08.参観日
「行ってきます!」
そう言って元気良く家を飛び出したジェシカは、久しぶりに晴れた空を見上げて微笑んだ。新学期も始まったばかりのこの頃は、薄い膜のような灰色の雲が鬱蒼と空を包んでいて、晴れ間が覗かぬ日が多かったが、珍しく今日は日差しが街に降り注いでいる。
そんな天気に恵まれて、薄い水色をした上から膝下まである長さのひと続きの服を纏って、先を急ぐ。襟首は控えめな透かし模様が入った襟が覗き、柔らかな白い衣服を着ている姿はなんとも愛らしい限りだ。
不意に道端のど真ん中で立ち止まり、胸元で結ばれた濃い緑色の細い紐を結びなおしていたジェシカの背後から、元気な声が掛けられた。
「おはよう、ジェシカ」
「あ、おはよう」
「ねぇねぇ、作文書けたぁ?」
褐色の肌を持つ、耳の下で黒髪を切りそろえた少女の後ろから、頬に雀斑を持つ三つ編みの少女がひょっこり顔を出して尋ねた。
「えぇ、二枚と半分は書いたわ」
「すごいねぇ、あたし、一枚が精一杯だった。どうしよう、先生に怒られるかなぁ?」
ジェシカがあっけらかんと言うと三つ編みの少女はのんびりとした口調で、背負う鞄の肩紐をいじくった。
「ミリーは良いじゃん、発表最後なんだから。あたいなんて一番最初だよ?ほんと、勘弁して欲しい」
二人の少女達の後方から現れた帽子を被った少女がそう言いながら、一方の肩に掛けた鞄を持ち直して苦笑した。
「アリス、おはよう」
「おはよう、ちなみにあたいは一枚の半分しか書いてないから」
アリスと呼ばれた彼女は、男の子のように短い銀色の髪とどこかの工場の作業服のような濃い青色のつなぎを着る背の高いその容姿から、ジェシカと同い年には見えない。ミリーと褐色の肌を持つ少女が前を行き、ジェシカとアリスが、その後ろを並んで歩きながら学校へと向かう。
「ねぇ、アリスのご両親は今日の参観日来るの?」
ジェシカが彼女を見上げて尋ねれば、大きな欠伸をしながら前を向いて答えた。
「いーや?仕事があるから来ないよ。代わりにばあちゃんが来る。ジェシカんとこは?」
その口調は、特に気にしていないといった態度で、強いて言えば来なくてもいいといった感じだ。対するジェシカは、煉瓦で整えられた歩道に視線を落としながら呟いた。
「お父さまはお仕事だって。お隣のラスキン夫人に頼むって言ってた」
「ふーん、ニコんとこも収穫で忙しいから来ないって言ってたけどな」
前を行く二人の内、褐色の肌と黒髪を持つ少女に顎を向けてアリスはさり気なくそう言った。その彼女のさり気ない気遣いを有り難く思いながらも、やはり父が来てくれないことが寂しくて、ジェシカは視線を地面に向けたままだった。
ジェシカが通う学校は、街にある学校の内でも比較的大きく、古い歴史がある学校だ。場所は、ジェシカの家から役所を超えて、繁華街を少しそれた路地を進んだ先にある。子供の足で歩いて、二十分程掛かる市立病院や図書館が集まるその場所に広い敷地を持って佇む。
賑やかなで騒がしい都市部にあるが、都市部を少し外れれば農地が見える場所も存在するために、広い地域から様々な子供達が通ってくる。初等部と中等部が並列する学校で、大抵の子供はこの学校に通うのが自然な成り行きで、暗黙の了解となっている。
広い敷地を持ち、複数ある棟の内、西側の端にある二階の教室がジェシカの教室だ。二限目が終わり、三限目が始まるまでの休憩時間である今は、ジェシカの同級生が各々に好きな時間を過ごしていた。
「ニコも頑張って書いたねえ」
ジェシカ達は、一番前の入り口の近くで、褐色の肌を持つニコの席に集まり、彼女の作文を眺めていた。
「あ、ママ!私ここよ!」
不意に上がった元気な声に、たどたどしい言葉で書かれていた作文を見ていたジェシカは、視線を上げて黒板とは反対の場所を見やった。教室の後方となる空間には、学校生活を送る我が子の姿を一目見ようと集まった保護者達が、わらわらと集まっている。
濃い茶色の髪を頭の高い位置で一つくくりにした少女が手を振るその先に、彼女と良く似た母親を見てジェシカは溜め息をついた。
「みなさーん、席について下さい」
教室の扉を開けて入って来た担任の教師の出現で、子供は慌てて自分の席へと急いだ。ジェシカ達も、ぱたぱたと急ぎながら自身の席へと着席した。
ジェシカの席は、窓側から二列目の前から三番目の席だ。その席から、そろりと後ろに並ぶ様々の保護者達を眺めるが、彼女の探している人物はその中にはやはり居なかった。
机に広げた用紙の上を連なるのは、丸っこい文字で書かれた拙い文。書き連なれたその文はまだまだ拙いものだが、子が親を慕う愛情が溢れた言葉と悟れた。
聞いて欲しいその人がいないというのに、作文を発表する気にはなれない。俯くジェシカを置いてアリスの発表は直ぐに終わり、次々と順番が移って行く。塞ぎ込むジェシカの耳に、不意に聞き慣れた彼の声が聞こえた。
「…ちょっとごめんなさいっ」
ざわざわとしだした教室の後方を振り返れば、入り口の人混みを縫ってある人物が現れた。太った紳士と年配のお婆さんの間を割り込んだのは、エドマンドであった。乱れた服を整えていた彼が、ジェシカの視線に気づいてにっこり笑った。
瞳をまん丸にさせて驚くジェシカにしたり顔を向け、エドマンドは背後にいた男性を引っ張り出した。太った紳士は、割り込んできた男性に文句を言ったが、エドマンドがすいませんと笑って謝った。
エドマンドに無理やり前に引きずり出されたチャールズは、普段着ないような綺麗な紳士服を身につけている。黒を基調としたパリッとした極一般的な紳士服であるが、普通の男性よりも頭一つ分ほど背が高い彼が着れば、すらりと細い体型の良さが引き立って、それはそれはよく似合っていた。それこそ、隣にいる小太りの紳士とは比較にならないほどだ。
いつもは櫛も通さず、髪を伸ばしっぱなしにしているチャールズだが、今日はすっきりと後ろで綺麗にまとめて、前髪は右側だけ顔の横に流していた。
見違える程の変わりように、にっこりとジェシカが笑みを送った。エドマンドがひらひら控えめに手を降って、隣のチャールズを肘で小突いた。
ようやくジェシカの席を見つけたチャールズは、ぎこちない笑みを娘に向けて、手に持った黒い外套を抱えなおした。
「ねぇ、あの赤毛のカッコイイ人がジェシカのパパ?」
「ううん、あれはお父さまの友達のエドマンドよ。私のお父さまはその隣にいる背の高い方」
ジェシカの直ぐ前の席に座っていた、濃い茶色の髪を一つくくりにした少女が不意に後ろを向いて小声で尋ねてきた。にっこりと上機嫌で答えたジェシカに、少女は瞳を見開いて驚いたように言った。
「あの人?赤毛の人も若そうに見えるけど、あの人結婚してないと思ってたのに。だって、ママ達が二人をちらちら見てるもの。とっても素敵じゃない!いいなぁ、あたしもあんなパパが良かった」
言いたいことを言って、前を向いた彼女に再び二人を振り返った。エドマンドはいつも通り、襟元が黒い茶色のチョッキと襟がついた白い長袖と灰色の衣類という出で立ちで、手に外出用の濃い灰色の帽子と上着を揃えて腕に抱えていた。
端から見ても優しい紳士と見えるその容姿は、さすがご婦人方の人気を集めるに相応しいと頷けるものであった。
「…じゃあ、次はジェシカ・トールキンさん」
「はい!」
呼ばれた名前に元気良く答えて、作文を手にその場に立った。息を吸って丸っこい文字を追う。
「…『わたしのおとうさま』ジェシカ・トールキン。わたしのお家は、お父さまとわたしの二人家族です。毎日お仕事で忙しいお父さまだけど、洗濯もご飯もわたしのお話の相手もしてくれます。特に、お父さまの煮込み料理はとってもおいしいです!お父さまのお婆さまから教えてもらったと聞きました。ジェシカという名前は、そのお父さまのお婆さまからもらったそうです。会ったことはないけれど、ジェシカというすてきな名前のお婆さまは、きっと心の綺麗な人なのだと思います。わたしもこの名前が大好きだから、お婆さまのことも大好きになれると思います。…わたしの大切なお父さまは、王宮魔法使いです」
唐突に発せられたその言葉に、ざわざわと教室が騒がしくなった。うんうんと作文を聞いていたエドマンドは、ぎょっとして目を剥き、チャールズはそわそわと辺りを気にした。
そんな二人に辺りの視線が集まってくる中、ジェシカは自信満々に作文を読み進めている。
「毎日、お家にいなかったり、たまに主張から帰って来ても王宮に呼び出されたりして不規則な生活をしています。だけど、帰って来たら必ずわたしを抱きしてくれます。たまにお父さまの友達のエドマンドが居座りにやってきたりしますが、彼はとっても良い人です。お家にいつまでも居座らなかったら、もっと良い人だと思います。…いつもお仕事を頑張っているお父さまに、今度はわたしが煮込み料理を作ってあげようと思います。優しくて素敵なわたしのお父さまは、わたしの自慢です」
ふっと息を吐いたジェシカは、作文を置いてまだ若い教師に微笑んだ。彼女は、ジェシカににっこりと微笑むと拍手を送った。最初はまばらだった拍手は次第に大きくなり、今日一番の盛大な拍手となった。
嬉しそうにチャールズを振り返ったジェシカ。二人もそんな彼女に優しい拍手を送った。
作文発表が一通り終わる頃、エドマンドがチャールズを廊下にそっと連れ出して問い詰めた。
「…ちょっと、どういうことさ!」
「なにがだ?」
「なにがって、ジェシカちゃんの作文!君、見なかったの?」
「なぜ?」
なぜ娘の作文を盗み見なければならないのだと首を傾げるチャールズをエドマンドが苛立ったように、階段の踊り場に引っ張って行って言った。
「なぜって。普通、それとなく見せてもらうものだよ!あんな風に、発表されちゃ困る内容もあるでしょ」
ああ、と納得したチャールズは、考え込むように顔を険しくさせたが、表情を穏やかに緩ませるとエドマンドに向き直った。
「…別に、構わない。発表してしまったものは仕方ないし、なんとかなる。それに、ジェシカの作文はとても良かったから」
その娘を想う穏やかな顔を見て、エドマンドは溜め息をついて言った。
「…確かに、発表しちゃったものは仕方ないけどさぁ。君がそう言うなら、僕はもうなにも言わないよ」
「お父さま!エド!」
ぞろぞろと教室から出てくる気配がして、廊下が騒がしくなった。保護者達の団体が、二人がいる階段を通り過ぎて行く。その中から、二人の姿を見つけたジェシカが急いたように階段を降りてきた。
「来てくれたのね!」
そう言って飛びついてきたジェシカを受け止めて、チャールズが小さく笑った。
「エドと会議を抜け出して来た。…苦労したがな。議長も一回だけなら目を瞑ってくれると言うから。作文、上手く書けていたじゃないか」
「でしょう?さっき先生にもラスキンさんにもほめられたの」
そんな会話をかわしながら、チャールズがジェシカを床に下ろした。父に向けていた笑顔を今度はエドマンドに向けて言った。
「エドも来てくれてありがとう!二人とも服装、素敵ね!」
「そうでしょう?チャールズったらさ、いつもの服装で行くっていうんだから。それだけは止めてって叫んだよ」
おどけたように言うエドマンドをふふっと笑い、チャールズの腕に抱きついた。
「今夜は何時に帰ってくるの?」
「…仕事が溜まっているから、王宮に泊まることになるだろう。戸締まりをきちんとして、暖かくして寝るんだぞ?なんなら、隣に泊まっても…」
「大丈夫よ!もうそんなに小さくないんだから」
頭を優しく撫でるチャールズ。そんな彼に、一人で大丈夫だと言い放つジェシカに、エドマンドがお隣のラスキン夫人に頼んでおいたと付け加えた。何かあったら、お隣のラスキン夫人にと言う二人にジェシカは仕方ないく頷いた。
「チャールズ、そろそろ戻らないと」
金色の小さな懐中時計を懐から取り出して時刻を確認したエドマンドが、ジェシカを見やって微笑んだ。
「…途中で抜け出してきたから、直ぐに戻らないと。石頭の議長おかげで、再来月まで休みは取れないよ」
首をすくめて言うエドマンドを見上げて、仕方ないとジェシカが笑った。そして、チャールズの腕を引いて屈ませると彼の頬に軽く口づけた。
「…いってらっしゃい」
うふふと笑ったジェシカにチャールズは優しく微笑んだ。その様子を見て、いいなぁ、チャールズだけずるいよと駄々をこねるエドマンドを引っ張って階段を降りて行った。
広い敷地内を並んで歩きながら、チャールズが不意に声を上げた。
「…エドマンド、ありがとう。付き合ってくれて…来て良かった」
珍しく素直に礼を言う友人に、美しい緑色の瞳を見開いて隣に並ぶ友人を見やる。
「ジェシカの作文を聞きに行けて、良かった。あんなに嬉しそうに笑って…。子供はあんなに早く大きくなるもんなんだな」
「…チャーリー?」
少し哀愁を漂わせて、空を仰いだチャールズの様子にエドマンドが眉間に皺を寄せて声を掛けた。その声に、チャールズが友人に視線を移してさらに言った。
「子はあっという間に大きくなって、親元を去っていく。だから、一人で生きていけるように育てていくのが、親という責任だとジャスパーが言っていた。ジェシカを一人前の女性に育て上げたら、あの子は自分で自分の幸せを掴むだろう。…その時が、あの子と俺の“親子”という関係の終わりだ。だが、エドマンドが言ったようにそれが俺の役目なんだろうな」
「チャールズ…」
何かを言わなければと名を呼んだが、彼は寂しそうに笑って背を向けた。
…あぁ、また。彼はまた一人になってしまう。
そっと心の中でそう呟いて、彼の背中を映す瞳をきつく閉じたエドマンドと背を向けて歩き出したチャールズの二人の間に、秋特有の肌寒い風が通り抜けた。
「さぁ、戻ろう」
やや急いだように急かすチャールズの声に促されて瞳を開けると、友人が嫌うあの笑みを浮かべた。
「…そうだね」
瞬時に浮かんだ深い笑みを消して、駆け足でチャールズの隣に平然と並んだ。――勿論、一瞬だけ浮かんだ友人の意味ありげな笑みをチャールズは知らない。