小松茉莉花:All in the golden afternoon.
上手く晴れてくれたな。
毎年六月の第一金・土曜日にある、紫苑学院の学園祭は、中高合同だ。
その二日間授業は休みで、校舎が解放され、中学生の劇、高校生のバンド、クラス毎の屋台や喫茶店、研究発表展示などが催される。
俺にとっては、今年で五回目の学園祭になるわけだが、毎年この時期は、梅雨入りするかしないかの境目で、過去、俺の参加していた四回とも、二日間中、一日は雨が降って、かなり酷い目に遭った。
濡れ鼠になってテント片付けをする羽目になったり、雨水で濡れた廊下の掃除係になったら、その雨水に滑った先輩とぶつかって、勢い良く廊下でこけて肘を擦り剥いたり。
一日目の今日は、本当に運良く晴れてくれた。
今年は屋台の設置と展示の説明担当なので、当日は、そんなに大変でもないから、当番さえ終われば、ゆっくり学園祭を見て回れる。
午前中は、うちのクラスの展示の説明当番だったので、暇といえば暇だった。
土曜ならともかく、平日である金曜日に、そう一般客が多いはずもなく、疎らにやってくるお年寄りや保護者会、それも主に主婦の方々に、四日間で作ったにしては上出来な、『マルティン・ルター ~宗教革命~』の、グラフや資料写真等の展示物の説明をしていた。
うちの学校は、こういった行事の準備期間がかなり短い。
一週間与えられれば良いくらいのもので、大抵、思い出したように、六月の始まるギリギリ、酷い時は六月に入ってから始まるのだった。
宗教関係の行事は外さないし、一応進学校であるから、学業に支障を来たさない程度に他の行事を行なうとなると、結局このように、ギリギリの準備期間で、しかも、それなりに『校名に恥じない出来』のものが求められる。
こういった状況に危険を感じ、舞台関係者等は、結構五月の初めから動いているのだが、展示関係者のほとんどは、そのようなやる気を持ち合わせていない。
適当に挙げられた、『僕らの学校の先生』特集やら、『学校周辺の企業』等の意見は、四日間では間に合わないという意見が出たため、必修の、キリスト教学で偶然習っていた箇所から取ろうという話になった。
確かに、プロテスタントの学校で、マルティン・ルターの資料を探そうと思ったら、もう、出るわ出るわ、図書室に一歩足を踏み入れただけで、面白いぐらい本があるし、しかも、物凄く許可が下りやすかった。特に、宗教担当教諭は、かなり喜んで資料集め等に協力してくれて、適当にテーマを決めた、こちらの良心が痛む程だった。
しかし、学校関係者受けが如何に良かろうとも、一般客受けするかと言われると、難しいところだ。
まず、来訪者に、カトリックとプロテスタントの違いの説明から入る。
大抵の客は、神父と牧師を混同しており、この学校にはシスターはいるのかと尋ねてくる。
次に、マリア像は何処かと尋ねてくる。
来訪者の質問は、悉く、カトリックのイメージの方が、キリスト教のイメージとしては一般的なのだ、ということを実感させてくれる。
仕方がない。実際、教会の数としても、日本ではカトリックの方が多いようだし。
説明し終わると、宗派の違いが、よく分かっただの、学校の宗派の由来を、ここまで調べるのは偉いだのと、通り一遍の謝辞を述べられ、大して長居することもなく、それらの客は帰っていく。
その辺りは、説明すると非常に長いので、二つの宗派の違いを掻い摘んで言うと、神父やシスター、マリア像は、カトリックの宗派の学校のものだ。
うちの学校には、外国人の女性宣教師はいても、シスターはいない。
そして、よくある『十字を切る』というあの動作。神父は十字を切るが、牧師は切らない。
また、神父やシスターは結婚出来ないが、牧師は結婚出来る。
プロテスタントでは、偶像崇拝を禁じている。
カトリックのように、聖母マリアを強く崇拝する姿勢も無い。それ故、イエスの磔刑像や、青と白の衣装のマリア像等は普通置いていない。
建物の内装も大抵、質素というか、素朴な雰囲気で、カトリックのような華やかさはなく、十字架が飾られるようなことがあっても、それは、とてもシンプルな形をしている。
プロテスタントには、洗礼名も無い。
極端に言うと、礼拝の方法や賛美歌も、カトリックとプロテスタントとでは違う。
同じメロディーでも、賛美歌の歌詞が違ったりするのだ。
最も、キリスト教の宗派は、数え上げたらキリがないくらいあるので、二つの宗派の違いだけを説明するのも気が引けるのだが。
そう言えば、優将と初めて話をした時も、大体そんな内容の会話だった気がする。
「この学校って、シスターいねぇのな」
「プロテスタントだからな。女性宣教師はいるけど」
「そっかぁ。背徳的で良いと思ったんだけど」
…シスターに、一体背徳的な何をするつもりだったのか。
「…もっと背徳的で良ければ、牧師先生がいらっしゃるぞ」
「んー。そっちの趣味は無いな」
「…牧師先生にも、そっちの趣味は無いだろうから、安心していいだろう」
一応、全部聞くだけ聞いて、そう言った。
そこに居た慧が、明るく、「ゆーま、相変わらずー。昔一緒に教会行ったことあるじゃない」と言って、腹を抱えて笑った。
この話題が大笑いで終わることにカルチャーショックを受けたのが、今となっては懐かしくもある。
今考えてみても、優将が、あれ以降、どうして懇意にしてくれようと思ったのかも分からないし、慧が、どういうメンタリティで、あの、美形の幼なじみと一緒にいるのかも分からない。
大して忙しくもない代わりに、微妙に客足が途絶えなくて、休憩に入れずにいたら、当番を交代した頃には、時計の針が午後三時を過ぎようとしていた。
出掛けにパンと牛乳買ってきておいて良かった。
展示物の背後で、五分くらいで口に押し込んだ。
模擬店の食べ物で足りなかった時の間食にしよう、というくらいの心積もりで買ったから、そんなに量もなかったのだが。十一時半頃には既に胃が空腹を訴えていたから、こんな時間まで何も食べないでいるのは、本当に苦痛だった。
午前中だけの約束だったのに、交代するはずの奴が、なかなか来ないと思ったら、どうも学園祭自体をサボっていたらしい。
まぁ、辻原じゃなぁ…。
来てくれていたところで、上手く来客に説明が出来たとも、正直思えないし。
そのいい加減さに、腹が立つというよりも呆れながら、同じ展示の午後相当だった絆が、遅めの昼食に俺を誘いに来たのと一緒に、慧と優将を探しに、教室を出た。
チラホラと、他校の制服の生徒の姿が増えだした。そう言えば、今日は本当なら金曜日だ。制服の生徒が、そろそろ下校で増え始める時間帯ではあった。
「慧達、どこだろねぇ」
粗方、校内を一回りした頃、間延びした口調で、絆がそう言った。
確かに、そろそろ校門だ。このままでは学校を出てしまう。
「ゆーまに、ポテト二人分頼んでたのになぁ」
俺より小柄な絆の、生れ付き色素の少し薄い、細い髪が、不満の動作と連動して、視界の右端で揺れている。
「ああ、あいつ等、模擬店担当だっけ」
食べ物のことを考えると、ちょっと胃が鳴りそうだった。イベント事には御誂え向きの晴天の空の下に、男二人で空腹を抱えて、こうして佇んでいるくらいだったら、辻原宜しくサボって、学園祭を抜け出した方が健全な気までしてきた。
「あ、二人共。展示の方、どうだった?」
そのまま立ち尽くして、頭の中で、学校最寄のコンビニまでの距離を時間に換算していると、私服のTシャツに制服のズボン、といった、学園祭ではよく見掛ける組み合わせの服装の生徒が、こちらに声を掛けた。
優将が『美形』だとしたら、こちらは正統派の『イケメン』である。
豪く長身で、角材を二、三本担いでいる。
「あ、水戸っち」
今年から、同じクラスに編入してきた、水戸大空だった。いつもの銀縁眼鏡を、今日は外している。
直線的な顔のパーツが引き立つ。横に広いキャットアイ気味の一重の目は、いかにもアジア系のイケメン、という感じで、海外でも受けそうである。
「辻原の奴、サボりやがった。お蔭で、午前中だけのはずだったのに、さっきまで説明担当抜けられなくてな」
俺のボヤキに、「辻原じゃねぇ」と言って、水戸は苦笑した。
「あれ、心言は?」
「みこちんは風邪で休み」
そう、気の毒な心言は、四日間、展示の準備で根を詰め過ぎて、昨日の夕方辺りから発熱してしまっていたのだ。
「うわー、心言、一番頑張ってたのに。気の毒ー」
水戸は、そう言って、気の毒そうに眉をしかめた。
水戸は、家が石油関係の仕事をしている転勤族で、フランスやイギリス、アメリカのジョージア州に何年かいた後、今年、一人だけこっちに帰ってきて、一人暮らしをしているらしい。
あっちの学校と年次が合わなくて、正確には一つ上だが、気さくな奴で、まだ編入して二ヶ月足らずだが、わりとクラスに溶け込んでいる。
日本語堪能だと俺は思うのだが、本人曰く、苦手な単語もあるらしく、英語で単語の説明をしたら懐かれたらしい。俺達のグループのことは、下の名前で呼んでくるようになった。
「あー、今さっきまで説明担当だったってことは、昼飯まだ?」
「まだ」
沈んだ顔を見せる絆と、虚ろな目をしている俺は、同時にそう言った。
「食券買わない?」
水戸は、角材を担いでいない方の手で、制服のズボンのポケットから、高校の保護者会が出している、赤い『唐揚げ』の食券と、中三のどこかのクラスが出している、黄色い『フランクフルト』の食券を差し出した。
「買う」
俺は、迷わず即答した。
絆が、顔を輝かせて言った。
「これ、どーしたの?もう売り切れてると思ったのに」
「前売り買ってたんだけど、忙しくてさ。品物取りに行けなくて。そしたら何か、先生が労働報酬に、人数分弁当買ってきてくれたもんで、結局食べてなくて。買ってくれるなら、助かるんだけど」
「へー。良かったね、たからー」
水戸は、絵が上手い。
何かの展示の会に早々に入って、時々、どこかで展示をやっているらしい。背も高いし、結構器用なので、体格と能力を買われて、舞台の大道具手伝いに指名されたのだった。
「舞台の裏方も御疲れさん。いくらだ?」
「あ、えっとね」
水戸が金額を答えかけた瞬間、俄かに、校門付近が騒がしくなった。
擦れ違っていく生徒が、口々に、「うぉー、可愛ー!」「常緑だよ常緑!」などと言っていた。
ん?常緑…?
「え?どうしたんだろ?」
キョトンとする絆に、更にキョトンとした様子で、水戸が尋ねる。
「ね、ジョーリョクって何?」
絆が、「あ、あのね、常緑っていう名前の女子高」と説明した。
俺は、つい最近、その校名を、何処かで聞かなかっただろうか。
「何、女子高の子が来てるの?」
水戸が、ちょっと嬉しそうな声で、そう言った。
「そうなんじゃない?常緑、制服可愛いんだよー」
「へー」
興味深げに、水戸が、校門の方を見ようとした。
俺達も、つられて同じ方向を見た。ちょっとした人垣が出来ている。
…何か恥ずかしい。
いくら女の子が珍しいからって、そこまでして、学園祭見物に来た一般客を見物し返しに行かなくとも。
それとも、男子校という、ある種の閉鎖空間においては、そこまでしてこそ同世代の女の子の有り難みが分かる、というものなのだろうか。
「んー、あそこに行く勇気は無いなぁ」
勇気というより、やる気の無さそうな声で、絆はそう言った。
「いやー、芸能人でも来てんの?って感じだね」
苦笑しつつ、溜息をついて、水戸が、肩から角材を下ろした。
編入したての方に、男子校の現実をお見せしてしまい、お恥ずかしい限りである。
これだけイケメンなら、何処にいようが、女の子に不自由しそうなイメージは無いが。尤も、彼女がいるかいないか、といった、踏み込んだ話をする程の仲にはなり切れていない気がするので、尋ねたこともないので、真相は分からない。
俺が気を取り直して、財布を取り出そうとしていると、いきなり、校門前の人垣が、こちらの方に迫ってきた。
「えっ、え?何?!」
「んー?!」
「うおっ?!」
一瞬、俺達三人は慄いた。
人垣が、パックリと二つに割れた。
人垣の先には、優将がいた。
そして、その後には、常緑学院の制服を着た、華奢な人影と、慧の姿があった。
「あ、高良。ちょうど良かった」
見付けた、という感じでそう言いながら、優将が、こちらに近付いてきた。人垣を構成する人数分の視線が、一斉に突き刺さってくる。
モーゼもびっくりだよ。大した存在感だな、お前等。
「高良、これが、前言ってた幼なじみ。コマツマリカ」
「…どうも、降旗高良です」
「…どうも」
あー。成る程。
優将の幼なじみ、って感じだ。
慧の仲の良い幼なじみと言われてもピンとこないが、優将なら何だか分かる。
何だか似ているのだ。
顔立ち云々より、目付きと、纏う空気が似ている。
長い時間、同じ空間で同じ空気を吸ってきたことを、何故か感じさせる。
幼馴染というよりは、血縁か『同族』という印象だ。
香気を放つような、どこか鮮烈な存在感を感じる。
俗っぽさと知性、洞察力の同居したような目。そこに、見え隠れする、照れたような気遣い。
矛盾が平気で内在しているような雰囲気こそが、まさに優将とそっくりだ。
だが、外見だけ見たら、これぞ、男子高校生が『こうあってほしいと望んでいる常緑生』だった。
身長自体は平均的だが、スラリとしていて、膝下が長い脚。つるりとした唇には、ほとんど縦皺が無い。濃い睫毛が縁取る、黒目がちの、少し色素の薄い茶色い目、それに反して、漆黒の髪。その髪が引き立てる白い肌。制服の半袖からのぞく腕は、何とも言えず、華奢だった。
顔立ちは、人形っぽいのに、童顔ではない、という、絶妙な整い方をしていて、可愛いには違いないが、整った造作の人間だというより、妙な吸引力がある人間、という印象だった。
突如、背後で、ガラガラガラッ!と、凄い音がした。
振り返ると、水戸が、角材を倒してしまっていた。視線は一直線に『コマツマリカ』に向かっている。
お?“love at first sight”?
偶然、昨夜覚えた英語小論文用熟語が出てきてしまったがために、関連して、脳内に“shotgun marriage”やら “a fatherless family”の熟語、“He fell in love with her at first sight.”の例文等が駆け巡った。
しかし、その表情は、恋に落ちたというよりは―――『幽霊』でも見たかのように蒼白だった。
それとも、こういう時は頬を紅潮させるべき、という認識自体が俺の偏見なのだろうか。
俺は、絆と慧と一緒に、角材を拾うのを手伝った後、水戸から食券を買い取った。それから、水戸は、ほとんど上の空で、絆に続いて、コマツマリカに向かって自己紹介をすると、角材を持って何処かへ行ってしまった。
目の端で、何かが、カサリと動いた。
見たことがあるような、ないような、不思議な物を見た『感じ』がした。
気のせいかと思って、それで、その時は忘れた。
それから、取り敢えず、俺と絆と慧と優将と、その幼馴染との五人で、学園祭を回ることになった。
何故そういう話になったのかは、俺には良く分からないのだが、確かに、あの騒ぎの後で、女の子を一人だけ置いて学園祭を楽しむのは、良くない気がした。
食券を食べ物に換えて、校内の模擬の喫茶店に入ると、他校の女子生徒も何人かいて、見物人の視線は大分減った。
喫茶店席に着いて、優将からフライドポテトを受け取って、全員分、飲み物だけ注文すると、やっと人心地ついた。
しかし、女の子って凄い。
いつものメンバーで、心言の代わりに、一人女の子がいるだけで、何だか全然違った。それがまた、いつもと内装の違う教室とかいった、祭の持つ非日常性とマッチしていて、何だか緊張してきた。
取り敢えず、唐揚げを食べた。揚げたてではないだろうが、保温機のお蔭か、唐揚げはまだ温かかった。
「ゆーま、まりかにもポテトあげた?」
「あ、私貰った」
「そう」
毎回、よくそんなに良いタイミングで会話に入れるな、と感心するのだが、その日も絆は、幼馴染三人の会話に、自然に割って入った。
「あ、ねぇ、名前、どんな字書くのー?」
「コマツは小さい松で、小松。草かんむりに末で茉、草かんむりに利益の利で莉、に、花。で、茉莉花」
「そうそう、茉莉花茶の茉莉花。ジャスミンって花の、中国語の名前なんだよねー」
「へー。茉莉花ちゃんって呼んでいー?」
いつも通りの、ぽわっとした慧の話し方と、絆の間延びした声に、俺の緊張は粉砕された。
思わず仰け反りそうになる。
まぁ、慧と絆のコンビが揃ったら、緊張感を持続させようという方が難しいのだが。
初対面の女の子を下の名前で、ちゃん付けで呼べるのは、凄いと思う。
「うん、いいよ。えっと」
「日富絆。お日様の日に、富士山の富で日富。絆は、人と人との結びつきとかいう意味で付けられたみたい」
「そうそう、ヒトミちゃんね」
俺は、飲もうとしていた紅茶を、思わず吹き出しそうになった。
それは確かに、今でも、しばしば使われることのある、絆の女顔と組み合わされた、小学校の頃からの絶妙なあだ名だった。
しかし、初対面でそれは如何なものか。
「あはは!ヒトミ君じゃなくて?」
当の本人はゲラゲラ笑っている。おいおい。
「茉莉花ちゃんと、ヒトミちゃん、でしょ?」
きょとん、として、小松茉莉花はそう言った。よく分からないが、どうも、あだ名という感覚よりも、彼女なりの論理があるようだった。
「OK~。ヒトミちゃんで良いよ~」
絆の、この打ち解け方の速さは、相変わらず賞賛に値する。
そんな中、優将は、マイペースにフライドポテトを食べていた。
「ね、ゆーま、高良に何か話があったんじゃないの?ちょうど良かったとか言ってたじゃない?」
皆が一通り飲み食いを終えた頃、慧がタイミング良くそう言った。
そう言えば、あの時そんなことを言いながら、こちらに向かって来てたな。宛らモーゼのように。…思い出すだに驚愕だ。
優将は、「あー、忘れてた」と言って、大きく頷いた。
イスラエルの民とエジプト兵は、割れた海に慄いても、モーゼ自身にとっては大したことではなかったらしい。
…この例えをこいつに使うのは止めよう。そこまで言ってしまったら、十戒も冗談に思えてきそうだ。
「そも、ベクトルとは何ぞや、と」
はぁ?
「ああ、…そう言えば、私、優将とベクトルの話したっけ」
優将と茉莉花は、難なく会話を成立させていた。
凄いな。
「思いつく中で、一番頭が良さそうな奴に聞いてみた」
優将は、そう言って、俺を指差した。
え?
あー、あれ、そういう意味だったのか。
俺の中では高知能の疑いを掛けている人物にそう言われるとは思わなかった。
茉莉花の視線が、俺を捕らえた。
「…それで?」
「それで」
「ベクトルとは?」
「ベクトルとは」
「つまり…」
…よく分からなかったのだ。俺は、問いを鸚鵡返しした挙げ句、言葉に詰まった。
すると、優将はいきなり、「必要十分条件じゃないんだ」と言った。
そんな説明で分かるのか?
「つまり、よく分かんなかったってこと?」
…とてもよく分かってくれたようだ。ベクトルに対する疑問といい、頭の回転の速さといい、この、茉莉花という子も、相当頭が良い、と、俺は思った。
「参考書には、一応一通り説明はあったんだ」
俺が一通り、定義等を考察した経緯を言うと、茉莉花は、瞬きを一つして、言った。
「んー。そっか。ありがとね。ま、参考書なんだから、参考までにしておけばいいんじゃない?そんだけ分かったなら偉いと思う。大体、『わかりやすい』とか『おもしろ』とかタイトルに入ってる参考書が、実際そうだった試しが無いしね」
相手は、サラリと参考書の著者に喧嘩を売るような発言をしてから、肩をすくめた。
成る程。
『参考までに』
…思いもよらなかった返事だった。
あれは『参考書』であって、『真理の書』ではないのだ。それなのに、なぜか『正解』が書いてあるような気がしてしまうのが、思考の落とし穴なのだろう。
「観念、ってことかな」
愛らしい声が、難しい熟語を唱えたので、俺はまた鸚鵡返ししてしまった。
「観念?」
「そ、ベクトルっていう、よく分かんない、何か、あるんだか、ないんだか、多分実体はないんだけど、ある人にはある、みたいな、何かがあるんでしょ。妖怪とか、幽霊みたいな」
「妖怪とか、幽霊…」
そう言えば、この人間を見て、幽霊でも見たような顔をしてた奴がいたような。
しかし相手の、「よく分からない物だって存在してもいいんじゃない」という、続く言葉に、俺は感心した。
「そうだな…。そうかも」
すると再び、何かが、目の端で、カサリ、と動いた気がした。
…目が更に悪くなったかな?
それにしても、日常会話で『観念』とかいう単語を持ち出されるとは思わなかった。
やっぱり、個性的で、相当頭が良い子、という気がした。
面白い子だな、と。