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裏街バケモノカルト  作者: 楢木野思案
四・胡蛾の夢
47/47

9 信じてあげない



 ──諦める。すぱっと諦めるか、とアキは確かに言った。


 唖然とするユユに、アキはきまり悪そうに目を逸らした。

 その態度が「間違えた」なのか「言ってしまった」なのか。ユユが戸惑っている間に、アキはいずれにせよ出てしまった綻びを取り繕うことにしたようで、


「あー。なんだ。とりあえず、隠れられるところを探そう。今のは勢い余ったわ、まず一回落ちついてから考えよう、な?」


「考えるも何もないですけど……ちょっと仕切り直しって意味なら、賛成」


「おっけおっけ。ああ、それと進捗報告がてら、ケイさんに連絡取ってみるよ」


「──っ、そっちは大賛成です」


 一も二もなく手を顔の横に挙げた。「よし」とアキがスマートフォンをポケットから取り出す一方で、ユユはくしゃくしゃになった地図を取り出し、避難場所の選定にかかる。

 ここまでに四つの織代を見つけ、そのうち当たりは一つ。この付近での残りは一つであり、それの真偽を確かめたら診療所に戻ろうと当初は考えていたのだが、そちらに行くと村の中心に近づいてしまう。

 すなわち、まだ『夜警』やら偽(かなえ)がうろついている領域に、体力も気力も消耗しきった状態で再度乗り込むということだ。非常に厳しい。

 そういうわけで、「行けます? 先輩」と顔を上げようとしたとき、


「……ん? なんかケイさんから来て、る」


「タイミングぴったし! えー、もうこっちは片づけましたよ、ぐうたらしてるんじゃないでしょうねアキ、とか?」


「当たりつっよ。言うわけないだろ、優しさの権化みたいな人だぞ? 報告っていうか、なんだこれ……メモ?」


 ユユの下手なものまねを流し、スマホの画面を見たアキが訝しんでいる。首を伸ばして横からユユも覗いたところ、確かに一分前に(けい)から送信されていたのはびっしりと書かれたメモだった。アキが画面に返信を打ち込む。


「なんすか、と」


「ユユにも見せてください」


 ねだると、ほいっと渡される。目にしたメモの筆致は、柔らかい言葉で丁重に誰しもを扱う彼にしてはかなり簡素で飾り気がない。下からスクロールしていって、その一番上には──、


『アキ。甘蔗(あまつら)さん。見知った相手が敵に回るでしょうが、どうか落ち着いて対処してください。無理はしないように。俺がいなくとも仲良くしてくださいね』


 そう、自身の戦線離脱を示唆するところから始まり、そのあとには自身の遭遇した──これからユユたちが相対するであろう、見知った相手(・・・・・・)への対処法が続いていた。



『俺らはここにいます。北側で見つけたオリシロは壊しました。そっちはどんな感じすか。連絡ください』

 印をつけた地図の写真を添付してアキが送ってから、およそ三十分。景からの連絡はあれきり途絶えていた。


「まだもうちょい待ってもいいんじゃね」


 南下した先にあった小屋のアイコン──いざ着いてみると資材や道具の置き場に見えた──に潜むと決めてから、もう聞き飽きるくらいアキが口にした一言だ。

 積まれていた木箱を椅子がわりにし、部屋の隅と隅、対角線上に離れてユユとアキは座ることにした。ユユがしびれを切らすとアキが止める、その繰り返し。

 短い一言のたびに合わない視線。無気力に沈みこみたがる引きこもりみたく、彼が停滞を望んでいるのは明らかだった。

 今この時に限っては、時間が経てば経つほどにこちらを蝕むものだとしても。


 道すがら寄った北側最後の織代は外れ。ユユたちの任務はこれで完全に終わったわけだ。だから一刻も早く合流したい、が。

 もし、それが叶わないのなら──ユユたちだけで、どうすればいい?


「……分かんない」


 疲れが口の封を緩め、ユユはひとりごちる。動き出せないのは、アキに引き止められるからだけではない。それはある種、都合のいい言い訳だ。

 ユユも、打ち明けてしまえばもう投げ出してしまいたかった。


 鬱屈と無力感が巣食い、あったはずの切迫感や動機が穴あきになった心からぽろぽろと抜け落ちてしまう。

 行こう、といつかは言いださなきゃいけない。けれどこうまで分厚くなってしまった沈黙の層を打ち破るには、勇気も元気も足りない。

 その膠着を崩したのは、意外にもアキの一言で、


「……お、既読ついた」


「っ景さん!?」


「いや姉貴。さっきヘルプ出しといたから。明日になって、祭りが終われば来てくれるってよ」


「──」


 アキの手元の淡いブルーライトがユユの視界を支える。

 立てた膝に片腕と顎を乗せ、「俺らはそのときまで隠れてりゃいい。安心だろ?」と口の端を引き上げたアキの顔は、ユユが言葉を失うくらいに変貌を遂げていた。


「いつの間に送ってたんです」だとか、「やっぱりまだ景さんからの連絡ないんですね」とかを先に言うべきだったのだろうが。


 この場から梃子(てこ)でも動こうとしないのも、思い返せば集会所を出る前から不自然にぼうっとしたりと様子がおかしかったのも、面倒くさがりなどといった軽い理由ではない。何かがおかしいのだと、遅まきながら悟った。だが──、


 一向に口を開かないユユに、反対意見を練られているとでも勘違いしたのか。アキは木箱の上に置いていた片手を持ち上げ、


「いやさ、俺らだけでこれ以上どーしろって? ぼろぼろになったんならそこが辞め時だ、後は強えやつに任せりゃいい」


「ほんとのほんとに、ここで朝まで無事に隠れてられる? それに今捕まっちゃってる、かもしれない人たちはどうなるんですか。ユユたちが何もしない間に、死ん……っ」


「まず、俺らが死んだら元も子もないって思おうぜ。それに──死んだらそれまでだって、あの人らなら言う」


「言いそうだけど、……でも、」


 ──踏み込むのが怖い。否、踏み込みたくない。知りたくない。

 様子の違う気配に、ここで引き下がろうとユユの理性が止めている。けれど結局はどん詰まりに耐えきれず、他責を求めた口が勝手に動き、


「先輩っ、だってユユの先輩なんじゃないんですか。ユユより経験積んでるんでしょ、ならこんな状況でもまだ」


「ごめん。そういうのないんだわ。学費も生活費も稼いで掛け持ちしても毎月カッツカツだから姉貴のツテで雇ってもらってるだけ。基本は学業優先的な感じで、あの人らみたいにどうしてもっていう事情もない」


 あっさりとした拒絶に、出しそこなった言葉が喉に詰まる。

 何を言っても言わなくてもその先に光明が見えることはないと分かり、理想的な出口のない葛藤が、今度こそユユの口を塞いだ。


 アキの言うことも分かりはするのだ。

 ここは安全地帯なのだし、二人だけで強引に敵地へ踏み入って何かが解決するものか。美曙(みあけ)を呼んだというのなら、それは十分適切な解決手段だろう。


 だとしても納得に踏み切れないのは、それがあからさまにアキの本心でないと見え透いているから。

 互いの顔が薄っすら浮かぶ程度の光量しかなくとも、その逡巡はアキのそれと同じくらい露骨にユユの顔に出ていたのだろう。アキが切り出したのは、きっとそれを見たからで、


「なあ後輩。正直言ってさ。俺のこと、どう思ってる」


 探りを入れる発言にユユが息を呑む。


 なんでそんなことを聞いてくるのかは分からない。だがそう問われたら、こう返すしかなかった。無意識にきつく握りしめていた拳を開き、ユユは会釈程度に頭を下げると、


「──ごめんなさい。ユユ、彼氏います」


「ちっげえ!! この状況でナンパするやついるか!?」


 アキが腕の上で寝かせていた頭を勢いよくもたげる。声をひっくり返らせたあとで我に返り、誰かが聞きつけて来やしないかと自分の口を塞いできょろきょろしているのがこんな状況でもおかしい。


 幸いそんな事態は訪れず、アキは久々に口元を緩めていたユユをようやくその両目に収めた。かと思うと、彼は肩の力が抜けたため息を吐き、


「……え、いんの? 彼氏……」


「いませんけど……」


 根付いた癖で反射的にお断りしたものの、言いがかりをつけられた格好になったアキに罪悪感が湧き、改めて否定。

 かえって微妙な空気が漂い、気まずそうにするアキが「あ、そっか。なんか聞いてごめんな」と不器用にとりなしてきたので、ユユは「なんかってケンカ売ってますー?」と唇を尖らせた。

 実際のところ、別に大して不満に思っているわけでもない。いや、本当に。


 つまるところ、ユユは先送りを選んだのだ。隠し事で結構と、軽く流すだけに留め、踏み込まないようにしたはずなのに、


「ごめんって、なんも売ってねえから。仕切り直そう。真面目なやつだよ、答えてくんないか」


 アキは答えを求めた。細められた眦が下がり、三白眼でなくなる。


 ──逃げられない。違う、この人自身が逃げるのをやめたのかもしれない。

 そうだ、そう思おう。どうせなら、ユユが本心を口にすることで好転へと向かってくれるといい。

 観念したユユは目を瞑り、記憶を辿りながらとつとつと口にし始める。


「……いーですけど。じゃあ、あんまりやる気ない先輩。頑張ってるとこに水差してきて、なんなのこの人って最初は思いました」


 呪い代行の一件でアキと衝突したとき、ユユがたいそう不満を抱いたのもまだ一か月前のこと。何なら最初の印象は金髪、チャラそう、苦手といったお手軽な三段論法式の偏見にまみれたひどいものだった。反省はしている。舌を出すのはやめておこうと自制するくらいには。

 要望に応えてとはいえ、ユユのあけすけなマイナス評価にアキが微苦笑する。


「『やる気ない』な。そういやなんとかっつーコンカフェの帰りにも言ってたっけか」


「なんとかじゃなくて『Divine♡』です。けど結局、最後は走ってきてくれたから。……ユユが押し付けたことだけど、こおり先輩もなんとかしてくれたし。今はそんなに悪い人じゃないかなあ、とは思ってますけど」


 ユユの脳内でも、明確に言葉として構築されていなかった印象の変化。改めて口にしてみると、思った以上の上方修正に自分で驚いたりしている。

 そのくらい、ユユは何も考えずに浮かんだまま言ってしまっていた。

 考えあぐねるのも悩むのにも疲れて、一度ふざけたやり取りで気を抜いてしまったがゆえに、指を手すさびに絡めながら、


「……しょーじき知りたくないですけど、理由も教えてくれないのに『まだ』ばっかりだとさすがに気になります、よ」


 小さな声で語りかけたのだ。聞きたくないけれど、案外言えばなんとかなるかもしれない。お互い疲れているだけだと、楽観的になろうとした。

 アキが、唐突に笑いだすまでは。


「か、ははっ」


 天井を仰ぎ、顔を覆う両手の隙間から八重歯が見え、予想だにしないその反応にユユはぎょっとする。

 少し遅れて、声よりも息の分量が多い乾いた響きに違和感を覚えた。分かるのは、それが望む回答が得られた安堵ではないこと。先ほどのユユのような単なる失笑にしては淡泊さに欠けていて、ついでにいえば気を悪くしたのでもない、とくみ取る。


 上記のいずれでもなく、生理的な理由で人が堪えきれずに笑いだしてしまうとしたら。

 ──この空虚さを生み出したのは恐らく、圧倒的な諦念だ。


「じゃ、教えてやる」


「──まって、」


「お前がそう思うようになったからだよ。──だから、無理だ。俺はもうこっから動けない」


 明かされた変貌の理由に、間違えた、とユユは思った。


 それは決して明かされないべきだった。やっぱり踏み込むべきではなかったのだ。

 一人ずつの重みならかろうじて支えられていた薄氷は、互いに距離を誤った二人分の負荷には耐えられなかった。



 ◆



 顔を隠していた両手をアキがゆっくりと外し、中空の一点を意味もなく見つめながら、独白──自白する。


「……信じられるのが苦手なんだ。頼られるのも、預けられるのも勘弁してほしい。目の前の人の中で、俺がそこらの人混み以上の何かになったって感じた瞬間、逃げたくなる。自分でやらなきゃいけないって思えば思うほど、余計に動けなくなる」


 声は一定のトーンを保っていて、たどたどしくもない。まるでこう言うと事前に決めていたようで、


「……聞きたくなかったぁ」


「だろうな。すまん」


「そんなの、なんで言ったんですか。ユユにわざわざ踏み込ませて」


「もう言っちまいたかったんだよ。試すみたいなことして悪い。これで分かったろ。──これ以上、俺に何も期待しないでくれ」


 薄氷を踏み抜いてしまった──踏み抜かされたユユの非難めいた声に、アキは打たれるがままだ。

 彼が求めていたのは、隠しきれなくなった事をぶちまけるうえでの決定打。自分を追い込むための一言。


「情けないし、だせえ。俺も思う。だからそう思ってくれ。だるがられる方が、よっぽどまともに立ってられたんだ」


「──」


 割れた氷の下から染み出したのは、ただできない理由を釈明するだけの不毛さ。自虐的に言ったところで、知ったところで事態が進展するわけでもないと分かりきっている。


 利用されたといえるかもしれない。だが、胸中が凪いでいくにつれてユユはほんのりと、遅かれ早かれこうなるしかなかったという気もしていた。

 あのまま何も告げずに足踏みし続けられていたら、追い詰められたユユはどこかでアキを糾弾しはじめて、アキはそれに応じてしまって──致命的な崩壊が訪れていたのだろう。

 妙な話だが、焦りが過ぎ去ったあと、不思議とユユが虚脱に近い解放感を覚えたのもその裏付けのようで、


「……だる、ってユユに言われたかった? だから前の依頼のとき、試すみたいなことしてたんですか」


 楽になりたかった、以外の理由も想像できたから。

 寄り添い支えるほどはいかず、遠巻きに見つめるような心地で、ユユは静かに問いかける。

 いっそそれを望んでいたように、アキはうなだれる動作で頷いた。


「そうだ。クセになってるんだよ。『バ先で気まずいのは御免』っつったのは本心だし、あの依頼人が気に食わなかったのもガチで……信じられないまま、なんとか上手くいかねえかなぁってそればっかり考えてた」


「ふ、行き当たりばったりじゃないですか」


「当たり強ぇって。……なぁ甘蔗。俺はお前がつんけんしてて、ありがたかったんだよ。なんなら最初はどうせすぐやめると踏んでたし」


「やめるって見られてそーとは思ってました。……ありがたい、は別として」


 これまでの彼の挙動は、極度の逃げ癖が原因。

 だから、君月も景もいなくなった今、頼れるとしたらお互いだけ。彼はその環境の負荷に耐えきれなかった──違う。耐えて堪えて、限界まで張りつめていた糸が、ここにきて断ち切られたのだ。


 ここまでユユとやんや言い合いながらも彼が戦ってきたことを知っている。助けられている。

 それを忘れて責めることはできないと、ユユはただじっと、自分の手のひらを見つめていた。


「このまま明日になれば、祭りが終わる。姉貴が来る。全部任せりゃあいい。アイツがどうせ何とかするよ」


 だが、アキが言い捨てた「どうせ」には、無機質な諦めの中にかすかな寂しさが混ざっていた。溶け切らなかった微量な不純物にユユは耳ざとく気づき、眉をひそめる。


 ユユと違って、誰かに頼ることはできるのに。アキにとって『任せる』が本当にポジティブな意味を持つなら──、


「なんでそんなに、辛そうなんですか? もしかして本当は任せたくない、とか」


 踏み込みたくないのは今も同じ。だが、互いを隔てていた防波堤は押し寄せた流氷の残骸で壊れてしまった。

 もう口を閉ざしたところで何も良くなりはしないからと訊ねたユユだが、当ては外れ、アキは首を横に振った。


「本気で心の底から任せたいよ。ただ、……」


 言い淀むアキの、感情の揺らぐ目をいくら覗き込んだところで、内側でめぐるその複雑さを推し量ることはできない。


 ふいにアキが、「アイツが、おかしいからだ」と、これ以上ない表現に行き着いた風に顔を真っすぐ上げた。突拍子もない結論にユユは目を瞬かせ、ほどなくして首を傾げつつ尋ねる。


「あいつ、って美曙さん?」


「ああ。おかしくて、誰よりも何よりも強い。そっか、まだ知らないのか」


「知ってます。バグみたいに強いのも、美曙さんの頭がちょっとあれなのも──」


「そんなもんじゃない」


 一刀両断。覇気の失われていたそれまでとはまるで様変わりして、アキは鋭く、重々しく言い切った。

 肩をこわばらせたユユに顔を向けてはいるものの、その怯えの兆しには目もくれず、どこか遠くの一点を凝視している。


 見開かれた眼に映っているのは、この世界で良くも悪くも頻繁に目にするもの。

 畏怖だ。


「──斬るしかできないってだけじゃない。死線に立って顔色の一つも変えない。何を何匹斬ろうが数えもしない。寸前まで死にかけてた相手だろうが、助けたやつの顔をちゃんと見ない。興味がないからっていう、それだけで。……俺らとは違う生き物なんだ。アイツはその気になれば、人だって殺せる」


 ここにはいないその人を恐れるようにひどく狼狽して囁かれた、最後の一言に息が止まる。簡単に向けていい言葉ではない。ただ、瞬時に否定できなかったのも事実で。

「……まさかぁ」と無意識に唇を緩めた理由が現実逃避でないことを、ユユは自分自身に願った。


「いくらズレてるとこあるからって、流石に……そんな場面とか見たりしたんならまだ、」


「見てない。多分まだやってもない。ただ、まだってだけなんだよ」


 アキは頑なな姿勢を崩さず、どうにかユユに理解させようと腐心しているようだ。だがどうしても、ユユの立場からは肯定できない理由がある。


 幽霊ゾンビから助けられたあと、美曙には「無事でよかった」と微笑まれたのだ。たとえ、記憶のどこを探っても、ユユの状態を確認したのがそのやり取りだけで、それ以上の追及がなかったとしても。

 アキの発言を裏付けるものに覚えがあったとしても、そこに何の温かみもなかったと言い切りたくない。


「そんなのが物心ついた頃から目の前にいて、居続けてみろよ。それで」


 ユユの返答の有無を気にかけることなく、再びアキは俯いた。これ以上の追及がなかったことにユユは内心ほっとする。本人がここにいない以上、答えの出ない問いに頭を悩ませるのはやめたかった。


 幼少期から圧倒的な存在が壁として立ちはだかっていた。だから彼は捨て鉢になった、諦める癖がついたというのだろうか。

「どうせ」に込められていた無力感は、そんな長年の間に蓄えられたもので──、


「先輩?」


 アキの声が途切れた。様子が違うと直感してユユは呼びかける。

 いや、前からおかしかったのだが、何かが決定的に違う。


「夜警に飲み込まれかけたときに見たんだ。いや、集会所からいたのか。妙な匂いがして……それからずっと消えない、目ぇ瞑るとそこに立ってる。もう分かんねえんだよ、これ現実だよな、なあ」


 みしりと木箱が軋む。ちょうどアキの顔の部分に落ちていた自然光が下にスライドしていく。人影はユユの前に落ちた。

 咄嗟に木箱のへりに手をかけ、立ち上がろうとした体勢でユユは硬直した。行く手を遮られたから。


 正面に立ちふさがったアキの身体が幽鬼のようにゆらりと傾ぐ。眼光は見えず、真っ暗闇がそこにある。

 ぶつぶつと苦悶の訴えと独り言の中間で無造作に放たれる言葉の、その趣旨が頭に入ってこない。


「せんぱ、」


「何もしなくていいの、ってさ」


 そろりと床に下ろしていた片足を引き寄せ、ユユは背後の壁ににじり寄っていく。

 アキの声音からは熱が失せ、彼が見ている相手もきっとユユではない。

 何を言っているか分からなかった。ただ、うわごとを溢し続けるアキから遠ざかろうとする。


「……あいつはいつもそう言ってた。今も、うるせえ。もういいだろ」


 掠れた声で吐露される絶望に、飲み込まれそうな圧。


「何もしなくて、いい……」


「『やるべきことが存在しなくて、才能なんかなくていい』。何したって肯定されるなら、端から結果は期待されてないのと同じだ。──それがどんだけ魅力的か。教えられるもんなら教えてやりたいよ」


 この二日間で再三聞かされた『理想郷』の教義を唱え、またも手で顔を覆いながら、アキが縋るように目を瞑る。


 ──この人は、期待されていたんだろうか。

 きっと聞いてはならなかった切なる願いを聞いて、壁際に追い詰められながらもユユは漠然とそう感じた。

 やるべきことがあって、才能がなくて。肯定されず、結果は期待されていた?


 彼がどういう屈折した理屈に囲まれていたのか、ユユには分からない。繋がりが見えないだけでなく、そもそも一切ピンと来ないくらい、ユユは彼の口にする全てが縁遠い世界にいたから。

 辿ってきた道が遠ければ遠く、交わらないほどに、口を挟むことが傲慢に思えてくるもの。


 だが、それでも。その姿に、思い当たるものはあった。


「なあ、待とうぜ。イカレ女でも、なんでも……最悪、ここだって悪いとこじゃないと思うぜ。とにかく俺じゃなくて他のやつを信じよう。それでいいじゃんか」


「──っ」


 信じよう。

 耳朶を打つ、その言葉が、ユユにとっての引き金となる。


 いつの間にかユユの中で遠く過ぎ去りかけていた正気が息を吹き返し、警鐘を鳴らす。は、と詰めていた息を溢した。

 たくさん見てきた。目を閉ざしたくなるほど。

 それは、ユユの一番嫌いな人たちと瓜二つのちっぽけな姿。


「……ユユは、いや」


「……ぁ?」


 絞り出した拒絶が何に向けられたのか。自分自身か、発言に対してだけのものかが図れずにアキが怪訝な顔をする。だが、すぐに理解したようだった。


 だって揺れ動くアキの目には、可愛い顔を引き締め、ぶれずにアキを正視するユユの顔が映っている。


「たくさん、見てきた。誰かのためのお守り、交差点に捧げられてる花。祈りとか願いは、マイナスなだけじゃなかった。……それが分かって、何が嫌いかはっきり言えるようになった」


 ゆっくりと、積みあがっていく言葉を衝動とともに押し出し、本音の輪郭が浮き彫りになるにつれて声は加速していく。

 世界に目を向けられるようになった。これまでちょっぴり盲目的だったんだと自覚できて、やっと正しく認識できるようになった。


「ユユは嫌い。『そう在ろう』『そう願いたい』って決めるための信仰じゃなくて、自分の弱さから目を逸らして、ただ心の隙間を埋めて、逃げるためのものが。だって、──だってそれは、負けるってことだから」


 アキのまん丸の茶目の中で、二人のユユの顔がぎゅっと引き歪む。叱咤激励するみたいに毅然としているつもりだったのに、どうにも目の奥が熱い。いがいがする喉を鳴らし、溢れそうだった塩っぽいものをその奥へと封じ込める。


 ──あ、そっか。怒りじゃなくて、怖いってよりも、悲しいんだ。


 長い間抱えていた『嫌い』の裏に隠れた感情が、はじめて顔を出した。それは想像よりも幼い頃のままで、柔らかい弱点そのもので、だから閉じ込めていたのだと今なら分かる。


 過去の自分に倣い、もう少し出番は後だと言い聞かせながら塩水を飲み下す。目の奥に涙を追いやるのに必死で、ぶれていた視線を改めて固定。

 アキの切願を、ユユはそれ以上の切望で跳ねのける。


「これ以上、ユユの世界に見たくないもの増やさないでよ……!」


「──」


 思いがほとばしったユユの前で、沈黙が降りる。打ちのめされたようでありながら、アキがそれでも反論することを放棄したのだと伝わってきた。


 諦められている。

 その様に再び、胸の奥から熱が込み上げてくる。こんなにわがままばっかりのユユを説得することすら、もういいんだと思われたら。


「……かなしい、から。──ちゃんと見て、聞いて!」


「お、あ? っ、何すんだ!」


 腕を伸ばし、アキの視線を妨げる手を掴む。思いきり引き寄せると間の抜けた声が上がり、体がよろめいてユユの方に倒れかける。それまで虚ろだったアキの顔がまずいと察知したのか引き締まった直後、もう片方の手が矢のような速さでユユの頭上を通過した。

 額が衝突する寸前、ほとんど殴る勢いで壁に手をつき、アキが自身の体を支えることに成功したあと。荒く息をつき、「ぶつかるとこだったぞ!?」と文字通り眼前で抗議されたが、ユユは意に介さずにつんとして、


「ここが現実だって教えてあげてるの。こーでもしないとユユが何言ってもすり抜けちゃう」


「なんだその理屈! つか手ぇ離せ。危ない。次、俺がバランス崩したらそっちが押しつぶされるから」


「そしたら避けますしっ」


「だーもう、わぁった」


 断固として拒否するユユに押し負けてから、アキはようやく引き下がった。

 そうだ。ユユは可愛くもしち面倒くさい女の子なのだから、今はそれに付き合うしかないという割り切りを覚えてもらおう。

 離すまいとユユに腕を掴まれたまま、前のめりの姿勢の維持を決定づけられたアキはため息をつき、


「……なんだ、負ける? ああ、なんだそれ、俺らはもうとっくに負けてるのにな。──タイムリミットの夜明けまであと三十分切ってんだよ!」


「ぁ、時間は……それでも、何もしないって理由にはならないっ」


「さっきまでお前も膝抱えてべそかく寸前だったのにか? 逃げて隠れるってのが一番利口だって、分かってたから同意してたんだろ!」


「そんなの言ってないもん、ひとっことも! ユユはただ、そう、充電中だっただけ! もう百パーなんでばーか!」


「嘘つけってかただの暴言!」


 二人顔を突き合わせて、声をぶつけ合う。アキの引きこもりにユユが追従していた理由は実際のところ嘘っぱちだが、いざ口にしてみると本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

 レギュレーション違反を躊躇なくかましたユユにアキがのけぞりながら吠える。正当だがまるで聞こえないふりをして、ユユは食い下がる。


「もうやだって思うのは、分かる。だけど、ここだって悪いとこじゃない? そんなの絶対言わせない、そんなっ、怖がることから逃げるだけの選択なんて! ユユの前では許さない!」


「どうしてそこまでこだわる!? 俺に期待すんな、見たくないんだったらさっさと見捨てろ、言ってることがそんなに難しいか!?」


 アキが眉を吊り上げ、解せなさに声を荒げる。顔にかかる息が熱い。薄い紺の周辺光が上気した互いの頬を紫色に染める。

 売り言葉に買い言葉と、ユユは瞳に虚勢を精一杯にみなぎらせ、


「だったら、ユユ一人でも行ってやる。その刀、貸してください」


「は」


「アキ先輩の言うとおり、ほっといて行ってあげます。それなら、いいですよね」


 アキが虚を突かれる一方、ユユはユユで考えるより先に放ってしまった、自分についた噓に動揺していた。

 武器を求めて差し出した手が、生まれたての小鹿みたいに震えている。体が冷えていく感覚。あからさまな言動の不一致に理由は違えど双方が狼狽し、混乱したまま、先に口火を切ったのはアキ。


「い、くない。んな無茶、させられるか」


「……なんで」


「なんでって、そりゃ、意味ないからだ。それになんかあったら、どうする」


「危ないのはどこいてもおんなじだし。引き止めるってどういうことか分かってます? 信頼されたくないって言ってるのに逆効果、」


「ッ言い訳してんだよ塞ぐな! 俺にも分っかんねえんだよ、なんで止めてんだか、」


「ならユユが教えたげる! 見捨てろって言う割に見捨てられなくて、本当は何かしたいから、何もしなくていいって言われると苦しいんでしょ!?」


 差し伸べた手をもう一度、折れていた五指をコンパスみたくぴんと伸ばす。

 暗がりに慣れたのか、それとも空の色が薄くなってきているのか、アキがわなわなと唇を震わせるのがはっきりと見える。


「分かったような口きくんじゃ……くっそ。そうまでして」


 今度、無理解に追いやられるのはアキの方。視線を外そうとするも、この距離だ。どうやったって視界に映り込むユユの顔に、観念して戻していた。

 互いの主張は平行線。ならばせめて、そこから遠ざかろうとすることは許さない。


「俺を、お前の意地に付き合わせんのか」


「ユユを、あなたの意気地なしで止めるんですか」


「……現実を見ろ。本郷も負けたんだぞ。俺たちただの人間だけで、勝てっこない」


「そ、れは」


 苦しげに顔を歪めたアキの指摘は、ユユに鋭く突き刺さる。


 だがそれは、「勝てっこない」という部分ではない。ここに至るまでの怒涛の流れで考えることを遠ざけていたこと。いつかは向き合わなくてはいけないことを、突きつけられたから。

 返す言葉もなく目を伏せたユユの鼻先を、ぬるい吐息が掠めた。


「俺らは無力なんだよ。失望されんのが関の山で、今はそれ以上に、危険だ」


 握りしめていたアキの手首からユユの指がはがされていく。見当違いな安堵と、変わらない鬱屈を湛えたアキの顔が遠ざかっていく。


 元通りの距離で、表情に暗い影を落としながら、ユユは考えて、考えあぐねていた。

 そもそもアキを説得できたところで、なんだ。力がぐんと伸びて、解決策が思い浮かんで、立ち向かっていけるわけもない。実際、行き止まりには変わらない。


 なのに、アキの言うようにこだわってしまうのは──、


「ねえ、先輩。──ユユ、人間不信なんです」


 それはひどく場違いで、求められていた正解とは程遠そうな言葉。


「……ぁ?」


 困惑だけに埋め尽くされるアキの様子とは真反対。

 言ってしまったことへの後悔と恐怖と、賭けに出たという脳の錯覚によるかすかな高揚がユユの中でめぐりだす。


 なにせ、自分の中でも整理がついていない。けれど、一度口にしてしまったものは止められない。

 ぎこちなく弧を描いた唇の隙間から吐息がこぼれる。気づかないうちに、胸元に添えていた手が服を握りしめていた。息を吸って吐いて、ユユは告白──自白し返す。


「誰かを……信じるのが、怖くて、っ怖くてしょうがないご病気。危険とか一旦置いといて、あなたが心配してることは絶対に起きないって言ったら、安心してくれます……か」


 啖呵を切る、なんて勢いは全くなかった。もっと早く言えばよかったとは口が裂けても言えないけれど、不思議と謝罪するように語尾がすぼむ。

 そこにあるのはちぐはぐな希望だ。「期待できない」という期待を、ひとりでにユユは募らせている。


 つい数分前まで距離を保つことばかり気にしていたのが嘘みたいで、バカみたいだ。打ち明けるなんて思ってもみなかった。──なにせ拗らせてから、十年と少し。

 鼎にも、『鼎』にもバレていただろうが直接言ってはいない。

 はじめての告白だったのだから。


「……嘘だよな」


「ぅ、嘘じゃない」


 すぐに受け入れられるとまで楽観視はしていなかった。が、取り付く島もない否定に、ユユは咄嗟の水掛け論で返す。押し問答に発展するかと身構えたが、そうはならなかった。

 けれどその冷静さに遅れて気づいたのは、何を言われようが既にアキの中で答えは定まっているということであり、


「別に人間不信っていうことが大げさだとか、思い込みだとか言う気はない。なんかあんのは、分かってた。けど、俺はごまかせないよ」


「ごまかしてなんか、」


「聞けって。どこでだって信頼を得ちまう前に逃げてきたから、そういう予兆みたいなもんが分かるようになったんだ。最初は信じられなかったんだとしても……『悪い人じゃない』って思うようになったのは、本心だろ」


「──っ」


 その指摘は、まさに図星だった。少し前に口を滑らせてしまった自分を叩きたくなるが、もう遅い。


 何も耳に入れようとしなかったさっきまでとは違い、アキの身体はユユと向き合っていて、言葉が並ぶのはユユがついたのと同じテーブルの上。

 それゆえにユユの些細な動揺をも見逃さなかった彼は、ふっと自分自身を嘲笑うように頬を緩め、


「信じられない、な。……そんな都合のいいこと、俺にあるわけないだろうが」


「っけど事実だし、確かにどっちも、ほんとですけど」


「ほらな──いや、どっちも? やっぱり凝り固まってたけど変われたって話じゃなくてか」


「それは違う」と弾かれたように顔を上げたユユがきっぱり言い切る。けれど、続きはつっかえて出てこない。

 言い回しが不明瞭で、アキが困惑するのも当然だ。

 ずっと曖昧に濁してなあなあにしてきた気持ちを、アキを納得させるためには言葉にしなくてはいけない。その葛藤が、ようやく形を成したばかりの声を震わせる。


「違うんです。聞いて、くれますか」


 訝しげにしながらもアキが小さく首肯する。

 ユユは目を瞑った。確かに起こった変化と、その先(・・・)について語るなら、考えなくてはいけないのは──鼎のこと。


「……あいつ、トウテツに裏切られてなかったこと、正直、よかったって思った。また怒らなきゃいけないって考えるのが苦しかったから。だけど、だんだん実感。みたいなのが湧いてきちゃって」


 あれは今、君月(きみつき)と同じ状態にあるのだろう。

 そう認識した途端、自分がその可能性を今の今まで考えもしなかった、ということへの衝撃でユユの頭は真っ白になったのだ。だって、


「──あいつが負けるわけないって、信じてたことに気づいた。ほんと、本当に、バッカみたい!」


 これまでで一番泣き出しそうに声を不安定に上下させて、自分を殴りつけるみたくユユは全部を吐き出す。

 偽鼎から逃げていた最中に嫌な予感がしてから、どうにか考えないようにしていたのに、「負けた」だのとアキが言うから、意識せざるを得なくなったのだ。


 そのせいでユユはどうしようもない不信の証拠を提出せざるをえなくなったのだから、アキにとっては藪蛇をつついたようなものかもしれないけれど。

 つつかれた蛇だって、全くもっていい気はしないのだと言いたい。


 思い返せば、諦めると宣言したアキに何かが失われた気持ちになったのも。裏切ったかもしれない鼎に、怒りよりも別の感情が先行したのも。それがただ『白瀬』に操られているだけだと分かったとき、心配もあるとはいえどこか胸が軽くなったのも。


 ──全部ぜんぶ、ユユに無意識の仲間意識が芽生えていた証拠。

 頑なにしがみついていた己の変化に目が向いてしまえば、もう笑うしかない。


 ユユは本当に、単純で、ちょろかわ。大バカなのだと。


「何が、」


「──」


「何が違うんだ。人、信じられるようになったんじゃんか。おめでとう」


 黙って聞いていたアキが、絞り出すようなぞんざいな口調で珍しく皮肉った。隠せていない落胆は、きっと期待外れの裏返し。

 それでよかった。ユユは、肩を落としてかぶりを振る。


「なってない。なってないの、全然」


 寂しげに繰り返し呟くそれは、自分に言い聞かせるような類ではない。むしろ自分を叱咤するような、悔恨や歯がゆさが染み込んでいる。


 ──じゃあ、信じられる? と、アキが対話を拒否していたとき、ユユは一人で自分に聞いてみたのだ。


「任せよう」と力なくも反復するアキのそれは、他者に対する信頼の一種だ。「何もしたくない」の裏には、後ろ向きであっても相手が何かしてくれると期待する心が隠れている。

 彼に倣って、そうできるかどうか。切り替えて、やり直せるか。


「できなかった。これ、以上は、だめだった」


 考えただけでユユは腹の底が冷えて、握っていた手の甲に爪を立ててしまった。それは、呆れるほど明確な拒否反応。

 アキの言うようには、それこそそんな都合のいい事態には、ちっともならなかったのだ。


「……気が抜けると、まだ足ががくがくしてくる。いつの間にか、ちょっと気が抜ける場所ができてたところでユユの問題を誰かが解決してくれるなんてちっとも思えないし、どこにいたって落ち着けない」


「甘蔗、」


「他人の考えてることとか分からないのに、信じて何かいいことってある? って頭の中のユユがうるさいの。──これだけ力借りてきたのに、まだ足りないのが一番バカみたい……! っねえ教えてよ先輩、どうやったら人って信じられるのか」


「────」


 内向きになる肩を揺らし、胸を掻きむしり、感情が怒涛のごとく溢れ出して思考を追い抜いていく。せっかくこしらえた防波堤を越えて零れ落ちる涙をぬぐいもせず、思いのたけを力一杯に叩きつける。

 変化が生じた事実を認めたうえで、確かな兆しが垣間見えたこれまでの時間をなぞったうえで、それを自分でふいにしていく。


 涙が出るのは悔しいから。ユユ自身が周りを受け入れられなくて、どうしたって変われないから。


「いっそ、信じなくていいって言われる方がよっぽど楽。……先輩なら分かるでしょ。いくらきっかけがあっても、どんな理由があっても──病気は簡単には治んないんだ」


 長年抱え込んできただけの重みを、言葉に込める。呪いにも近い断言に、それまで立ちすくんでいただけのアキが、「あ」と溢した。

 心当たりのある顔だ。予想の的中に、ユユはしてやったりという微笑みを弱々しく浮かべる。


 ──そうだ、彼だってユユと、彼らと同じ相談所にいる。

 いくらネジが一本か二本、規格から外れたものを頭に無理やり嵌め込んでいそうなときもあるからといって──景は除いてもいいとは思うが──真っ当な交流がなかったわけではないだろう。数年か十数年だか知らないが、それでも彼は「信じられたくない」という心の膿を出せないままでいるのだ。


 容易には切り替えられないユユの心境が、一切伝わらないものだろうか。

 そんなわけない。だが、


「だったらどうして、今は。向かってこうとする。独りぼっちでよくて、誰のこともどうだっていいなら、危険な真似もしなくていいはずだろ」


 アキは粘りを見せた。彼に巣食う病は、ユユのそれとはまったく異なるようでいて、重なる部分もあると伝わったはずだ。

 通じるからこそ、どうして立てるんだと彼は心の底から訳がわからない顔をしてユユに聞くのだろう。


「なぁ、お前ならこの感覚も分かるんだよな? 治せないものは、諦めるしかないって」


「うん。全然、今でも共感。……でも、抜け道は見つけられた」


 指の跡がついてくしゃくしゃになってしまった服の胸元をならして整えながら、ユユは思う。


 ──こんな自分に、心底あきれ返るけれど。


 でも、もしも、呆れるほどの人間不信で良かったと思える日が来るのなら──それが今日だったらいいと願いたい。

 だからこうして訴え続けているのだと、不覚に光を反射してしまう瞳でユユはアキを見据え、


「初めて任された、それが大事に思えたから。『よろしく』も『お願い』も、全部はじめて。……多分きっと、ユユは嬉しかった。信じることでのお返しはできそうにないけど、もらったものは、まだ捨てたくないって思う」


 怒りでも悲しみでもない、ユユが立つために必要だった最後のひとかけら。

 これまで知りもしなかった、『信じられている』状態は存外、心地よかったのだということを。


 怒れよ、と少し前に言われた。怖がるな、それは化け物からすれば格好の餌だと。なに無茶なことを言うんだと思って、あのときは「ユユの気持ちはユユが決める」と啖呵を切った。

 ならば今、決めてやろうと、息を思いっきり吸い込む。


「怖いものからできる限り逃げたくない。世界を変えられるなんて思わないし信じたくないものばっかりだけど、せめて文句は言いたいしっ、どうせなら──最悪な世界に最悪だー! って思いっきり叫べる自分がいい!!」


 自分の無力さを受け入れなくていいのだと、教えられた。

 何ができるとも思えなくとも、立つ権利はユユにだってあるのだと。


 まだ全部を預けられるほど呪縛は解けていないけれど、仲間意識、が生まれてしまったことは認めてもよくて、


「それなら、助けたいって思う! 誰かじゃなくて自分のために。だって自分まで嫌いになったら、下向いてるとき足も見れなくなっちゃって、真っ暗闇しか待ってない。でしょ」


「──。──信じられないけど、信じてもらったから。それが、見つけた抜け道か?」


 自身の脳みそのバグを回りくどく避けたようなユユの手段を、アキが苦心しながら噛み砕こうとしている。

 きっとアキには伝わらない感情が理由なのだから、飲み込みがたいのもしかたがない。けれど、ユユの言う要点はそこではないのだ。


「そう。それで──先輩のは。あるんでしょ、きっと」


「は、……俺の?」


 目をぱちくりさせている、アキ。


 ──ここまでユユとやんや言い合いながらも彼が戦ってきたことを知っている。助けられている。

 癪だが、彼はユユよりも長く立ち続けてきた、先輩だ。


「ねえ、今までどうやって立ってきたの?」


「……今まで、俺が──」


 探るのではなく助け船を出すようなユユの問いかけに、アキは少しの間考え込んでいた。

 記憶の瓶を振ってこぼれてきたものは、何色だったのか。暖かかったのか。

 彼は眩しいものを見たときのように目を細め、その表情を和らげた。


「なあ、どうやったら人を信じられるのか、だったか?」


「え、……はい」


「俺の場合は、あの人らに返しきれないくらいの恩があるからだ。自分なんかよりよっぽどすげえって思い知らされてるから。ちっさいときだったし……そうだな、信じない理由がなかった」


「理由が、ない。ふうん。……いいなあ」


「俺からしたら、自分を信じられる方がよっぽど羨ましいよ。ああ、恩ってのは姉貴を除いてな」


「んふ、そこぶれないんだ」


 どうにも強固な因縁があるらしいアキのしかめっ面にユユは失笑して、その裏につい滑り落ちた憧憬を隠す。

 ないものねだりもしあったところで、改めて振り返ると、自分たちの悪い部分をただ公開しあっている状況がやっぱり変に思えてきた。別に弱みを見せられる関係だとか、望んで共有しているわけでは決してないのに。


 もうひと踏ん張りするには、ダメダメだと認め合うしかなかったから。なんておかしな話だと、ユユはまた不格好に笑った。


「恩人なんだ。──そりゃ、返したいよ」


 どうしようもなく怖くて、無力なことには変わらなくて。

 真逆のしがらみに囚われ、普通になれない二人の目的は、『自分のため』と『誰かのため』でやはり正反対のまま。不安は拭いきれるものではないし、手段も思いつかない。


 けれど、その歪み同士はぴたりと噛み合った。それこそ信じられないほどの偶然だ。


 それにここまで心の内をあけっぴろげに晒しておいて、自身の出発点も思いだしてしまったのだから、もう嘘は付けない。逃げられない。

 見つめ合う色素の薄い茶目に、橙の光が差し込む。


「もっかい言いますね。もう一度、ユユと一緒に行ってくれたりしないですか?」


「俺に何の期待もしない。それができるんだよな」


「大得意!」


 両手で顔の横にグッドサインを二つ作って、ユユはチェキを撮るときみたいに可愛くかっこつける。そのまま手の甲をくるっとひっくり返して、しまいこんだ親指のかわりに人差し指を二本立て、ばってんを作る。


「ユユは、何があってもアキ先輩のこと信じてあげない! 一緒にいくけど何にも任せないし、のんびりしてたらユユが一人でまるっとやっちゃうから」


 安請け合いどころか空手形もいいところで、実現不可能なレベルの宣言に、いくらなんでもと焦った表情のアキが手のひらを「ストップ」と掲げ、


「いやさすがに無理だろ。武器もないのにそこまで任せてらんない。俺もやる──あ」


 そこで、はたと気がついた顔をした。


「そっか、個人戦ってことにすんの?」


「あ、そう言えるかも。お互い最悪のときは自分でどうにかする、そっちの方がいいでしょ。それで……なんかいい感じに、最後になんとかなったりしないかなぁって」


「思いっきし行き当たりばったりじゃん」


「作戦あっても教えてあげませんー。ユユ人間不信なので」


「あぁ、そういやそうだ。俺も負担かけられたらマズいから聞きたくなかったわ」


「──ぷっ」

「ふはっ」


 互い違いのねじれようが面白くて、同時に噴き出す。


 つまりは、最後の悪あがきだ。無鉄砲上等、無駄な抵抗も承知の上。

 天窓から見える空が白み始めている。空気が一番冷える時間帯だが、なぜだかそれも感じない。白い息の向こうで、覚悟の決まった顔が下からゆっくりと照らしだされていく。


「……もし失敗しても、全部が全部、あなたのせいになるなんておかしなことない。だって最初からユユは先輩を信じてないんだから。てきとーに、勝手にやっていいの。ユユもそうする」


 ダメ押しみたくユユが投げかけた、励ましともつかない後ろ向きで不器用な言葉。それにアキがほぐれたような表情で「あぁ、そうかよ」と少し笑いを含んだ生ぬるい返事をするから、ユユはむずがゆくなった。

 こういうのが一番、得意じゃない。誤魔化しに軽く咳ばらいをして、まとめにかかる。


「だから──『信じない』って約束、しませんか」


 ややあってから、アキが小指を立てた。

 絡めた指に触れた指輪は、ほんのり温かかった。



 ◆



「……なあ、甘蔗」


「はい」


「日ぃ出そうだが何も起こらないな」


「ですよね? えーと……もしかして、あっ分かったそうだ!」


「なんだなんだ」


 腰かけていた木箱から飛び降り、ユユは降って湧いた天才的な思いつきに目を輝かせた。物理的にではない、もうとっくに涙は拭ったあとだ。

 隣で窓のある天井を仰ぎ見ていたアキが目を向けてくる。


「夜明けっていうのはあっちの制限時間だとしたら? 襲名の儀式が始まるまでにユユたちを全員取り込む。それが、『代替わりのために』必要だってあの郷民の人は言ってた」


「これが『白瀬』にとってのタイムリミットなら、俺らはまだ動ける。やっちまっても構わねえ!」


 突拍子もないひらめきを即座にアキが受け取り、発想の転換が現実となって伝播する。顔を見合わせて、にやっと悪だくみをする子どもみたくほくそ笑んだユユを、アキが「わっるい顔してんな」とつつく。


「かわいいお顔の間違い! ──先輩知らないんですかー? ユユたち未成年なんだから、ギャンブルとかほんとはまだやっちゃいけないんだ」


「なるほどな? いいじゃん。もともと勝手に吹っ掛けられただけの賭けだしな、丸ごと踏み倒してやっか」


 持ち前の目つきの悪さと八重歯で、どう見ても人に言える立場じゃない悪い顔をしているアキ。木箱から滑り降り、腕を伸ばしてストレッチを始めた彼に後れをとるわけにはいかないと、ユユも見様見真似で屈伸したりしてみる。

 色々と条件を設定されていたが、考えてみればこちらがそれに付き合う必要なんてないのだ。それに気づいた瞬間から、あの閉塞感が嘘に思えるほど道が広がってきたように思えて、見えてきた希望にユユの心は湧きたっていた。


「それにもう朝になるんだから、あの夜警も出ないかもしれない!」


「待てまて、夜警が消えるんならここの住民も敵になるよな? 数で押されたらまずいぞ。あ、肩もしっかりやっとけ。こう」


「こう? じゃあ起きてくる前に急いでいかないと! っ、そもそも捕まっちゃった人たちが、ちゃんと無事かどうかって」


「あー、俺がのん気なだけかもんないが……人を操って攻撃させるようなやつが、まだ残り(おれら)もいんのに早まって殺したりするか?」


 確かに、と言われた通り肩甲骨をぽきぽき言わせながらユユは納得した。負の信頼というやつならユユにもできるのだ。


「景さんが送ってくれたメモもあるし、そうかも。そしたらとにかく、どうにかまた集会所に戻って、本体──『白瀬』だけ倒しちゃえばいい。……できるか分かんないけど、やってみるだけ」


「だな。やるだけ足搔こう」


 一致した目標を再確認して頷き合う。何があっても最悪、美曙が来てくれるようだし。

 ──これは信じてるのとは違くて、強いっていう事実を認めているだけだからと、かの化け物じみたリーサルウェポンに対する認識を内心でこねくり回すユユに、アキの物言いたげな視線。


「つか甘蔗、素手でいく気か?」


「無理だし嫌です。けど、ほら」


 最後に深呼吸してストレッチ終了。当然の疑問にユユは両手を広げ、薄っすらと光が差し込んできた小屋内を示す。


「ここ、工具小屋!」


 武器どころか妨害アイテムまで、より取り見取り。

 合点のいった顔でぽんっと手を打ったアキと二人、そうと決まれば手分けして使えそうなもの探しだ。


 のこぎりとか斧だとか、れっきとした殺傷能力があるものは避けて選ぶ。相手に圧は掛けられるだろうが、間違えて傷つけてしまう方が怖いし、包丁より刃渡りが長いものを扱える自信がユユにはない。

 ──よく刀なんか振り回せるなと、難しい顔で工具箱をひっくり返している人物を見ながら改めて思いつつ、何の気なしに話を振った。


「アキ先輩、彼女いる?」


「なんだよ急に……いや、いた。高校んとき」


「えっ意外」


「もうちょい歯に衣着せろよ。信頼されてるって思うとやっぱ重くて逃げたくなって、『別れね?』っつったら『あの態度でまだ付き合ってると思ってたんだ』と。……背筋冷えたわ」


「うーわ。けどユユ同情しちゃう、先輩じゃなくてその人に」


「ひでえ、そっちかよ。──あ、これとかどうだ。道に撒く」


「とーぜん。──ん、よきです、そこ置いといて」


 先ほど売られたケンカ──本人は否定していたが──を思い出したから、意趣返しだ。


 ユユの顔ほどもある大きめのシャベル、よく分からないスプレー缶、アキが見つけたオイルも使えそう。傷つけない程度であれば、相手が鼎ならまあいいかと思えるのが不思議だ。

 一通り漁ったものをユユがリュックに重くならない程度に詰めている間、工具ベルトを腰にくくりつけていたアキが、また思いついた風に口を開く。


「んじゃ、人に聞くんだったら、甘蔗は」


「ユユ? 小学校で一人、中学上がってからは……にい、さん、」


「分かったもういい。あー指折るな、むなしくなる」


「あ、全員フってます。ちょっとどうしても、信じられないとこあって」


「たはは、極まってるわ」


「絶対そっちが言えることじゃない!」


 ユユは指をさして不服を表明。

 ぼろぼろな人間関係歴を晒して晒されて、ひどいブラックジョークだ。極限状況でたかが外れてしまったのかもしれない。けれど、


「だいじょーぶです。ちゃんとゲンメツしてあげてるから」


「は、サンキュー」


 吊り橋効果なんかには中指を立ててやる。リュックのチャックを引っ張り上げながら、ユユは茶化すように言った。目を瞑ったアキが、本来なら毒でしかない発言を口角を上げて受け止める。

 準備は整えた。ならそのあとに続くのは、


「向かうは集会所、か?」


「──それは推奨しませんね」


「っ!?」

「誰だ!」


 不可侵かと思われた小屋の扉から、かちゃりと鍵の回る音がする。南京錠が外されたのだと分かって鳥肌が立つ。

 鋭く発されたアキの警戒の声にも侵入者が留まる気配はなく、外向きの扉が開け放たれる。


「──」

「──」

「あら」


 腰は引けていながらも威勢よくシャベルを振り上げたユユと、ベルトに吊り下げた刀に無言で手をかけているアキを一瞥し、戸をくぐった女性は大人しく両手を挙げた。


「警戒させました? おはようございます。……それともまだ、こんばんはでしょうか」


 とぼけたような口調で彼女は小首をかしげる。それどころか、この状況で挨拶から始められるのは図太い以外にどう捉えればいいのだろう。

 光に目が慣れるまで少し時間がかかったが、間もなく輪郭以外も視認できるようになるとユユは驚きに目を瞬かせた。戸口に立っていたのは、長い黒髪を一つにまとめたスーツ姿の女性。


「……(かじ)、さん?」とこわごわ聞いたユユに、


「ええ。──よかったです。もう一枚名刺を渡すために、腕を動かす許可をいただかなくてはと思っていたところでした」


 と、フリーライターを名乗った彼女は悠々と会釈した。



完全不定期連載に移行します。お待たせしてしまい申し訳ないです。

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