第90話 終わらない食卓
三月末。桜が咲き始めている。
朝。
目が覚めると——味噌汁の匂い。
鈴音が台所に立っている。パーカーにショートパンツ。黒い髪。後ろ姿。
一年前の春と——何も変わっていない光景。
だが——全部が変わっている。
◇
味噌汁を一口飲んだ。
「……九十五点」
鈴音の手が——止まった。
「……九十五」
「ああ」
「……出世払い——」
「返してもらおうか」
あの日の約束。包丁を買ってやった日の。味噌汁が九十五点を超えたら返してもらう。
鈴音は——首を横に振った。
「……包丁は、返しません」
「え」
「……もう——みなとさんの包丁の隣に、並んでいますから。……動かしたくないです」
台所の包丁立てを見た。俺の柳刃と出刃と三徳包丁の横に、鈴音の三徳包丁が並んでいる。半年以上、その位置に立っている。
「……じゃあ別の方法で返してくれ」
「……何ですか」
「明日の朝も味噌汁を作ってくれ。明後日も。来月も」
「……それは——返済になるんですか」
「一生かかっても終わらない返済だ」
鈴音は——笑った。もう躊躇なく。唇が弧を描き、目元に皺が寄る。不器用だけど——温かい笑顔。
「……了解です。……一生——お粗末さまです」
◇
午後。
二人で荷物をまとめていた。明日から——俺の実家に行く。料亭に。鈴音と一緒に。
鈴音が鍋を洗いながら、聞いた。
「……お父さま——大将は、どんな方ですか」
「頑固で、無口で、不器用だ。俺と同じ」
「……私と——合いそうですね」
「たぶん。話が弾むかは知らないけど——二人とも黙ってるだろうな」
「……黙ったまま、味噌汁を飲んでいそうです」
「それでいいんだよ。親父は——言葉より、料理で会話する人間だから」
鈴音が——にんじんを一本手に取った。冷蔵庫から出したばかりのにんじん。
「……これ、持っていきましょうか」
「にんじん一本持って実家に帰るのか」
「……手土産に——にんじんは失礼ですか」
「普通は菓子折りだろ」
「……じゃあ——味噌汁を。お父さまに味噌汁を作っていいですか」
「……鈴音の味噌汁を?」
「……はい。……みなとさんが毎朝飲んでいる味噌汁を。……お父さまにも飲んでいただきたいです」
それは——料亭の大将に、一大学生の手作り味噌汁を出すということだ。
普通なら——怖くてできない。
だが鈴音は——もう怖がっていなかった。
「……やってくれ」
「……はい」
◇
夜。最後の夕食を——この部屋で食べた。
メニューは——うどん。
一年前の、あの夜と同じ。
分厚い丼にうどんをよそった。出汁は昆布と鰹の一番出汁。麺は乾麺。九十秒茹でる。刻みネギ。一味唐辛子。
ちゃぶ台に二杯のうどん。向かい合って座った。
「いただきます」
「……いただきます」
鈴音がうどんを一口啜った。三秒の沈黙。
「……出汁は昆布と鰹の一番出汁。配分は七対三。薄口醤油とみりんで整えています。麺の茹で加減は完璧。九十秒。ギリギリのアルデンテ——」
分析が始まった。だが——声に温度がある。分析しながら、笑っている。
「——で。美味いか」
「……美味しいです」
小指が跳ねた。左手が膝を掴んだ。
一年前——廊下でうずくまっていた女の子が。今は笑いながら、うどんを食べている。
「鈴音」
「……はい」
「一年前のこと、覚えてるか」
「……忘れるわけが、ありません」
「あの時——『今日のごはん、分けてくれませんか』って言ったな」
「……はい。……それしか、言えませんでした」
「今は?」
「……今は」
鈴音は——うどんの丼を両手で包んだ。湯気が顔にかかる。前髪が揺れる。
「……今日のごはんも、明日のごはんも——ずっと。……みなとさんと一緒に、食べたいです」
「了解」
「……お粗末さまです」
「それ——結局お前の持ちギャグになったな」
「……ギャグではないです」
うどんを食べ終わった。丼を洗った。台所を片づけた。
ベッドと布団の距離は——もう五十センチもなかった。いつの間にか近づいていた。
電気を消す。暗闇。互いの呼吸。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
六畳間の天井を見ている。暗い天井。
明日——実家に向かう。鈴音を連れて。
その先に何があるかは、わからない。料亭に戻るのか。別の道を歩くのか。
でも——一つだけ確かなことがある。
この食卓は、終わらない。
明日も味噌汁の匂いで目が覚める。明後日も。来月も。来年も。
どんな場所にいても。どんな未来が来ても。
俺が作って、鈴音が食べる。鈴音が作って、俺が食べる。
それだけの——ただそれだけのことが。
全部だった。
——おやすみ。また、明日。
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【完結のご挨拶と、お知らせ】
『超毒舌グルメVTuberは俺の飯だけ星一千万』、本日をもって完結いたしました。
2か月間、湊と鈴音の食卓を見守ってくださり、本当にありがとうございました。
いただいた星や感想、フォロー、コメント欄や近況ノート(活動報告)でのお声のひとつひとつが、
この物語を九十話まで書き続けるための力になっていました。
ここには書ききれない感謝を、心からお伝えしたいと思います。
――最後にひとつ、お知らせをさせてください。
7月23日より、3作品目となる完全新作の連載を開始しております。
現在も毎日1話ずつ、更新を続けています。
『三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜』
あーん・密着・耳打ちの三方向包囲!
三年間ずっと文字だけで愛を育んだ"ネトゲ嫁"が、三つ子になって転校してきた。
しかも三人とも「私が本物」と言って譲らない──全員本気の、正妻戦争。
前作の『湊と鈴音の甘く温かい距離感』を楽しんでくださった皆様なら、きっと今作の『ネットと現実が交錯する三姉妹からの甘く賑やかなアピール』も、心地よく楽しんでいただける要素をぎゅっと詰め込んでいます。
前作とは少しテイストは変わりますが、もしお気に召しましたら、新しい物語のほうも覗いていただけますと嬉しいです。
▼新作はこちらから読めます。
https://ncode.syosetu.com/n3428mm/
改めまして、湊と鈴音の物語を最後まで見守っていただき、本当にありがとうございました。
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