第49話 夏休み前夜——二人の秘密の確認
七月末。講義も試験も終わり、夏休みが始まろうとしていた。
この三ヶ月で何が変わったのか——振り返ると、ほとんど全てが変わっていた。
鈴音は毎朝味噌汁を持ってくる。今日で二十杯目。点数は八十八点まで上がった。なめこに加えて、油揚げや三つ葉のバリエーションも増えた。彼女の舌は、食べることだけでなく作ることにも応用され始めている。
買い出しでは鈴音の鑑定が完全復活し、むしろ以前より的確になった。「食べるだけ」の舌に「作る側」の知識が加わったことで、食材の選び方に厚みが出ている。
壁越しの出汁指導は続いている。毎晩十分くらい。味噌汁以外にも、おひたしの地浸しの味加減や、卵焼きの塩梅について質問が飛んでくる。
そして——湊の料理は鈴音が食べ、鈴音の料理は湊が食べる。その循環が、当たり前のものとして定着した。
◇
夏休み前夜。七月三十日。
夕食のあと、洗い物を終えて、ベランダに出た。二人で。
夏の夜風が蒸し暑い。隣のベランダとの仕切り板が低くて、二人で並ぶと同じ空を見上げていることになる。
星は——ほとんど見えない。都会の空。オレンジ色の街灯と、遠くのビルの明かりが空を塗りつぶしている。
「……みなとさん」
「ん」
「……夏休み、どうしますか」
「特に予定はない。バイトでも探そうかと思ってるけど」
「……実家には、帰らないんですか」
——実家。
柚葉のLINEが蘇った。親父の体調。料亭の人手不足。
「……帰らない」
「……そう、ですか」
沈黙。
「……私も、帰りません」
「鈴音の実家は——」
「……遠いです。……心の距離が」
それ以上は聞かなかった。鈴音の家庭事情については、断片的にしか知らない。令嬢だということ。「食べさせられてきた」という言い方。家を出ている理由は——俺と似ているのかもしれない。
互いに逃げてきた人間。互いの過去を詮索しない暗黙のルール。それが——最初からこの関係を守ってきたものだ。
だが——柚葉の件で、俺の過去は暴かれた。バランスが崩れている。
「……鈴音」
「……はい」
「俺の秘密はもう知っているだろ。料亭の跡取りで、逃げてきたこと」
「……はい」
「お前にも——俺に言いたくないことがあるんだろ」
沈黙。長い沈黙。
「……はい」
「無理に聞かない。ただ——」
「……ただ?」
「いつか言いたくなったら、聞く。それだけ」
夜風が吹いた。鈴音の髪が揺れた。仕切り板越しに、シャンプーの匂いが届いた。同じ匂い。
「……みなとさんも」
「ん」
「……いつか。……料亭のこと、全部話してくれますか。……逃げた理由を」
「……ああ」
「……約束、です」
「約束だ」
互いの秘密を、いつか交換する約束。
今じゃなくていい。来月でも、来年でもいい。
ただ——その約束がある限り、この関係は繋がっている。
「……みなとさん」
「ん」
「……夏休みの間も、ご飯、作ってくれますか」
「当たり前だろ」
「……味噌汁、持っていきますから」
「楽しみにしてる」
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
ベランダのドアが閉まった。鈴音が自分の部屋に戻っていく。
空を見上げた。星は見えない。でも——そこにあることは知っている。
雲の向こうに。見えなくても。




