なカップルであるかを、投票権のある生徒たちにアピールしなければならない。
だから、奇妙な話だけども、『好きな男子のことを、物陰からそっとうかがう』という行為をおおっぴらかつ人目をひくように行わなければならないというわけである。
「うらやましい……」
俺は、乙子に、ハンカチをくわえさせ、歯を食いしばらせる。
びりびりびりーっ。
ハンカチが裂ける。嫉妬の演出だ。
しかし、自分で自分に嫉妬するとか、もはや頭を疑うレベルだが、ほとんど恥ずかしさが込み上げてこないのはどういうわけだろう。もう慣れてきたんだろうか。
俺は遠ざかる自分の背中に、そっと問いかけた。
「やっぱり、美羽さんが好きなの? 雄一君……」
「いえ、それはないです」
こたえは、すぐ近くからかえってきた。ぎょっとして、振り返ると、乙子の背後に張り付くようにして、一人の女子生徒が立っていた。
やや小柄な体躯。額で切りそろえたおかっぱ頭。
「小日向………さん?」
俺はその女子の名を、戸惑いながら口にする。
「はい、そうです。同じクラスの小日向やよいです。お話しするのは、初めてですよね?」
「……ええ、たぶん」
オレ自身である本体の方では毎日会話しているが、乙子で彼女と話した記憶はない。
しかし、なぜこちらの後ろにへばりついているんだろう。
「では、こんな場ですが、改めてよろしくお願いします」
そう言いつつ、小日向さんは右手を差し出してきた。電柱の陰から体がはみ出ないように注意しているため、姿勢がかなり窮屈そうだ。
「はあ……」
とりあえず手を握る俺。
と、そのとき、俺は、自分と乙子との距離がかなり開いてしまっていることに気付いた。このままでは、物陰からうかがうにしても、遠すぎる。
「すいません、私、急いでますので。学校でまた」
俺は背後にそう言い捨てると、素早く、移動を開始した。
目指すは20メートルほど先のブロック塀の陰。あそこが隠れ場として最適だろう。
すすすすすっと、迅速に歩を進める。
次の瞬間、俺は奇妙なことに気付いた。路上に落ちる乙子の影が異様に大きい。
いや、違う。これは俺に重なるようにして、誰かがすぐ傍らに立っている?
まさか、と思いつつ、後ろへそっと首を回す。
思わず、声をあげそうになった。
小日向さんは、先ほどと全く変わらぬ距離を保ち、俺の真後ろに立っていた。
おかっぱ頭の下の大人しそうな顔は、至極平然としている。まるで、ごく普通の行動をとっているだけですと言わんばかりに。
慌てて先に進む。
すると、小日向さんもぴったり同じ速度でついてくる。まるで忍者のように物音一つ立てず、正確に俺の足取りをトレースしてくる彼女。
軽く恐慌に陥った俺は、一時的に隠密行動の演出も忘れて、目的地の塀の影まで、全力疾走した。
それから、恐る恐る背後を振り返る。
いた。呼吸一つ乱さずに。
「な……なんなんですか?」
「はい?」
「なんで私のあとをつけてくるんですか!?」
俺の問いかけに、小日向さんは小首を傾げる。
「私があなたのあとを? 違いますよ。つけてるのは、あっちの方です」
彼女は塀の影から、くいっと前方を示した。
そこには、集団で登校する三人の生徒の姿があった。女子二人は、相も変わらずのんびりとした歩調だが、男子の方は若干ぎくしゃくした歩き方になっている。
……いかん、つい動揺して、不自然な動きになっとる。妙だと思われないうちに、直さねば。
「えーと、つけてるって、誰をですか?」
「琴弾君ですけど」
ずるっと、その琴弾君が足を滑らせた。美羽が、「大丈夫? さっきから変よ?」と声をかけてくる。
「な、え、俺――じゃなくて琴弾君? なんで?」
「もちろん、彼を愛しているからです」
額から盛大に地面に突っ伏すオレ本体。
文字通り壊れたロボットのような声音で、俺は小日向さんにぎこちなくたずねた。
「ア、アイシテルってどーいう意味かなぁ?」
「そのままの意味です」
「わかった! 『あ、石、出てる』って意味だ。道の上だしねー、つまずかないように注意してくれたんだよねー。まさかまさか、英語でラブとかいう意味じゃない……よね?」
「ゲーム用語で、『嫁』という意味です」
終わった。俺は路上で真っ白に燃え尽きた。
「それはそうと、字円さん。先ほどの疑問のこたえですが、琴弾君は、まだ椎津さんとそのような関係にはなっていないはずですよ」
彼女がなにか言っていたが、その言葉を理解するだけの余裕は、俺の心に残されていなかった。
つまりなんだ、このちょっと親しいクラスメイトだと思っていた女の子が、実はこの俺のことを……好きだったってことか?
でも、俺、そんなこと、ぜんぜん気付かなかったぞ? 毎日、会話していたのに?
激しい混乱に、オレは本当に目眩がしてきた。
本来なら、ものすごく嬉しい事態のはずだ。小日向さんは、控えめな性格と外見をしているが、実はとてもかわいいので、『地味美人』と一部の男子から評判だったりする。かくいう俺も、唯一話の合う女子である彼女が、けっして嫌いではなかった。というか、かなり好印象を抱いていた。
だが、今の俺は、とにかくいっぱいいっぱいなのだ。
ただでさえこんなロボットを押しつけられ、変なミッションを与えられ、しかも駄目押しで昨日、美羽に生まれて初めて女の子の方から告白された。
ただでさえ乏しい俺の恋愛キャパシティーは、許容の限界を大幅に超えてしまっているのである。これ以上、想定外の事態が重なったら、麻耶のパンツを頭にかむって、町内を大声で走り回りださないとは言い切れない。
「椎津さんが琴弾君のことを好きなのは確実ですが、彼の方は、今のところ、ただの幼馴染みとしての感情しか抱いていないはずです」
淡々と言葉を紡ぎ続ける小日向さん。それを聞いて、俺はようやく多少我に返った。
「なんだか、二人の間柄にずいぶん詳しいみたいですね……。でも、そのへんの気持ちって、そうとうプライベートなことだと思うんですけど。小日向さんは、二人から恋の相談とか受けたことがあるんですか?」
多少会話するとはいえ、俺と小日向さんの関係は、気安く恋バナをするほどではない。可能性があるとしたら美羽の方だが、こちらにいたっては、彼女と会話しているところさえ、見たことがなかった。
にもかかわらず、彼女の推察は、恐ろしいまでに的確である。
「いいえ」
と小日向さんは首をふる。
「でも、実際に話をしなくても、情報を得ることは可能ですよ」
「どうやってですか?」
「毎日、子細に観察すれば、大概のことはわかります」
俺はじっと彼女を見つめる。小日向さんも、無言でそんな乙子を見つめ返す。
しばし間が空いた。
「……えーと子細に観察? それどういうこと?」
「いままさに私たちが行っていることですが」
再び、塀の陰から、くいっと前方を示す小日向さん。そこには、いまだ路上に突っ伏している俺の姿があった。「どうしたのよ?」といいながら、美羽が俺の後頭部をぱんと叩く。
「痛!」
「? どうしたんですか?」
思わず、乙子の方で叫び声をあげたら、小日向さんに怪訝そうな顔をされてしまった。
「なんでもないです。それより、今私たちが行っていることって?」
「ストーカーです」
断言した。断言したよ、この人。
「私は毎日、琴弾君のことを密かに観察し、それを詳細に記述した上で、分析しています。結果、彼のことについて、非常に詳しくなりました。たぶん地球上で、最も熱心な『琴弾雄一ウオッチャー』でしょう」
「そんなウオッチャー、あんたしかいねーから!」
小日向さんは小首を傾げる。
「しかし、あなたも同様のことをしているように見受けられるのですが」
言葉につまる俺。
たしかにそうだ。つまり、俺の『物陰ヒロイン』の演出は、端から見てストーカー行為そのものだったってわけである。
今、俺が小日向さんのことをこえーと思ってるのと同じように、乙子の行動を見た生徒たちもこえーと思ったに違いない。プランは早くも瓦解したってわけだ。
しかし、今はそれどころじゃない。問題は、この一見大人しいクラスメイトが俺をストーカーしちゃってるらしいってことだ。
「あなたは、琴弾君と同じ文房具を使っていますよね?」
ぼそっと、小日向さんが言う。
「え?」
「彼の持っている文具は、市内の商店街の『ぶんぶくどう』でしか売っていない物ばかりです。琴弾君は、その店に愛着があるらしくて、そこでしか文具類は購入しないのです」
たしかにそうだ。ぶんぶくどうは、俺が小学生の頃に初めて行った文房具屋さんで、以来、なんとなくその懐古的な雰囲気が好きになり、ずっと通い続けている。
しかし、そのことを誰かに言った記憶は、俺には一切ない。
小日向さんは、鞄に手を入れると、筆箱を取り出した。
「これは?」
「ぶんぶくどうで売っている筆箱です。このあたりでは、まずそこでしか手に入りません」
「へー」
俺はしげしげと筆箱を眺めた。小日向さんが言を続ける。
「それだけではありません。その筆箱の中のシャープペンも消しゴムも蛍光ペンも食玩も、すべてその店で購入したものです」
俺は、ゆっくり筆箱から眼前の少女へ視線を移した。
「………えーとそれって、つまり」
「はい。彼を観察し続けた結果、彼がその店をひいきにしていることを突き止め、彼と同じ物を取り揃えるべく、購入しました」
「…………」
言葉を失う俺。小日向さんは、そんなこちらを見て、少し意外そうな顔になる。
「あなたも同じ目的で、あの文具類を揃えたんじゃないんですか?」
「え?」
「だって、彼とそっくり同じ文具を使っているじゃないですか」
ぎくりとする俺。
まずい……何にも考えずに、自分の使っている道具を乙子の方にも持たせていたが、まさかこんなところで足がつきそうになるとは。
こいつは、下手なこたえを返すと、乙子と俺の関係に気付かれる恐れがある。
「ち、違いますよ。偶然の一致です。ほら、私、最近こっちに越してきたばっかりじゃないですか。だからどんなお店があるのか、近所をちょっと歩き回ってみたんです。そしたら、あの文房具屋さんを見つけて、衝動買いしちゃったんです」
えへっと舌を出す俺。内心冷や汗をかきながら、彼女の反応をうかがう。
「ああ、そうだったんですか」
かなり苦しい嘘だったが、幸い小日向さんは納得してくれたようだ。
俺はほっと胸を撫で下ろした。にしても、俺がなんの文具類を使ってて、しかもそれをどこで買ってるとか……もはや観察眼が鋭いとかいうレベルじゃねーだろ、どう考えても。
「あ、あの、念のために聞いときたいんだけど、どの位の頻度で琴弾君をウォッちゃってるのかな?」
「もちろん常にです」
なんでか知らんが、やたら堂々とこたえる小日向さん。
「つ、常に?」
「はい。正確には、彼と同じ空間で過ごしている間は、ですが。ウォッチというよりは、絶えずアンテナを張っている感じでしょうか。視覚、聴覚はもちろん、全身の神経を張り詰めさせて、彼の一挙手一投足を感じ取っているのです」
俺は呆然と彼女を眺める。確かに、いまこうやって会話をしている最中も、小日向さんの目は塀の陰から前方へとひたりと据えられていた。
「雄一、いつまで道端にかがみこんでんのよ!」
「他の人に迷惑だよ、兄ぃ~」
美羽と麻耶が口々に、注意してきた。俺は、はっと我に返り、慌てて立ち上がる。
そうだ。あまり不自然な行動をしていると、小日向さんになんらかの疑いを抱かれてしまう可能性がある。なんといっても、相手は今この瞬間にも俺を観察しているのだ。
「さあ、早く学校に行こうぜ。遅刻しちまうぞ」
「はぁ?」
美羽が、なに言ってんだこいつ的な目で見てきたが、かまわず歩き始める。
すると、間髪いれずに、小日向さんが移動を開始した。俺も慌てて乙子を、続かせる。
さきほどのように、つかず離れず一定の距離を保ってつけてくる小日向さん。
だが、彼女の動きや素早さは、格段に俺より精錬されていた。この人、どんだけ慣れるの、と思わず青ざめずにはいられないレベルである。
「ふむ……今日の琴弾君は、いつもより若干歩調が早いですね……」
そう言いつつ、いつの間に取り出したのか、片手に持ったスマホを素早くフリックする。俺はそっとその手元を覗き込んでみた。
『〇月×日AM7・40
琴弾君の歩調がいつもより若干早い。普段は、10メートルを10秒以上かけて進むのに、今日は6、7秒で進んでいる。人は不安事を抱えていると早足になる傾向があるけど、もしかしてなにか悩み事があるんだろうか、彼を愛する者としては心配だ』
…………………………。
俺はますます、足を速める。
「ち、ちょっと」
「待ってよ、兄ぃ~」
美羽と麻耶が慌てるが、歩調を緩めない。
しかし、小日向さんもまったく同じようにペースをあげてくる。
同時にその右手がひるがえり、スマホに新たな文字列が書き連ねられた。
『ますます足が速くなった。いったいどんな心の悩みを抱えているんだろう。私がなんとかできるなら、なんとかしてあげたい。彼を心から愛しているので』
いや、あなたが怖いせいですから! なんとかしてくれるなら、いますぐストーキングをやめてくれればいいだけですから!
俺のそんな心の叫びなどおかまいなく、物陰から物陰へと素早く移動していく彼女。ときに通行人さえも隠れ蓑に使うその手腕は、すでに職人芸にまで達しているように見えた。
結局、俺は校門に辿り着くまで、小日向さんを振り切ることができなかった。
「あの……毎日、こんなことを?」
乙子で、念のためにもう一度たずねる。
「はい」
否定しろよ、少しは。
「まだ、少し時間がありますね。飲み物でも一緒にどうですか」
小日向さん優しげな微笑を浮かべ、乙子にたずねてきた。ほんと、普通にしてればかわいいのに。
とにもかくにも、朝のストーキングは、とりあえず終了したらしい。俺は小日向さんの申し出を受けることにした。彼女にはまだ色々とききたいことがあったからだ。
俺たちは自販機コーナーまで歩いていく。早朝の校内はかなり騒がしいが、ここいらにはひとけがない。朝からジュースを飲む人はあまりいないからだろう。
「コーヒーでいいですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
小日向さんが、缶コーヒーのボタンを2回連続で押した。
乙子はロボットだから、当然、摂食は不要だが、飲食自体ができないことはない。いや、もちろん消化吸収という機能は備わっていないが、口から取り込んだものを腹部に内蔵されているタンクに一時的に保存することができるのである。
とはいえ、食べ物を粗末にすることになるので、極力こいつになにかを口にさせることは避けてきたのだが、今回はやむを得まい。
俺と小日向さんは、自販機脇のベンチに並んで腰を下ろした。
どうするか迷った末、俺の方から切り出してみる。
「あの……一つ聞いていいですか」
「はい」
「小日向さん、最初に話しかけてきたとき、私のすぐ後ろにいましたよね?」
「ええ」
「いつからいたんですか?」
「話しかける直前ですよ。私が、日課の早朝ストーキングを開始する場所が、ちょうどあの電柱の陰からなんです。先客がいたんで、正直びっくりしました」
こっちがびっくりしたわ。っていうか、日課の早朝ストーキングて。早朝ランニングみたいに、普通っぽく聞こえるとこが怖い。
とはいえ、俺は内心胸をなで下ろしていた。彼女が、もし我が家からストーキングしているとしたら、必然的に乙子が俺の家から出てくるのを目撃したことになり、かなーり面倒な事態になることは必須だったからだ。
「でも、少し嬉しかった」
小日向さんは、いつものどこか控えめな上目遣いで、微かな笑みを浮かべた。
「同志は初めてだったんです」
「同志?」
「はい。琴弾君が大好きで、琴弾君のことを知りたくて仕方なくて、ついストーカーしちゃう同士です」
……喜ぶなよ、そんな同志。
「たしかに、一昨日のいきなりの告白とか、昨日のお弁当とかは正直引きましたけど……それも、彼のことを思うあまり、ということでしたら理解できます。もちろん、ライバルとして、彼を譲るつもりはありませんけど」
「……そうですか」
しかし、こんなスト子ちゃんに、引かれるとか……俺、どんだけ痛かったんだよ。
「ところで、小日向さん、さっき歩きながらメモしてたよね? あれはなんですか?」
「ああ、あれは記録をつけてたんです。ただ彼のことを見るだけじゃなくて、ちゃんと記録に残しておかないと、あとで分析できませんから」
「分析……ですか?」
そういえば、さっきそんなことを言っていた気がする。
小日向さんは、スマホに指を走らせた。
「たとえばですね、ここ一ヵ月に琴弾君がコンビニに寄り道した回数は、私の知る限り8回です。それも決まって月曜と水曜に足を運んでいます。そして、立ち寄った際には必ず漫画雑誌を立ち読みしています」
たしかにその通りだ。俺はほぼ必ず月曜と水曜に、コンビニで立ち読みする。読みたい週刊漫画誌がその日に発売するからだ。
「さらに、現在もっとも愛読している漫画はカラガミのコミカライズ『カラガミ+』です。次が、某大作アクション漫画、次が――」
すらすらと言葉を紡いでゆく小日向さん。そんな彼女に、俺は背中に氷を入れられたような戦慄を禁じ得なかった。発言のすべてが、恐ろしく的確だったのだ。
俺は乙子の目を通して、乙子の眺めている光景をすべて知ることができるけど、小日向さんも同様に俺の視界を共有しているのではないか、と疑いを抱きたくなるほどである。
「ちなみにヒロインの裸が出てくる回は、いつもより長い時間をかけて読む傾向が――」
「ち、ちょっと待って!」
「はい?」
俺は恐る恐るたずねる。
「なんでそこまでするの?」
彼女は、節目がちにこたえた。
「もちろん、琴弾君と話をするためですよ。彼がなにを楽しみ、なにを好むのか知っていれば、その話題で、もりあがることができるでしょう?」
そういうことか……。俺には、だんだんわかってきた。前々から小日向さんとは話が合うと思っていたが、ちょっとばかり趣味が一致しすぎるとも思っていたのだ。裏で、こういうからくりが働いていたわけだ。
「私、すごく口下手なんです……。人見知りもする方だし、特に異性と対面すると緊張してしまって。だから、琴弾君との会話に困らないように、入念に準備する必要があるんです。つまらない子だと思われないように」
「……別に、彼はそんなことでつまらない子だとは、思わないと思うけど」
「そうでしょうか……」
そのとき、予鈴が鳴り響いた。
「ホームルームが始まりますね。教室へ行きましょう」
小日向さんはそう言うと、ベンチから立ち上がった。
俺も乙子に腰を上げさせ、自分のクラスへと向かわせたのだった。