いつもとまるで違う夜
問題は私がどうするか、である。
事件の首謀者やその悪意がわかった所で、今私にできることはない。
「この時間から仕事もないでしょうし、私は引き上げさせてもらいますね。」
未だ小さな揺れにも時化を起こしそうな心を静めながら、私はこの性格の悪い職員に背を向ける。
評価は一つや二つの良心に触れたからと言って、簡単には覆らない。
例え、札付きのワルが甲子園に出場し夢破れた同窓生に対して男泣きした所で、評価が改まったりしない。
それで良い人設定に突如切り変わるのは、寂れたテレビドラマの世界の中だけだ。
彼の評価を決められたクールの内に更新しなければならないほど、彼は私のとっての重要人物ではない。
それは多分、この世界の全ての人が、そうだろう。
私には帰らなければならない世界があってその世界での関係こそが本当の人生だから。
寝覚めが悪くならない程度の関係が維持できれば十分なのだ。
庁舎窓口を抜けて、私は帰路に着く。
特に大事がなければ、後はあの下宿屋に帰るだけだ。
今日という日は、散々な日であった。
この街に起こっている騒動そのものは確かに私に影響を与える一大事だけれど、それは極端に言ってしまえば「私が解決を試みなければならないほどの危険事態」ではまだない。
それを行うのに適した組織が存在し、そして機能している。
そしてそれは私よりよっぽど優秀で、よっぽどこの事件に生活を左右される人々によって構成されている。
その敷居を間借りしている余所者は、やっぱり余所者相応に他人事なのだ。
日の暮れた今も庁舎の外庭には多くの職員が走り回っている。
事件が起これば、そこには私の元居た世界の様な福利厚生など存在しない。
街の衛兵はその警戒を強めるし、必要な調査があれば行われるだろう。
定時退社という言葉も程遠い。名前さえ書けばなれるような職業でもない。
勿論、腐敗も汚職もあるだろうけれど、少なくともこの世界では「余剰者」の配属先ではない。
余剰者は職人や農地開拓に回されるのだ。
山を切り開き、材木を切り降ろしてくる木こりですらも、限られた技術と経験を見込まれたであろう「信頼のおける人物」が厳選されてつく職業であり、森や材木は公共財産だ。
そうしなければ、山は冬を前に手近な所から切り崩され、山の恵みは失われてしまう。
機械で大量生産、大量輸出してくれる、農業大国なんてものはこの世界にはまだ存在しない。
隣接する都市と都市同士が交流を持ち、商人の往来で物流が調節される世界だ。
街に運び込まれたお酒に、どこかでこっそり毒が混ぜられている。
これが衛兵の管理不足であったのか、商人の商品管理能力の問題であったのか、或いは権力や地位がどこかで介入したのか。
死者や重傷者が発生した以上、それはもう街全体の問題だから、庁舎の職員は早期解決に向けて必死に走り回る。
そうした必要な行動を求められるからこそ、その人材に求められる水準は高い。
街の掲示板に衛兵募集の張り紙があったが、あれは無作為にただ募集されている広告ではないのだ。
私は門を抜け、表通りに向かって歩き出す。ほんのりと夜風が肌寒い。
こんな時間になるまで出歩くことは、祭りの夜でもなければそうそうある事ではない。
夜は家に帰って寝る時間だ。
お腹が空いたので、何か食べてはいかないと駄目だけれど。
ああそうだ、味噌玉だ。すっかり忘れていた。
下宿屋に戻っても夕飯を作れないのだから、外で夕食を済ませるしかない。
本当に迷惑な話だ。
多分、もう暫くは味噌を得る事は出来ないだろう。
今日という駆け込みを逃せば、街がすっかり元通りになるまでは、物流は安定しないだろう。
衣食に関わるものから物価も、流通量も安定しない。
これは過去にこの世界で遭遇した事件から得た大事な教訓だ。
個人的には、私は外食産業というのが苦手だ。
居酒屋といった店はそもそもの人生経験から馴染みがなかったこともあるし、甘味処やお茶屋といった店ならまだしも、だ。
だから、専らの屋台派だ。注文をする必要がない。
お願いし、お金を渡せば、商品が手に入る。失敗もないし、店員の顔色をうかがう事も、交流を持つこともない。
「芋生地のお饅頭でも探しましょうかー」
あれなら蒸篭で蒸しなおせば翌朝にも食べる事ができる。
まだ肩掛けカバンの中に紙袋も残っていたはずだから、持ち帰るのにも問題はない。ただ、汁物は欲しいと思ってしまう。塩の入ったの白湯を飲むというのも味気ない。
とりあえず足を食堂街へと進める。
まだこの時間なら、品切れという事もないだろうと思いたい。
私と同じ理由で、食事を求めて食堂街へと足を運ぶ人も多いはずだ。
それでも私にとって最後の望み。本当に今日は厄日だ。
明日こそは味噌玉をちゃんと受け取って帰らねばならない。これは忘れないようにしよう。
向かう先に、食堂街の明かりが見えてくる。もう少し歩けばその賑わいが聞こえてくるだろう。
私はそれを意識して足を運ぶ。
空腹を慰めるためには、イザワウメコに泣いている暇なんてないのだ。




