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「恋愛小説が書きたい!」後編6


 前回、前々回で検討した『ジェーン・エア』において、結局、女性の読み手からすれば、精神的に強いヒロインも受け入れられうるのであって、その強いヒロインがより強い相手となす「恋愛」の小説も当然に成り立つことを説明したように思う。つまり、執拗なヒロインの自己主張もツルゲーネフの『初恋』のように「恋愛小説」での余計な要素にならずに、逆に「恋愛小説」の重要な要素(強いヒロインであることの意義付け。バトル「恋愛小説」の武器)になったわけですな。


 では、前回最後に予告したように「性」(の描写)は「恋愛小説」の重要な要素になり得るのかという疑問についてはどうであろうか?

 この問題について僕は常々関心があった(僕が狒々爺であるという理由からでは断じてない)。

「性」の描写ほど、「A君はBさんが好きだ(あるいは嫌いだ)」というような静的な視点ではなく、その場面その瞬間ごとの男女の感情を切り取る、いわば動的な視点からの表現方法もないのであるし(これについては後述したい)、また、「性」描写ほど、書き手の男女「差」が表れるものもないと僕は思っている。

 つまり、ベットの中の男女ほどお互い考えていることが違っていて意思の疎通のない状態もないわけであるから、当然、たとえば「書き手が男であれば」女性の登場人物の心理も女性の読み手の読んだ感じ方も掴みきれずにいるはずである。これは、普通、男の想像で補えきれるものではない。

 この場合、読み手が女性なら、そこに「男の目から見た」ベットの上での男女のコロコロと移りゆく心理状態を見いだせるに過ぎない。子供の昆虫観察のように主体的な実感を伴わない「なにか」を知るだけのことになるはずであろう。一般の男の書き手では、せいぜいその時の男の心理を切り取ることができるか、ぼかした女性の心理らしき「なにか」を表現できるにすぎない(女性の書き手の場合、すべて逆のことが言える)。


 例を示してみよう。以下は、「性」の描写ではないが、僕が昔、書いた作品の一部で、女性の「嘘」をテーマにした文章である(書いた僕自身はそう思っている。でも、腕が悪すぎて読まれた方にはそういうふうに見えないかもしれないので事前にお断りをしておく)。ちなみに、主人公は女性である。


「繁華街から少しずれた位置にあるリストランテが落ち合う場所だ。

 このリストランテの奥には鏡張りの個室がある。

 客がダイヤの指輪で悪戯したらしく、鏡は落書きで一杯でまるでクモの巣を張ったようにみえる。


 私はこの淫靡な雰囲気の漂う個室をあえて予約した。


 いつものように私が先に個室に着いてしまった。

 エーラ人は時間にルーズなのだ。いつもヒューは当たり前のように遅れてくる。それも、かなり遅れて。

 しかし、今日に限ってヒューは私のあと、すぐに到着した。ボーイに案内され個室に入ってくる。どうしたんだ、一体。当たり前のことが逆に不安にさせる。


 給仕長らしき人物がメニューを私たちに渡し、雰囲気を察して本日の料理のおすすめをさり気なく迅速におこなって、消える。

 もう、この部屋には料理を運んでくる給仕以外はだれも来ない。



 食前酒を飲み、運ばれた料理を食べ、シャンパンを開けた。酔いがほどよく回る。


「姫さん、あんたの銀髪はいつ見ても綺麗だな」

 嘘だ。

 ヒューは腕とか手のフェチストなのだ。いやらしい目で見るのはいつも私の手なのだ。私から見れば、私の手は皮が硬いうえ関節にたこがある醜いものだ。

 ヒューはどうしようもない奴なのだ。


「姫さんの目は神秘的だ。大きく感じる青い目に吸い込まれそうだ。海に溺れていくような気がする」

 これも嘘だ。

 ヒューが気に入っているのは私のポッテリとした唇だ。

 ヒューは言葉では詩人のような綺麗事を言うが、吐く息づかいで解る。ヒューは私の下品な唇に劣情を感じている。



 私とヒューはキスをした。


 私はヒューに言った。

「愛している」


 私も嘘をついた。

 はじめてヒューとキスをしたときは、腕も肩も首も背中まで鳥肌だった。こころも震えた。

 だが、今では鳥肌だたない。こころも震えない。



 何故なのか、私にも判らない。」


 上記のへたな文章は、僕が想像した女性(主人公)の感情の移ろいを表現したものである。

 主人公がどんな感情を抱いたのかについてあえて表現をぼかした上に「嘘」をついた理由を読み手の想像におまかせしているのは、はっきり言って僕には女性の感情を掴みきれないからだ。


 ここまで恥を明かせば、賢明な皆さんはもうお分かりだろう。

 このように僕などは、読み手である女性に対してしらじらしくて共感を呼ばない「なにか」を示すことにはなりやしまいかと大いに危惧してしまい、「恋愛小説」でない小説においても、「性」描写どころかそうでない動的視点からの女性の感情を表現することすら躊躇われてしまうのである。


 たぶん、そんなのは下手な書き手である僕のような人間に限られた話であると鼻で笑われる方もいらっしゃるだろう。

 たしかに「恋愛小説」に限られなければ、古今東西の有名な男性作家は大抵「性」描写あるいはそれに近いものを描いている。

 しかし、前述したように「性」描写は動的に男女の感情を描くのに優れた技法である。この技法を活かしきった(男性が書き手の)小説がこの世でどれくらい存在するというのであろうか?

 有名どころでヘンリー・ミラーの『北回帰線』(小説中「性」描写が溢れているという理由でアメリカでは出版禁止となった。後に連邦裁判所で文芸作品であるとのお墨付きをもらい禁止が解かれる)はどうか?

 パリでボヘミアン(最後の「パリのアメリカ人」だろう)をしていたヘンリー・ミラーが特にアメリカ社会に蔓延る宗教的いびつさに反逆する意図であえて「性」描写を多用して男女の体の交わりもじつはパンを食べるのと同じく日常的な事柄であり特別視する必要なんてなにもないと主張したに過ぎない。「日常」を描いたものであり、そこには男女の感情などかかわり合いがないのだ。動的な感情表現の視点で描かれたものではない。

 ヘンリー・ミラーがだめなら他にウイリアム・フォークナーの作品群を是非検討すべきとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。だが、情けないことに僕にはアメリカ南部の精神文化というものを理解もできず興味も沸かないので(長編であるし)一作品も読み通したことがなく、フォークナーの作品についてコメントできない(ただ、作品の中の「性」描写は大抵「強姦」のうえ殺害という犯罪行為に限られているので、女性の心理描写はないと推測される)。


 それでは、昨年お亡くなりになった日本の渡辺淳一氏の『失楽園』はどうか?ひと頃、話題になった作品である。

 たしかに、話には細かい心理描写らしきものが随時書き込まれているし、男の申し込みと女の承諾という「恋愛」の成立も認められる。話の筋に「恋愛小説」の起承転結もある(まだお読みでない方がおられたら『失楽園』は長い上あまりにも陳腐なので、ウィキペディアであらすじだけ見られることをお勧めする。僕の言うことが信用できないのなら、アマゾン等に載っているコメント感想の類を読まれるがいい。大体「ただのポルノ小説」「つまらない」と書かれている。ただし、ふたりは心中して魂と魂とを結合しなければならないほど「恋愛」が純化していたのだと絶賛される方もおられる。僕などは社会的に追い詰められたふたりの純愛を描きたいのであれば、あんな心中の描写はないと思う。有島武郎氏の心中がモデルらしいが、酷すぎる。あれはない)。

 しかし、作品では嫌になるほど性行為を表現しているが、女性の移ろいゆく感情を描写したものがない(僕は女性の肉欲を感情とか心理とかとは呼ばない。また、それが感情表現であるとしたところで、男の書き手の妄想の域を出たものではなく、女性の感情似た「なにか」でしかない)。


 他にも男の書き手からなる「性」描写を扱った作品はくさるほどあるが、いちいちコメントしなくてももういいだろう。いずれにしたところで、別のことを表現しているかポルノでしかない(チャールズ・ブコウスキーをはじめ多くの作家たちが男女特に男の静的な視点からの感情表現に成功していることは言うまでもない。しかし、残念なことに女性の動的な感情表現に成功した例を寡聞にして知らない)。

 結局、僕は男の書き手で「性」描写をして男女の動的な感情表現に成功した作品を見たことがない。


 では、逆はどうなのだろうか?

 女性の書き手は「性」の描写において見事に男女の心理を書き切ることができるのであろうか?


 『ジェーン・エア』においては、「性」の描写はなく、また作者のシャーロットはヒロインの一人称形式で「恋愛小説」を書いているので、ほとんど男性の心理に言及していない。逆に、妹のエミリーは『嵐が丘』で様々な男性の登場人物たちの心理を見事に書き表しているが、小説の中に「性」の描写はなく、そもそも「恋愛小説」ですらないので、これも参考にならない。

 では、現代ではどうであろうか。現代では洋の東西を問わず、女流作家による「性」(もしくはそれに近いものの)描写のある「恋愛小説」が多数発表されている。

 たとえば現代イギリスではヘレン・フィールディングが『ブリジット・ジョーンズの日記』というとても風変わりな女性主人公の妄想と主観のみからなる小説を書いている。映画にもなったので知っておられる方も多数おられると思う。ただ、訳本では(たぶん原典でも)完全口語体というか、女性の心情のみしか書かれていない。残念なことに男性の心理を捉えたものではない。


 現代日本でも女流作家によるその手の優れた作品が数多く出版されている。

 しかし、それらについてコメントしようにも、困ったことに僕の手持ちの小説の中には山田詠美女史のような赤裸々な「性」描写のある女流小説家の作品がない。いますぐ思い出せるのは、藤本ひとみ女史(若い頃にコバルト文庫などをお書きになった元祖ラノベ作家ともいえるお方で、年齢を重ねられてからはフランス王朝ものやオーストリア・ハプスブルグ家の「エリザベート」など歴史物を書かれておられる女流作家)がとある週刊誌に連載されておられたフランス王朝もののワン・シーンしかない。

 どういうシーンかをかいつまんで説明すると、金髪の美人の貴婦人と黒髪の美少女がおり、ふたりの共通の恋人である若い貴公子が登場する場面で、金髪の美女が企みをして貴公子をカーテンの陰に隠し自ら裸になるばかりか貴公子のいることを知らない美少女をだましてその裸をものぞき見させるというものであった。

 要は、金髪の美女の嫉妬や危険な行為をあえてしてまで貴公子の心をつなぎ止めたいと思う女の独占欲、あるいは美少女に対する友愛とそれと相反する感情とのせめぎ合いなどといったものを表現なさっていたように思う(なんか18世紀の小説「危険な関係」みたいな)。

 したがって、これもやはり男性の動的視点からの心理表現はなかった。


 えーと。そろそろまたわけのわからないことを言い出し始めたので、結論を先に明確にしておこう。


『ジェーン・エア』のような優れた「恋愛小説」においては、常に主人公の(時間の流れの中の点での)変化していく感情表現と相手に対する変わらぬ静的な感情表現の二本立てをしているものである(この場合、男女両者でなく男性あるいは女性どちらか片方だけの動的静的感情表現で良い)。

 作者のシャーロット・ブロンデは主人公の一人称形式を用いてその一挙手一挙足に説明を加えることでこれを見事に表現している。

 もし書き手が「恋愛」においてキスやその他の「性」的な行為が重要な役割を担うと考えた場合、書き手である彼もしくは彼女に「性」描写を用いて時々刻々と変わっていく男女(あるいは一方だけでも)の動的な感情表現ができるのであれば、シャーロットのやったようなめんどくさいことをしなくても感情表現の二本立てを完成できるのであって、「性」の描写は「恋愛小説」にかかせない重要な要素になる、といえる(繰り返すが、あくまで「恋愛」に「性」的な行為が重要な役割を担うと考えた場合である。それ以外の場合は「恋愛小説」ではなく、大抵ポルノ的な何かか別のテーマの小説になってしまう)。


 ところで、女性は「感情の生き物」と言われているが、これほど一般の男性の側から掴みきれないわけのわからないものもない。このことに同意できない方がいらっしゃるなら、どうか2回目で取り上げた『小犬を連れた貴婦人』の中でアンナの懺悔沙汰に苛立ったグーロフが「だからつまりどうしろっていうんだ」と言い放ったシーンを思い出して欲しい。世慣れた男性でも普通は女性の感情について理解できるものではないのだ(この時点で、男の書き手には女性の動的な感情を表現する可能性がないことになる)。

 しかも、である。上記のように男性の書き手で「性」描写を用いて静的な男女の感情表現に成功した例はいくつもあるけれども、動的な感情表現(たとえ男性のだけでも)に成功した例を僕は見たことがない。つまり、A君はBさんが好きだ、あるいはお互いに好き合っている、という静的な感情表現はあっても、A君がキスなどなんらかの動作をする度ごとにその動作をする感情の説明をした小説を見たことがない。いちいち煩わしいばかりか、もしかすると男の書き手には恥ずかしすぎてそのような動的な感情表現ができないのかもしれない。

 そうだとすると、(上記のように「性」描写が「恋愛小説」の重要な要素になりうるとしても)やはり「性」描写を用いて「恋愛小説」を完成できるのは、たとえ女性のみの動的感情表現であろうとそれができてしまう女性の書き手しかいないという結論に達してしまう。


 はっ!これでは男の書き手が「性」描写して「恋愛小説」を書くということはほぼ不可能ということになるのではないか。(「性」描写して「恋愛小説」を書こうとしていたのかい。オイ!というツッコミはさておき)また自分で首を絞めてしまった。


 今回もいろいろ書いた割には結論がつまらないことになってしまい、本当に疲れてしまった。

 今日はここまで。


 いつもながらつまらない駄文を書いて読み手の方をがっくりさせしまい、本当に心苦しいです。

 恋愛小説を書くにあたってまだまだ悩みは尽きないのですが、これ以上つまらない事を書いてお読みになられた方のおこころを煩わせることも本意ではなく、もっと面白いネタを思いつくまで休もうと思います。よって、次回はありません。

 長々とお付き合い下さった方々に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。あまり役立つことが書けておらず、本当に申し訳ないです。お読みなられた方の書く上でなんらかの参考(反面教師的な何か)に少しでもなっていれば幸いであります。





 ところで、「性」描写と「小説」の関係について、昔はよく裁判沙汰になっていたものですね。ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』とか永井荷風の『四畳半襖の下張り』(荷風自身、前半部分は自身の作だが、後半部分は他人の贋作と主張。真相は不明)とか。上記したようにヘンリー・ミラーの『北回帰線』などは一時期アメリカで発禁処分を受けていました。

 もっとも、「わいせつ」の概念が時代に応じて変化するため、今ではこういう問題は起こりにくいですねえ(青少年を保護しようと条例で規制する動きがチョクチョクあるとしても)。現在出版されている紙媒体で「性」描写を扱ったものがどれほど多いことでしょうか。溢れかえっておりますね。

 ああ、ここで僕は規制反対とか規制すべきとかの話をしようとしているのではないですよ。

 最後に僕が言いたいのは、小説の中で「性」描写されている意味について考えてみましょう、ということです。


 皆さんは、「性」描写のある小説としてどんな作品を思い浮かべますか?

 やはり『失楽園』に代表される渡辺淳一氏の不倫小説ですか?それともWeb上の男の書き手によるファンタジーもの(「チーレム」とか)ですか?若くして文学の賞をおとりになる現代の女流作家たちの作品でしょうか?


 いずれにしても、上記した感情表現の技法とみたとき、意外に簡単にその小説での「性」描写の意味がみえてくるのではないでしょうか。

 僕などは、感情表現の技法として用いられていない「性」描写はたいへんもったいなく思えてしまうのですが……。皆さんはどうでしょうか?



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