潜入捜査
男と「俺」は再び女の記憶の海へ潜る。
悪魔が語る『人助け』の正体とは?
記憶世界パート
それからどうやって先生と合流したのか、どう逃げたのか全く覚えていない。
ともかく、気がついたらベットに寝かされていた。鼻をつくアルコールや薬品の臭いたちこめる中、准教授が俺の顔を心配そうに見つめている。
「あぁ、良かった。目が覚めた!死んじゃうんじゃないかと思ったよ!」
「何の事ですか?」そう聞こうと口を開けたが、上手く動かせない。口の左側に大きなガーゼがテープでべっとりと貼り付けられていたのだ。剥がそうと左腕を動かそうとするものの、肩が動かない。
「おっと!動かないで!左肩も痛めているんだ。それに右脇腹は肋骨が二本も折れてる。」
何だその大怪我。先生の言う意味が分からず、動かせる範囲で頭を動かして自分の体を見てみる。頭に包帯、鼻に呼吸を助けるチューブ、左頬にはさっきのガーゼ。左腕は布で吊られ、動かせないよう固定されている。包帯でぐるぐる巻きの胴体はミイラ男のようだ。真っ白なベット、白い部屋。まだあの教会の中にいるのかと思いきや、ここは病院の個室だ。俺は怪我をしたのか?
「一番派手なのは背中の刺し傷だけどねー!良かったねー、急所外れてた上に浅くってー!」
仕切りの向こうから紅い女が現れて、先生の肩に艶かしく擦り着いた。先生も満更でも無い様子。リア充爆発しろ!
「痛みを感じないからって、無茶をしては駄目だよ!痛みが無くても不死身な訳じゃ無いんだから!」
そう、俺は去年から無痛症を患っていた。痛みの類いを感じないため、舌を噛んでも蜂に刺されても足に針が刺さっても自分では気づけない。血まみれになったまま平然と研究室へ行き、そのまま病院送りになる事もしばしばあった。
先生が医者から聞いた話によると、最初の突入の時点で俺の左肩は脱臼しており、右手も骨折していたらしい。その状態で人を二人殴り倒したため、傷の程度が酷くなったとか。
「…あの人らち、だいじょううえしたか?…」
「うん。軽い脳震盪と一時的な呼吸困難だって。それと、君を刺した女性は傷害で警察に捕まったよ。案の定、あの教団は怪しい事をいくつもやっていたらしい。」
自分で言うのもなんだが、よく聞き取れたな、准教授殿。
「『己の欲望に忠実なれ』『神に懺悔すれば如何なる罪も赦される』。そーんな信条で教徒の悪事を隠蔽してたんだってー!でもねー、あの大学生程の悪事は流石に幹部たちも頭を抱えちゃってー、彼の歪んだ性癖を叩っき治して再犯しないようにしたかったのー!」
彼が捕まれば教団の信条について証言しかねない状態だった。そうなれば警察や世間に向けられる目が厳しくなり、他の教徒の悪事も発覚してしまうかもしれない。それを阻止するために紅い女を雇ったそうだ。よりによってこの女に助けを求めるとか、よっぽど困りきっていて判断力が欠如していたのだろう。
「それにしてもアケミ、どうやってあの大学生を改心させたんだい?確かに君は心理学の知識も持っていたけども、臨床で実践する程のものでは無かっただろう?」
ンフフ~♪と、女はにやける。でも答えない。夫の命令には行き過ぎなくらい忠実な女にしては珍しい。タイミング良く、病室のドアが開いた。いつの間にか先生がナースコールを押していたらしい。四十代後半の男性医師が看護師を2人連れて入ってきた。さらには、
「お兄ちゃん!」
妹も丁度お見舞いに来てくれたようだ。勢いよく部屋に入ってきた妹だが、紅い紅い女の視覚的刺激が強すぎてドアから2・3歩のところで急停止した。真っ白な病室に真っ赤な女。強烈なコントラストに瞬きの回数が増える。家族に関するあらゆる記憶を失った妹は、紅い女のことも覚えていない。最も忘れなくてはならない存在との再会。思い出してはいけない記憶が戻りはしないかと、俺と准教授殿は戦慄を覚えた。
「あら~、妹さん?学校休んでわざわざ来てくれたんだー!良かったねぇ、愛されてるねぇ、菊池くん♪」
その言葉だけ残して、意外にも紅い女は空気を読んで邪魔をしないようにと先生を連れて病室を立ち去った。女にとって、妹は最早興味の対象ではないのだろうか?ともかく、きょとんと二人を見送る妹に異変は無い。良かった。深く息を吐いてベッドに全体重を預ける。怪我の痛みは感じないが、疲労がどっと押し寄せる。まぁ、一日中計算機や装置の前で座って作業している理系学生があれだけ大暴れすれば疲れるよなぁ。襲ってきた睡魔に抵抗する元気も無く、すとんと眠りについた。
ふわふわという浮遊感に、うっすらと目を開けた。薄明るい水の中、俺の体は漂っている。海の中のようなのに、目を開けても目が痛くならない。この感じ、知っている。何度か研究室で体験した感覚だ。辺りを見渡してみると、水中にいくつか光る気泡が漂っている。俺の体はそのうちの一つに半分くらい入っていた。頭を気泡の内側に入れてみる。そこは病院で、部屋のななめ上からの視点になっていた。ベッドには体のいたるところに包帯を巻かれた俺。横に置いてある椅子に先生と紅い女が座っている。
「やあ、気が付いたかい?」
声の主を確認するより先に、ちょっと文句を言っておく。
「病院に装置を持ち込んだんですか?全く…この装置を狙っている輩は星の数ほどいるってのに…」
そう。ここは男が作った世紀の大発明、記憶読み取り装置によって再現された誰かの記憶の中だ。人間の記憶はこの広大な海のような空間に気泡として浮かんでおり、気泡を覗くことによってその記憶を見ることができる。しかし、あくまでここは海の中。記憶の主と共有している記憶の中でしか息はできない。
これはつい先ほどの俺の病室での記憶だ。と、いう事は記憶の主は俺か男か紅い女の内の誰かだ。
「そう?何の問題もなく僕の車で運んで来れたけどなぁ。心配しすぎだよ、君。」
あんたが心配しなさすぎなんだよ!と叫ぶのは心の中だけにしておいた。
記憶の海の中は精神の姿で泳ぎ回ることになる。男の姿が若いのはそのためだ。自分で確認したことは無いが、俺も高校生くらいの姿をしているらしい。…精神年齢が低くて悪かったな。
「で、これは誰の記憶なんですか?」
「もちろん、アケミだよ。君をこんな目に合わせてしまったのも、元はと言えば僕がアケミのする『人助け』の正体を知りたがったことが発端なんだから。真相を知らずに終われないだろ?」
真相とかどうでも良い。頼むからもう俺を厄介事に巻き込まないでくれ…。
「ていうか、よく記憶を見せてくれる気になりましたね、奥さん。直接聞いてもはぐらかしてたのに。」
男は複雑そうな顔をした。以前も紅い女は男に秘密を抱えていた。直接聞いても答えてくれず、男は悶々とする日々を過ごしていた。その時は秘密を教えてくれと頼まず、記憶を覗かせてくれと頼んで女が体験した思い出したくもない記憶を見ることができた。今回も同様に女は記憶を覗くことを許してくれたらしい。
「…アケミは僕のお願いを何でも聞いてくれてしまうからね…。」
「お願い」なんて無難な物言いをしたが、実際は「命令に忠実に従ってしまう」と言った方が正しい。紅い女は辛い経験をしてからというもの、自分が許せず、自分を信じられず、自分の存在価値を見いだせずにいる。そんな彼女は人形として男の所有物となることを望んだ。男に異常なほど依存し、支配されることで心の平静を保っている。
「さあ、アケミの『人助け』の正体を暴きに行こう。」
「…先生は、怖くないんですか?」
以前、女の秘密を探って二人で記憶の深層へ潜ったことがある。その際、俺たちはとても怖い思いをした。女が受けた非情な仕打ちもさることながら、女の復讐の異常さ・悍ましさを目の当たりにしてパニックに陥り、結局俺たちは最後まで記憶を見ることを諦めた。あんなに怖い思いをまたしたくはない。
「怖いよ。怖いさ。でも、僕たちは十分『知らないことへの怖さ』を知っているはずだ。それに、少なくとも僕は君を危険な目に合わせてしまった責任がある。君が作ってくれた真実を知るチャンスを無駄にしたくはない。」
「……先生って結構ホラー好きなんですね。」
仕方ない。と、言いながら俺もここまで巻き込まれてしまったんだ。最後まで付き合おうと心を決めた。
最近の出来事だったので、目的の記憶はすぐに見つかった。俺と男はそれぞれが呼吸できる記憶で十分に息を肺に溜め込み、互いに頷きあって同時に『人助け』の記憶を覗いた。
場所は窓の無い白い白い部屋。作りから言って地下かもしれない。全てが白い内装から言って、ここがあの教会の中であることは疑う余地が無い。ドアと反対側の壁には白鳥の翼を頭に生やした男の像(これも白い大理石でできている)が祭られている。部屋の中央には机と一対の椅子。向かい合わせに紅い女と大学生が座っており、大学生の後ろには母親らしき女が心配そうに立っている。女の傍ではベニクサとベニボシが遊んでいる。また、ドアの両側には俺を刺した女と腰を抜かしていた女の2人が見張りとして立っている。
「うんうん、つまりー、大学生君はー、小学生くらいの男の子がー、初めて性的な刺激を受けた時のー、ウブな表情を見るのが好きなわけだー。」
のっけから衝撃発言をして下さるあたりが紅い女らしい。恥ずかしい話を反復されて大学生も赤くなっちゃってるし。
「それにー、人生初の絶頂を迎えようって時にー、首を絞めてー、快楽と苦痛のごちゃ混ぜになった顔を見るのはもっと好きなわけだー!」
相当歪みきってしまっている大学生の性癖を暴露する相当狂っている女。早くもこの記憶から立ち去りたい気持ちでいっぱいだ。
「それで何何?4人だっけ?殺しちゃったの。あーあ、君の人生終わったねー。ちゃんちゃん♪」
「5人です…。あと、これから楽しむのが1人います。」
あれ?警察の発表だと行方不明になっている男の子は4人じゃ…。
「おー!もっと終わったね!終わりきったね!」
「ごほんっ!」と後ろの白ずくめの女が咳払いをする。そうならないように矯正して欲しいという依頼なのだ。もっと真面目にやってくれと釘を刺す。
「はいはい。さて、で、その5人の体の一部がこれら、と、」
「…はい…」
机の上には髪の毛だろうか?黒い毛髪が5束置かれている。
「よろしー!これから、そんな性癖をなくす処置をしまーす!」
言いながら女は髪を全てまとめ、すくっと立ち上がったベニボシに手渡した。ベニボシはぺろりと髪の束を飲み込む。俺と男以外の人間にはベニボシたちは見えないようなので、恐らく空中で消えたように見えただろう。
「はい、手ぇ出して♪」
おずおずと大学生は左手を机の上に置いた。ニコニコと笑う女に警戒の目を向けているが、その間にベニボシが左腕に近づき、思いっきり噛みついた。
「痛ってーーーっ!!?」
突如襲った左腕の痛みに大学生は飛び上がって悲鳴をあげた。腕を乱暴に振り回してもベニボシはしばらく噛みついたままブンブンと一緒に振り回され、ようやく口を放して女の傍へ戻った。大学生は椅子から転げ落ちて地面に尻餅をついている。どこかで見た光景だ。思わず眉間にしわが寄る。
「今のは…」
大学生の母親や白ずくめの女たちは何が起こったのか分からず、困惑した表情で女の次の行動を見守った。女はベニボシの頭を撫で、椅子から立って大学生の顔を覗き込むように屈んだ。
「良かったねぇ!これで君は他人の痛みを知ったわけでーす!」
「他人の痛み?」
「あれ?効果がまだ出ないかなー?私の腕も鈍ったものだわー。嫌だ嫌だ、加齢って怖いわー!でもま、すぐにビンッビンに効いてくるよー多分ー!良かったねー!」
ビンッビンという効果音はよく分からないが、女は帰り支度を始める。何が起こったか分からず、効果のほども未知。もちろん教会の面々はとても女を返す気にはなれない。椅子から立ち上がったばかりの女に詰め寄り、威圧感でまた椅子に座らせる。
「まさか、これでお仕舞い、なんて事はありませんよね?」
「ん~?終わりだよー?何で?」
「貴女がれっきとした黒魔術師である証明を見せてください。」
黒魔術師とか!思わず吹き出して息を無駄に消費してしまった。
「んー…。ちゃんと効果が出たか知りたいならー、男の子をここに連れて来れば分かるよー。」
ここでこの記憶は終わっていた。息継ぎがてら一旦病室の記憶まで戻り、作戦会議をする。
「この先、見ますか?もう大体予想はつく、と言うか、デジャビュと言うか…」
「確かに。アケミは今回も君の父親を壊した方法であの大学生を壊した…。そういう事だろうね。」
女は大学生を『助けた』と言っていたが、そんなの嘘だ。女は大学生に呪をかけた。犠牲になった男児たちの憎しみや怒り、恐怖、絶望…。それらを使って大学生を終わり無き生き地獄に堕としたのだ。
「同じではありません!」
記憶の中の声ではない女の声が背後から聞こえて、俺たちは振り返った。そこには鷹くらいのサイズの紅色の竜がいた。これが紅い女の精神の姿である。姿だけでなく、喋り方まで変わるのだから驚きだ。
「私は貴方の父親を呪い、身体を操りました。でも、あの大学生の身体は操っていません。ただあの子たちが大学生に感じたあらゆる感情を流し込んであげただけです。それだけで人間は簡単に壊れると学びましたから。」
ふんっ!と吐き出された鼻息に炎が混じる。男は両手で頭を掻いた。
「あー、もう!でも呪ったことに変わりはないんだろう?駄目じゃないか!去年、君は呪うのを止めて真っ当な人間として生きると誓っただろう?」
「それは貴方の受け取り方です。私はもう人を呪い殺したりはしない。そう誓っただけです。それに、既に私は人間を名乗るには堕ちすぎました。例え貴方の命令でも、その事実は変わりません。」
竜と青年の夫婦喧嘩。よそでやってくれ。あ、いや、ここは女の記憶の中なのだから、彼女にとってはホームグラウンド。よそ者がお邪魔させてもらっている状態か。
でも、何故だろう?今回女がしたことは悪い事ではないような気がしている。加害者は被害者の気持ちなど考えもしない。知らんぷり。それを嫌でも思い知れば、加害者は己の犯した罪を本当に後悔し、悔いるだろう。刑務所でも与えられない本当の罰、更生施設でも施せない本当の改心。そのために加害者は被害者の苦痛を知る必要がある。
「…この呪の対価って、何なんですか?」
言い争っていた竜と男が同時に俺を見た。
「人を呪わば穴二つ。私も大学生が感じるあの子たちの苦痛を味わうことになる、です。」
「5人分もの死の体験を?」
「そう。でも、私は辛くないですから。あの日から、私は死んでいるも同然なんです。」
この女も俺と同じだ。俺の父親が起こした事件から、俺たちの時は止まっている。生きながら死んでいる。そんな女が墓の中から手を出して、罪を犯した人間を地獄に引きずり込んだ。それが女にとっての『人助け』。堕ちるべき者が堕ちるのを助け、救われるべき者を救う悪魔の所業。
「最後の男の子はまだ死んでない。死ぬ前に助けられた。それで良いではないですか。死人の割には良くやった方です。」
満足そうに竜は笑った。複雑な表情を浮かべた男に向かって、屈託の無い笑みを見せつけた。こうして男はまた騙される。女の、悪魔の笑みに騙され、誤魔化される。女が幸せなら全て良い。男も大概に狂っているのかもしれない。もう、男は何も言わなかった。
記憶の中のベッドに横たわる俺を見る。全身傷だらけで、素人目に見ても大怪我であることに間違いない。それなのに痛みは全く感じていなかった。痛覚が無くなってから、自分は実はもう死んでいるのではないかと思うことがある。自分の生が無意味なのではと思うことがある。だが、今回俺は紅い女を助けられた。別に命を懸けてでも助けたいと思うほど俺は紅い女のことが好きではない。ただ、彼女を失えば准教授殿は悲しみに暮れるだろう。彼にだけは不幸になって欲しくない。だから俺は紅い女を助けたいと望み、実際大怪我は負ったが助けることができた。死人の割りには良くやった。確かにそう思う。俺は生きていないが、活動はしている。活動して誰かを助けている。
「ま、いいか。」
死者による生きている実感なんて、これくらい適当で稀薄なものだろう。それでも、そんな程度の実感でも、満足してこの刺激の無い毎日を過ごせるなら良いではないか。そう、俺は思う。