7 欺瞞を暴く
アキとユユと分かれてから、一人北へ向かった景。
昨日は下った坂道を迷いなく上る彼は、すでに道中で遭遇した『夜警』を音で誘導し、家屋の外に保管されていた灯油をかけてライターで火をつけたあとである。
瞬く間に広がった炎は、布に染み込んだ油のおかげで威勢よくその身体を焼いていった。
「糸の侵入を防ぎ、弱点をつけばこんなもの……と、言える立場ではありませんが」
ああも苦労させられたというのに、耳栓ひとつで封じられるとは。余談だが、有り余る筋肉で押し込まない限り、周囲の音が必要以上に遮られることはない。
燃えカスまではいかずとも、子供に手酷く扱われたあとの人形に近い崩壊の仕方をした夜警に、これまた別の家から拝借したホースで水をかけて鎮火した。
途切れることのない焦燥を胸に景は道を急ぐ。織代の候補地は診療所で頭に叩き込んだ。途中で見つけた一つ目は外れ。次に近いのは、あの封鎖された製糸場の西側。堪え性のない肺が軋むのを無視し、上りきった坂の上にあった養蚕場へ景は侵入する。
三棟並んだ古い木造の平屋だ。半分外れて斜めにぶら下がっている雨戸をどかし、湿気と劣化のせいか動かしづらい障子を無理に引く。
途端にあふれ出す古い葉の匂いとかび臭さにむせそうになる。板張りの床に土足で踏み入ると、ほぼ塵も同然となった枯れ葉が舞った。
「放棄されてからは三年程度……確かに、隠し場所にはもってこい」
立ち並ぶ蚕棚には目をくれず、景が探すのは足元。どこかにあるはずの石をと落ち葉を踏み分け、埃を足で散らしていく。
──そして、それはおりしもバイトの二人が再度遭遇した夜警に逃走の一手を図っていた頃。
「やあ、景」
見間違えようもない、髪の半分を脱色した小柄な人影に景は遭遇した。
「──ぁ、なたは」
どこから入ってきたのか、それは考えるまでもない。光源に困らないほど雨戸は外れ放題だった。景のいる通路の端、棚をいくつか挟んだうえで立っていたのは、君月その人。
口を半開きにして、呆気にとられていたと思う。景はそう思いながらも動けなかった。それこそ、君月に見られれば笑い飛ばされる間抜けな顔だったはずだ。
ただし、目の前にいるいつもの外套に余裕綽々な軽い立ち姿の彼が、本物であればの話。
──彼は言っていた。「もし僕が操られたらそれも利用してくれ」と。
景はゆっくりと歩み寄る。『君月』に動きはなく、微笑んだまま目を瞑っている彼の頬に、
「失礼します」
「ん?」
指を添えて、本当に軽く触れた。手袋越しに伝わる体温と質感は人間のそれだ。
疑問符を発した『君月』の瞼が持ち上がり、怜悧な瞳が見える。ただし焦点は合っておらず、沈黙が流れ、それ以上何のリアクションも起こさない姿に景は薄っすらと微笑んで言った。
「あの人は他人に触られると、右のまぶたが動くんです」
「──。へえ。確かめたってわけか」
「ええ。まあ、冗談ですが」
謀られて唇を捩じ上げる、君月の顔をした何者かを景は失笑する。
「触れたことなどあるわけないでしょう。もちろん癖も知りません」
「はは。だよね、驚いたよ。記憶にないこと言うなって思った」
この期に及んでも猿真似を続ける偽物に景が嘆息し、離した手でするりと腰元のナイフを抜く。
しかし刃物を向けられようが『君月』に怯むそぶりはなく、むしろ挑発的に笑うと、
「あれ、怒ってる? 前に美曙とアキくんの喧嘩に巻き込まれて、一年分の領収書がどっかいったときと同じ雰囲気だ」
「また随分懐かしい、というかあれをけしかけたのは貴方だった……ではなく。腹立たしくはありますよ。ただ、それだけです。俺にそういった揺さぶりは効きませんが、知りませんでしたか?」
淡々と返され、『君月』が鼻白む。実際、不必要に彼の身を案じるつもりは毛頭なく、こうして会話を続けているのも、相手の出方を伺うためだ。
なにせ目的が一切分からない。ただの精神攻撃ではないだろう。君月の記憶をいくらかは有しているらしい偽物が、「効かない」と断じた景へそれ以上追及しないのがその証拠。
時間稼ぎならもっと効率的な方法がある。
残るのは、これが夜警と同質のものである可能性。
「──ああ、警戒してるんだ? 多分君が考えている通りだよ。さしづめ、木偶人形バージョン2ってとこかな」
やけに親切な『君月』の言に、かえって警戒の増した景は深呼吸し、
「君月さん! 聞こえてますか。聞こえていたら何か反応を!」
声を張り上げた呼びかけに、『君月』は「ふうん?」と首を傾げるばかり。意図を掴めていないさまは、それが君月の記憶を掌握しきれていないことの裏付けだ。とはいえ朗報ばかりではない。注視していた指の先と目元に変化がないのを確かめて、景は小さく嘆息した。
チェックリスト三つ目、成果なしだ。
続けて景は、スマートフォンのライトをつけると『君月』の顔に向けた。
『君月』は変わらず不思議そうにしているばかり。光を眩しがる様子は、ない。
「──っし!」
そこまで見定めて、景は真横の蚕棚に体当たりをしかけた。衝突の反動がくる。成人男性にしては軽い景の重みでも、すのこを積み重ねただけの棚は容易に傾き、同じ通路にいる『君月』と反対方向に倒れていく。
「ん? 君、何かにぶつかったか──」
『君月』が最後まで言い終える前に、倒壊が始まる。並んだ蚕棚の崩壊は連鎖し、土煙がもうもうと上がる。
木が地面に打ち付けられ、すのこが衝撃でばらばらになるけたたましい地響きが、踵を返して走り去る景の足音をもかき消していく。
聴覚に頼る相手に、景は躊躇なく逃げを選択した。
息を弾ませ、隣接した棟に先ほどと同じ要領で窓から入り込む。隙を作ったうえで遠ざかったものと思わせられればいい。
「ふー……」
万が一のため多少の小細工を設置したところで奥の棚の陰に隠れ、景は呼吸を整えながら携帯にメモを打ち込みだす。
有事に備えて、君月と景の間で取り決めていることがいくつかある。
そのうちの一つが、互いが敵になったケースのチェックリスト。
単に洗脳されたのか、何者かが当人に化けたのか、意識に棲みついた何者かが体を操っているのか、はたまた幻覚かを判別するためのものだ。
これに従った結果、今回は三つ目のパターンである。
次は内部からなんらかのアクションを取れるかどうか。
人間が通常無意識に行っている動作には制限がかけづらい。しかし君月の瞬きの回数に変化はなく、指先の震えもなかった。
声は届いていないと考えた方がいいでしょう、とあとでアキに送るメモに書き込む。残る項目は──、
そのとき、がたっと雨戸の外れる音がした。景のいる棟だ。
──どうして気づかれた?
景は慎重に片膝をついて周りの様子を窺えるよう、いつでも立ち上がれる体勢へ移行。見えないながら障子の開く音。遠くで差し込む光の筋。「いないなぁ」と場違いに弾んだ声がする。
ここにいることを確信している動きは、まるで何か目印があるかのような──そう考えたとき、視界の隅を黒い物体が横切った。
蠢く影。たなびく細い銀の線。虫だ。
その結論に辿り着くが早いか、景はナイフを振るって糸を断ち切ると、床を這いずる第一関節ほどの体長のそれにすばやく突き立てた。
『主人』に貢献した虫が無音で縫い留められる。
「……見えなくなったな。残念」
冷たい声が遠ざかっていく。半分本当で残りは嘘だろうと景は考察する。蜘蛛が今潰した一体だけであるはずがない。少なくとも君月であればそうする。
一時的に追えなくなっただけで、居場所はすぐにバレるものと思った方がいいだろう。追いかけっこになれば、体力にハンデのある自身の不利は固い。
やはり当初の目的通り、織代の破壊がその力を削ぐことに期待だ。そう考え、景が手元のスマートフォンを操作すると、
『──鬼さんこちら、ここまでおいで』
棟内の一角から自分の声がしはじめた。
「……ふうん? いいよ、行ってあげようじゃないか」案の定、離れたふりで付近に留まっていた『君月』がそちらへ引き寄せられていく。景が常時二台持ちしているうちの片方、君月との連絡用のスマートフォンを設置した場所へ。
念のためにと作っておいた細工が功を奏した。化け物が君月の思考を模倣しているのなら、罠だと分かっていても必ず飛び込みにいく。普段は困らされる癖だが、今は好都合だ。
──今だけ、利用させてもらいますよ。
「お。──うわっ」
何かに引っかかったことに気づいたのだろうが、遅い。驚く『君月』の顔面にぼふんと粉が舞ったのだろう。縫合用の糸と手持ちの胡椒で作った簡易的な罠だ。ちょうど粉が鼻に当たるよう細工してあり、
「っくしょん! えふっ、あー……椿原くん。これは何の真似かい?」
堪えきれなかったくしゃみを連発し、『君月』が半笑いで苛立つのが聞こえる。しかしそれだけであり、景は軽く落胆した。何者かによる遠隔操作の場合、刺激が意識を分離するトリガーになることもあるのだが、そう上手くはいかなかった様子。
ただ、もう一つの狙いは通った。
「ああ、なるほど。──へぶしっ! これは集中がそがれるし、音も捉えづらい。やるね」
意図を解してかえって嬉しそうに声を弾ませている。一瞬だけ妙な感慨がよぎったが、偽物に抱くべきものではないとすぐに自分を戒めた。
定期的に聞こえる盛大なくしゃみのおかげであちらの位置は丸わかりだ。『君月』の索敵能力が低下している間に景はスニーキングを試みる。
距離を保ちつつ、景が身を屈めて目を光らせるのは棚の下や部屋の角、隅々にまで。
見かけ上はしんとした隠れ鬼がしばらく続き、増していく織代の見つからない焦りが、景の腕に生じた違和感を流す。
ふいに体が前につんのめって、そこでようやく気づいた。
動けない。
後ろに引かれたと錯覚した右腕を見る。否、その場に留めさせられたのだ。いつの間にか中空に撒かれていた糸が、利き腕に巻き付いているのが見えた。
銀色の糸はその細さの割に絡めとる力が強く、無理に引き抜くことは難しいと判断。切り離すべく景がナイフをもう片方の手に持ち替える、その一瞬が仇となった。
棚の上を何かが転がったかと思うと、見上げた頭上から落ちてきたのは大量の釘。
「いっ──!」咄嗟に庇った腕と、防げなかった顔の一部に鋭い痛みが走った。
ほどなくして落下が止まり、景は詰めていた息を吐く。
手を軽くグーパーして、神経系に異常がないことを確認。頬と腕に少し切り傷ができた程度だ。
確認にかかった時間はほんのわずか。しかし、あの激しい落下音がまずかった。景は左手のナイフを振るって糸を断つと、早足で現場から少しでも遠ざかる。
近くの物陰に身を滑り込ませたとき、元いた地点の付近で声がして、
「どうだい? 君が壊した棚から抜き取ったプレゼントは……と残念。当たり所がよかったみたいだね」
──わざわざお返しいただかなくても結構ですが。
たった棚二つ分を挟んで息を殺すかたわら、景が心の中で呟く。なんとか間に合ったようだ。ふいにまた『君月』のくしゃみの予備動作めいた吸息が聞こえて、注意が途切れるであろうその合間に行動を起こそうとした、はずが。
景は気づけば耳を押さえて、膝をついていた。
──ぁ、か は
聞こえたのだ。あれが。あの祭文が。
耳栓はしている。なのにどうして。その疑問に答えるかのごとく、耳横の皮膚が引き攣れたようにひどく痛んだ。
まさかと脳裏によぎった忌まわしい発想に、景は体を折りたたんだまま、痛む箇所の周辺を指でなぞる。
己の皮膚から一本飛び出したそれは、触れると生き物のようにうねった。
予想の的中は喜ばしいどころか最悪の兆し。むしろ実感によって輪郭を得た鈍痛に、全身の筋肉の緊張を逃そうとした口が大きく開く。
──まな い
直接は見えなくとも、自分の内で起こっていることだ。否が応でも理解できる。あの釘の狙いは、侵入口を作ることにあった。
糸が傷口を貫き、肉を裂き、どうやってかは知る由もないが、それは景の意識にまで音を届ける手段を会得したのだろうと悟る。
──き、ひ
もはや耳からですらなく、頭に直接声が叩きつけられているようだった。棚に頭を預け、力を抜く。糸を通じて頭に祭文がねじ込まれていく不快感。単なる苦痛であれば景はいつまででも耐え忍べる自負があるが、精神にまとわりつくそれはわけが違う。一度目もそうだった。──あの人は、耐えて笑ってもいたというのに。
「っち、」糸を切り離そうとしたナイフの目測が誤り、景は舌打ちを落とす。関係のない箇所の皮膚を掠めてしまい、肝心の糸はぴんと張りつめたままだ。焦るな、と自分に言い聞かせる。
「ふ」
鼓動に引きずられ手元を狂わせる呼吸を一度止め、霞むせいで役に立たない視界をシャットアウト。
次にこの耳障りな声が止んだとき、チャンスが巡ってくる。それを、待つ。
──にみ う
静かにしてほしい。
──く、ふ けい
黙──、
──けい。景。
ふいに、耳慣れた単語が混ざった。自分の名前。それを呼ぶ、あの人の声。
はっと見開いた目に、姿がはっきりと映る。引き結んだ口の隙間から息が漏れたのを皮切りに、止めていた呼吸が戻る。
苦しみの中で差し伸べられた手に、景の内に湧き上がってくるのは鳥肌が立つほどのおぞましさだけだった。
「だから、効かないと言ったでしょう……」
掠れ声で吐き捨て、自らにも喝を入れる。独り言を『君月』に聞かれる可能性も、そもそも虫づたいに居場所を探知されることも頭から飛んでいた。一度目に聞いたときは謎の文言の羅列でしかなかったが、今度は懐柔でもするつもりか。
所詮は浅知恵だ。だが、
──ああ、聞こえるようになったか。よかった。ここまで一人だったろ、お疲れ様。
悪意を煮詰めたような、あの木偶人形を自ら名乗ったもどきと違い、幻像は景をただ労った。学習済みの笑顔。あくまで言葉以上のいたわりはない外付けの優しさ。
ああまで優れた頭脳をしておいて、不器用な人だから、自慢げにするときに限って一切の無理なく表情を作れるのだ。ちょうど、
──うん、さすが僕だ。作戦通りだよ、景。
こんな風に。
「寄、るな。かたるな」
景はうめいた。目の前の化け物は体を乗っ取った相手の記憶を読み取って、それに適応している。効率よく、次の獲物を取り込めるよう。
分かっているが。
幻像は続ける。
──だからあと少しだ。僕の力になりたいんだろ。
「手を取ってくれよ。 昔、僕らが『無明木犀』にいたときみたいにさ」
「きみつき、さ──」
血が通い、息をして、これ以上にない存在感をもつ本物が、うずくまる景の前に立っている。
脳に侵攻する糸によって作り上げられた、イメージでしかなかったはずの手が、実在の質感をともなって眼前に差し出されている。
白い月の光を煌々と背負うその人から放たれた名前に、景は頭を締め付ける痛みも何もかもを忘れて瞠目した。
調査の一環で、互いに名称を口にすることはある。ただしそれだけだ。
君月と景の間で、当時の話をしたことは、あの日から一度たりともない。
だから、
「……貴方がそう言わないことを、俺は誰よりも知ってしまっている」
景は寂しげに微笑むと、自身の頬にナイフを当てた。
手元が狂おうがかまわない。できる限り確実に、周囲の皮膚と皮下組織を十分に巻き込んで、奥底にまで侵入を許してしまった糸を絶ち切る。
患部はすでに熱を持っている。そのせいで引き立つ冷たさも肉が削がれる痛みも無視して景が刃を滑らせると、ふつりと何かが途切れた感覚がした。途端に掻き消えた脳内の雑音に思わず景の笑みがこぼれ、
「──やめろ!!」
その腕を、君月が掴んだ。「っ!」地べたに腰をつけた景の片腕が引っ張り上げられたかと思うと、手の中からナイフを抜き取られる。突然のことに驚く間もなく、呆気にとられる景の頬から染み出した血液が顎を伝って流れ落ちていく。
先ほどまで差し伸べられていた手のひらが、景の手首を色が変わるほど強く握りしめて離さない。もう武器は取り上げたというのに、血相を変えたその表情は間に合わなかったことを悔いるものだった。
隙間から吹き込んできた風が傷口に染みる。寒気で目が覚めた景を見下ろしていたのは、飛び散った一抹の血を頬につけ、肩で息をしながら同じく正気に戻ったように見える君月。
離してくれませんかだとか、今度は本物ですか、だとか。何を言うにも憚られる気がして、固まった口が動かせない。互いに黙って見つめ合う中、右腕を持ち上げていた君月の握力がふいに弱まった。
そのまま手の中を滑り落ちていく景の腕をただ見ているだけの君月に、景はただならぬ気配を感じ、
「もし本物の君月さんなら、あとで何でも奢りますのでご容赦ください!」
「えっ奢りだって──だぁっぶな! おい景!」
躊躇と罪悪感を心の隅に押しやって、なぜかぼうっとしていた君月に足払いをかけた。彼が頭を打たないよう細心の注意を払った結果、しりもちをついたらしい君月──否、『君月』の怒号が背中から追いかけてくる。
一度それが途切れ、復活したことで改めて理解した。集会所から長く続いたものでもはや感覚が麻痺していたが、景がいるこの辺り一帯は神域に包まれている。──今、景を追っているのはやはり偽物の何かだ。
ナイフを奪い返すのは無理だった。相手の領域内、つまり腹の中でまた逃げ回るのは得策ではないと景も分かっている。今から外を目指したところでハンデだらけのこの身でどこまでいけるものか。
ならばせめて、織代さえ破壊できれば──、
「全く、まーた逃げるんだから苦労かけさせるよね。あと少しかと思ったんだけどなあ、失敗だ」
景の足音を追う、余裕ぶった声が狩りの再開の合図。あのとき、目が合ったように思えたのはやはり一瞬だった。聴覚を頼りに狙いを定める相手に、景の考えた対処法もまた、音だ。
『────』
棚の隙間に隠したスマホから、流行りのプレイリストが最大音量で流れ出す。景自身にこういった嗜好はないものの、運転しているとたまに要望が飛んでくるためダウンロードしてあるのだ。「うるさっ!」と即座に大声で苦情が聞こえたことから、読みが当たったとみえる。
『君月』の動きを見ながら、景は二台のスマホで交互に音を出す。配置に気づかれる前にその位置を変え続ければ発生源は不明なままだ。
これで『君月』は永遠に景の位置を突き止められない。
「はー……鬱陶しいな。本当にどうしてそこまでひたむきになれる? 君の思う『君月』がこの程度でどうにかなる存在じゃあないからかい? まさか、僕を買い被りすぎだよ」
攪乱に踊らされ、さしもの『君月』もうんざりした様子。
逃げ回るうちに分かったことだが、君月がよく口の回る人物だということとは別に、相手に会話をさせることがその本来の目的なのだろう。獲物が自らの位置を知らせてくれるのであれば、それほどたやすいことはない。
だから、景は何も返さない。一台目を手に持つわずかな時間でアキたちに送るメモを打ち、点々と配置されている糸をその都度切り払いながら通路を移動し、織代を探して回る。
「その期待は強固なようでいて脆い。それが崩れたとき、君はどうするつもりだい」
──あり得ない想定をすることに、なんの意味があるというんです?
思わず笑いそうになる景だったが、頬の痛みとともにすぐに気を引き締めた。
こうしている間にも別の夜警が来るかもしれない。あれが倒した一体だけという希望は端から捨てている。景の体力の問題もあり、これは一見無限に続けられる策のようでいて、結局のところジリ貧だ。
メモを送信してから覗き込んだ棚と棚の間に、景は丸い小さな影を見た。
「……見つけた」
柄にもなく鼓動が高鳴る。すぐさま通路の真ん中に鎮座した石をどかすと、地面がぶれた。外れを引いたときにはなかった現象。ここ数分の間に嫌というほど研ぎ澄まされた勘を頼りに景が飛び退くと、元いた場所が急激に風化でもしたように崩れ落ちていく。
数秒のうちに崩落が終わると、今しがたまで地面のあった空間の底で、てらてらと光を柔らかく反射するものが見えた。
穴の中を覗き込んだ景の目が、それが何であるかを認識するとすうっと窄まり、
「生贄。……これがあの、祭りや集いで高めた信仰の食らい方ですか」
コスパいいね、と君月ならば言ってのけそうだ。趣味がいいとは言えないが。
埋められていた死体は無残にも半壊していた。酸にでも浸からせたのか、もしくはまるで、ぐつぐつと長い時間をかけて煮られたように。
感傷には浸らず、景が織代を握りしめるとそれは砂になって消えていく。同時に地響きがして、再び遺体は地に埋もれていった。それはひどく、局所的な地響きだった。
下手人がここにいると、主に知らせるかのごとく。
「──この現象は殺蛹と言うんだ。どんなに信仰をあつらえ、神域の保持のために三体も人柱をこしらえたところで、一年かければ崩れてしまう。人間はもろいね」
「どこから……っ、が」
左右を見回して声の出どころを探したが見当たらない。そのはずだ。
真後ろの蚕棚の隙間から伸びてきた両腕が、景の首を締め上げた。背後に押し付けられるかたちで引き寄せられ、後頭部を打った衝撃で桑の葉が落ちてくる。
戦力外を自他ともに認める本人のものとは思えないほどの力で、頸動脈が圧迫されていく。腕を引き剥がしたいが、指の腹で押すだけでは腕の表面を滑るだけで意味をなさない。
抵抗にもなっていない動きが面白いのか、棚越しに嘲笑う声がした。
踏みとどまろうとする足が地面を滑る。取り落としたスマホを自分で蹴り飛ばした。身をよじりながら、不足した酸素を求めて景は口を開け、
「……ここで、俺を殺そうが。は……あなたの、負けですよ」
「──。そうとも、おめでとう。何よりも先に君が織代を壊したのは正解だった。おかげで結界にほころびが生まれ、僕はあと数分もここにはいられない」
『君月』の声に苛立ちが混じるのが快い。化け物だというのに、感情的なものだ。
──さつよう、殺蛹。織代の正体を知っているということは、
「……しらせ、だな」
「正解! よく辿り着いたじゃないか。ただ惜しくも完全勝利とはいかなかったね。僕が去る前に、君が落ちるのが早いだろうから」
かろうじて景が声を発せられる程度に、即座に意識を落とさせないぐらいに喉を締めつける指の力が維持されていることに気づく。会話を好むのは、狩りのための習性ではなかったのか。
だとすれば、醜悪。棚を挟んで楽しげに景の耳元に口を寄せる化け物のサガを、そう呼ばずしてなんと言う。
「ああ、肺活量が半分になった君にとってはそりゃあ苦しいだろ。腎機能の弱さを活かして毒でもよかったんだけどね。肺に腎臓が片方ずつ、肝臓は三分の二──そうさ、弱点だらけの君の殺し方なら僕は幾万通りも考えつく」
大きく口が開閉する動きに表情筋が引きずられ、塞がりかけの頬の傷口がじくじくと痛む。
──もう一度俺が傷をつければ、彼はまた戻ってきてくれるだろうか。
そう景の頭によぎったものの、武器もなくした今では机上の空論だ。舌を噛むほどの余力もなく、口惜しく思う。
『白瀬』の腕を掴んでいた手のひらが内向きに丸まっていく。もがく指先に力がこもり、景はいつの間にか無意識下で爪を立てていた。
それに景が気付くより先、肌に食い込んだ生存本能の現れに『白瀬』がため息をつくと、
「痛いな。いいのかい、傷がつきそうだけど」
「──ぁ」
その牽制で、景ははじめて自分が何をしているのかを理解した。
躊躇いと焦りが指を押しとどめる。苦虫を嚙み潰したような表情ながら、だらりと腕を下ろし、景は一切の抵抗をやめた。
「はは、偉い偉い」
己の腕を離れた手に『白瀬』は上機嫌だ。開いた刺し傷から景の頭に糸が入り込んでくる。 耳鳴りのそばで祭文が聞こえ始めた。かわりに絶えず鳴り響いていたJPOPが薄く遠くなっていく。
「ご褒美にいいこと教えてあげよっか。この場で君を殺しはしない。少なくとも夜が明けるまでは『僕』と同じように使わせてもらう。──最後の儀式の場にも連れていってあげよう。神の反物を献上する役目を君と僕で請け負うんだ」
薄れていく意識の片隅で、『白瀬』の発言を拾う。一つも聞き漏らさないようにしてきた習慣のせい。
「そのあとは、食べるかもしれないな。君に信仰を向けさせるには苦労しそうだけど、羊のとはそういう契約だし、なにせ君は戦力にするには本当に弱い。……それでも僕の役に立とうとするんだから、健気なものだね」
混濁する認知が、そんなことを言わせて申し訳ないと景を叱咤する。違う、相手は皮を被っただけの偽物だ。
「──そんな君だから、僕はこの上なく、」
『白瀬』が何事か、囁いた。
「は」
閉ざされる寸前だった景の思考が覚醒する。途切れ途切れのうわごとしか発していなかった喉が、久々に意味のある呻きを出した。
それほどまでに、景はその言葉を、全身全霊で拒絶した。役目は果たしたのだから、あとはどうしようもないと受け入れていた終わりが今更恨めしくなった。
どう口を動かそうが、喘鳴を通り越してまともな発声にならないと知っていながら、せめてそこに込めた呪詛だけは伝われと精一杯に吐き捨て、
「ぐ、戯れ、……っごとを。この……まがい、ものが」
「──。いいね。その表情、いつか『僕』にも見せてやってよ」
後ろに回っていては顔も見えないだろうに。そもそも目が見えない化け物の分際で、何を言っているのか。
どこまでも愚弄を続ける『白瀬』が景には腹立たしく、しかし強い圧迫により気道が狭められ、抗弁の機会は永遠に封じられた。──化け物が腹いせに遊ぶだけの時間が、ようやく終わる。
「もう二度と現実じゃ会えやしないだろうけどさ」
強制的に怒りが凪いでいく。脳内で紡がれていく祭文が景の精神を侵しきるのが先か、血流の遮られた脳が電源を落とすのが先か。
どちらだろうが、『この程度でどうにかなる存在ではない』人に望みを託して目を瞑った景にとっては、どうでもいいことだった。
ぼちぼちリアルが忙しくなってきたため、不定期更新に移ります。




