柴野優将:Can you answer useful questions?
「私の慧」
なんて良い響きなんだろう。
現実とは全く違うのに、この言葉を思い浮べる時の私の気持ちには、嘘や偽りや矛盾が微塵も存在しない。
決して口には出さない言葉だし、この『慧』は、現実に存在する中澤慧とは厳密には違うんだとも思う。
この『慧』は、私の欲しいものを全部象徴しているんだとも思う。
でも、『私の慧』。
人間に所有格を使うだなんて、相手にも迷惑だろうと思うけど、でも。
私の気持ちを表現するのに、これ以外の言葉が出てこない。
恋愛感情とは少しズレてるのかもしれないけど。
それでも。
なんて暖かい響きなんだろう。それだけで、優しい気持ちになる。
決して言ったらダメだ。こんな言葉は。
私の中の一番暖かいとこに、閉じ込めておかなくちゃ。
誰かに知られて、馬鹿にされたり、否定されたりしたら、きっと、立ち直れないくらい傷付くから。
それに、私が『所有』できるのは、この言葉だけなんだ。
『私の慧』。
私、『慧』になりたいのかもしれない。
「茉莉花」
バスタブにお湯を張ってると、風呂場の入り口に、幼なじみの柴野優将が来た。
「リビングに何かあったけど」
「ああ、いいの。放っといて」
両親のうちのどっちかが、夜に帰ってきたらしくて、朝起きたらソファーの上に紙袋があった。多分、お母さん。
多分、中には、お母さんの服が入ってる。
「気が向いたらクリーニングに出して」って意味。だから、そうしておけば良い。
今日出そうかと思ったけど、珍しく、学校に持っていく荷物が多かったから、面倒で止めたんだった。
…その日のうちに中を確認して、クリーニングに持っていってた頃もあったんだけど。
「ソファーに座る時、邪魔だったら、足元にでも置いといて」
「そ?」
優将は上着を脱いだ。
大分暖かくなってきたのに、珍しく学ラン着てるな、と思った。
そろそろ五月も終わり。
髪なんて、カプチーノみたいな色にしてるくせに、妙に制服の似合う奴だな、と思う。
その髪色にしようとしてなったのか、脱色したところを先生に掴まって黒染めにしたのが落ちてきたのかは不明だけど、似合ってはいる。
その、私立の進学校の制服を適当に脱いで、タオルを適当に結んで、優将は風呂場に入ってきた。
「溜まったら入浴剤入れといて」
「あー、あれか。買ったんだ、新しいやつ」
「んー」
適当に返事をして、私は風呂場から出た。
優将は入浴剤の効能を熟読してる。
肩凝りでもあるの?あんた。
小松茉莉花ちゃん。可愛い名前ねー。
お隣なのよ、よろしくね。
こっちが慧よ。慧ちゃん、ほら、こんにちはしなさい。
こっちが柴野優将君。ゆーま君、こんにちはーって。
ゆーま君ちは、まりかちゃんちのお向いね。お向いってわかる?
仲良くしてね。
あのね、まりかちゃん。ゆーまおおきいんだよ。
けーちゃんのがおっきいよ。
ゆーまのほうがたいじゅうがおもいんだよ。だからおおきいの。
あたしのほうがおおきいもん。
くらべっこね。くらべっこ。
ならんで。ならんで。まっすぐ。いちれつに。
私がお風呂から上がると、優将は、いつの間にか私服に着替えて、テレビを見ながら、冷蔵庫に入れておいたジュースを勝手に出して飲んでた。
髪を乾かし終わってから、私は、ソファーに寝そべっている優将に歩み寄り、人差し指で数回頭を突いた。
「慧んち、行く?」
「まぁ、一週間ぶりくらいじゃない?上がって上がって」
お向かいの中澤さん宅には、私達と幼なじみの慧がいる。
慧は、優将と同じ男子校に通ってる。
慧は昔から成績が良かったけど、優将は、得意教科と不得意教科の差が結構激しい方で、一体どんな奇跡偶然が重なって同じ高校に行けたんだか、よく分からない。なかなかのレベルの私立の進学校だ。実際の学生生活は、大したことないらしいけど、二人して同じ高校に仲良く入学してしまった。
私は、そこの男子校と創立者が同じで、同系列の、私立のお嬢様学校。
偏差値は十以上違うかも…。
両方ともミッション系だ。
学校の場所も一駅違うだけなんだけど、ちょっと離れてるし、こうして家を訪ねでもしなければ、なかなか会えなくなった。
出迎えてくれるのは、慧のお母さんの里歌さん。
里歌さん大好き。
里歌さんは、相変わらず見た目が若い。昔から、髪を長く伸ばしてて、フワッと緩いウェーブがかかってて、それが、とっても優しそうな印象で、似合ってる。
私、小松茉莉花の家庭は、この土地に、父が念願のマイホームを建てた辺りから崩壊しはじめた。
私が四歳の時に、ここに来たから、十六歳の今、その崩壊っぷりたるや、なかなかのものだ。
私が中学に上がったくらいから、特に酷い。
広告代理店勤めの両親は、滅多に家に帰ってこない。
帰ってくるのは、月に数回。汚れ物を置いたり、服を取りに来たりするぐらい。
それも、ほぼ、お母さんだけ。
お父さんは、どうしてるか、本当に知らない。
取り繕うのだけは上手いから、お母さんは、三者面談なんかは来てくれるけどね。
両親不在の理由は一応、『仕事』らしいし、生活費は貰ってる。
離婚する気配は無い。
職場結婚だったらしいから、いろんな、人間関係の兼ね合いがあるのかも。
だって、離婚しようにも、会ってないだろうしね、お互い。
話し合いもゼロなんだと思う。
家庭とか、よく分からないし、正直もう、どうでもいいけど、多分、四歳くらいまでの、あの安定した感じは、少なくとも崩壊したんだと思う。
この、私の家の隣に住んでる柴野優将の家も、似たようなもんだ。
仮面夫婦ってやつで、優将が成人したら別れる約束らしい。優将の家も、ほとんど親が帰ってこない。お父さんは、外科医だか何だかをやってた気がする。お母さんは、凄い綺麗だけど、お店のオーナーだから、ほとんど、そっちで生活してるんだって。
優将が小学校に上がる頃来たお手伝いさん達は、優将の嫌がらせに耐えられなかったとかで、立て続けに辞めちゃって、それ以来雇われてない。
こんな私達を面倒見てくれたのが、意外にも、この里歌さんだった。中学の頃までは。
週何回かは、この家でご飯を食べさせてもらって、他にも、休みの日にはプールやキャンプに、あちこち連れていってもらった。
要は、親よりも親らしく面倒見てくれた人だ。
干渉し過ぎず、お願いすれば、料理なんかを教えてくれた。
色々な雑学を教えてくれたのも、里歌さんだった。
里歌さんが大好き。
妙な家庭に育ってはいても、きちんと学校にも行ってるのは、この人の存在が大きいんだと思う。
里歌さんは、結構熱心な方のキリスト教信者だ。
教会に何回かついていったこともある。
私の通う女子校、常緑学院も、慧達の通う紫苑学院も、プロテスタント系ミッションスクール学校だ。
どっちも、里歌さんのお薦め高校だった。
「あ、まりか。ゆーま」
里歌さんによく似た、穏やかな少年に育った慧は、相変わらず、照れもせず、嫌がりもせず、私達を迎えてくれる。
何故か、成長の過程で疎遠になることもなく、兄弟のように付き合っているのが、私達三人だ。
「ね、ご飯、食べていくでしょ?今日はビーフシチューなのよ」
料理好きの里歌さんは、作ったものを人に食べてもらうのが大好きだと公言してる。
いつものように「はい」と返事をしてリビングに向うと、慧のお父さんがいた。
「あ、中澤さん。お久しぶりです」
「お、茉莉花ちゃんかー。優将も久しぶりだな。何だ、茉莉花ちゃん、高校生らしくなってきたねー」
「お父さん、何か親爺臭い」
「そりゃ、親爺だからなー。お?慧、お前、優将に背越されてるじゃないかね」
見事なバーコード頭に、黒縁眼鏡。ちょっとびっくりするくらい出てるお腹は丸々としていて、中澤さんは、ホタホタ笑ってる。
ぼんやりした顔立ちで、狸の置物そっくりで、全然怖くない。
中澤さんも大好き。
中澤さんは、ほとんど毎日お家に帰ってくる。遅くなる時は連絡を入れる。里歌さんが、お刺身を腐らせたり、料理を余らせたりするのを嫌がるのを、ちゃんと知ってるからだ。
中澤さんは時々ご飯を作る。土曜の昼ご飯とかだ。結構美味しい。
中澤さんは、食べるのが好きだから、自分が食べて美味しいものを作るし、里歌さんの料理も、ほとんど完食だ。
だからこんなお腹なんだ、なんて、本人は笑ってるけど、全然構わない。
中澤さんも大好き。
食事をしながら、他愛もない話をする。
今日の中澤さんのお土産話は、会社の冷水機の話題だった。
冗談かもしれないけど、お腹がつかえて上手く飲めなくて、毎回、ちょっと顔やお腹に水がかかっちゃうんだって。
そうやって、笑いながら夕飯を食べて、片付けを手伝ったら、ちょっと一緒にテレビなんかを見させてもらって、八時には優将と帰る。
これが、いつものパターン。
いいなぁ。
私、ここが大好き。
―――私んちも、こうなら良かったのに。
何で、ここ、私んちじゃないんだろ。
私、ここに生まれてきたかった。
皿を下げて、慧と優将と三人で、里歌さんの片付けを手伝っていると、よく中澤さんは言う。
「本当、茉莉花ちゃん、うちにお嫁に来たらいいのに」
望むところだ。
本当にね、小学生の頃、初めてこれを言われた時は、目から鱗が落ちたわよ。
『ああ、その手があったのか』って。
私は、「あはは」と笑いながら、いつものように、その話題を流して、里歌さんが「お父さんたら」と笑う。
慧は「またー」と、間延びした声で文句を言う。
優将は黙々と皿を片付ける。
知らないでしょうね。私がどんなにそれを願っているか。狙っているのよ。かれこれ十年近く、虎視眈々とね。
料理も真面目に習ってるし、あの家に一人でいても、家事はこなしてる。夜遊びだってほとんどしないし、学校だって、ちゃんと行ってる。
ねぇ、入れてよ、この『家』に。
私、慧が好き。
慧のお嫁さんになったら、全て。私の欲しいものが手に入る気がしてしまう。
変だよね、こんなの。本当の『好き』なんじゃない気がする。
でも、慧は優しい。
里歌さんによく似た目。
それを考えると、ちゃんと『男の子』の慧が好きなような気がする。
よく分からない。
多分、『こうあってほしい慧』と『現実の慧』にはズレがあるはずだ。
ちょっと曇ったフィルターを通して私が受け取っている『慧』って、かなり曖昧だと思うし。穏やかで優しい、って、見方を変えると、トロくて鈍いってことだし。
『私の好きな慧』の像だって、具体的なものじゃないし。
でも。
『私の慧』
そうなったら、素敵だな。
私のこと、好きになってくれないかな。
そしたら私、何だか凄く嬉しいと思う。
何かが、間違ってるんだとしても。
八時になる前に、優将と、中澤家を出た。
勘違いしちゃいけない。どれだけ親しくても、『余所の家』なんだから。
迷惑になる前に、帰る。このバランスを掴むのって結構大変だったんだ、本当は。
高校生になってもこういう付き合いが出来るのは、一つは、こういったコツを、小学生くらいでマスターしたからっていうのもあると思う。
狡猾な『子ども』。
でも、あそこに行きたいなら、大切なことだ。
優将は、その日、何となく、私の家に泊まってった。
麻のカバーが掛かった、リビングのソファーベンチは、いつの頃からか、優将の定位置みたいになってる。
成長するにつれて、口数や感情の起伏が少なくなった優将は、何考えてんだかよく分かんないけど、結構遊んでるみたい。
無断外泊なんかしても気にされるような家じゃないし。
何といっても優将は、顔が良い。
相手に困らないから、何となく、ってことなのかな、と、漠然と思ってる。
でも、まだこうやって、たまに私の家に泊まっていく。
私が普通に自分の部屋で寝て、リビングのソファーで適当に優将が寝る。
たまに、一緒にテレビを見ながらソファーで、そのまま寝る事もあるけど、何ともない。
本当に、幼稚園の頃から、あんまり関係が変わってない。
正直、同じベッドで寝たり、一緒にお風呂に入るのをやめたりしたくらいのもんで、お互い、目の前で着替えようが何だろうが、何ともない。
お互い、独りぼっちを埋め合うようにして、昔から、よく、そうして一緒にいたて、そのまま、十六歳になっっちゃっただけだ。
本当に、兄妹みたいな感じ。
リビングで、テレビを見てる優将の横で、取り敢えず数学の課題をしてると、優将が教科書を覗き込んできた。
カプチーノブラウンの長い前髪が、私を目がけてザラリと流れてきた。
痒っ。
「ぶはっ?!」と言いながら避けたけど、優将は、私の反応には、お構いなしだった。
痒いんですけど!
一瞬だけ、軽く睨んでみせたけど、全然効果はなかった。
「ベクトル?」
「あー、うん。もう珍粉漢粉」
教科書を手に取ると、優将は、「…何が分からんのかが分からん」と言った。
そして、私のノートを見て、指で行をなぞった。
「…合ってんじゃん」
…こいつ。嫌んなるなー。そんなに勉強してないはずなのに、算数数学の類は妙に得意でさ。
「計算は出来るの。でも、意味が分かんないの」
「…意味?」
少し切れ長の、綺麗な二重の目が、珍しく見開かれた。
「何で『大きさ』と『方向』と『向き』って足せるの?」
「…は?…c=a+b…とか?」
「そう!あと、『方向』と『向き』って、どう違うの?」
「…取り敢えず、『方向』は、その方向に、そのベクトルが進むってこと。『向き』は、そのベクトルが向いている向き」
「…ああ」
分かった。ような。
「…大体、そこを疑問に思ってたら数学出来ないから」
…そうなんだよね…。どうせ、ベクトルの理論の全部は私じゃ理解出来ないんだから、計算出来ることだけに満足してた方が効率良いんだろうなぁ。考えてたらキリがないもん。
…勉強する程、自分の頭が悪くなったような気分になる。
そう思いつつ、頭の中で、ウニの刺みたいな、ベクトルの固まりを作った。
「ね、優将。何かさー、『家』みたいだね、この形。矢印の先のところ」
「…イラスト的な話?分からんでは無いけど。戸建て平屋屋根裏付き的な?二階建て?」
「そんなに話に乗ってくれると思わなかったな…。そこまで考えてなかった」
「茉莉花、数学嫌いだから逃避してんのかと思って話に付き合っただけだから、間取りまで教えてくれんでいいよ、ベクトルの『家』の」
「…はいはい。宿題続けますよ。分かんないとこは教えて」
ねぇ、何か、上手くいかないね。
仲が良いんだとは思うんだけど。
お互い、姉弟でも何でもなくて。
本当の家族より、長い時間、一緒にいるんだけど。
そろそろ、幼なじみだってこと以外に、一緒にいる理由がなくなってきちゃう。
私達、変だね。
※茉莉花 古代エジプトでは既に、香料としての栽培が行われていたといわれている植物。精油の生成方法が登場する遥か以前から、香油の原料として使用されていた。香油の材料として文献には残っていないが、聖書の時代の『香油』の原料の一つであった可能性がある。
※柴 「燃える柴」。燃えているのに燃え尽きない奇跡の柴。神の象徴として、また、神とユダヤとの契約の印として、「出エジプト記」以外にも聖書のあちこちで語られる(「柴」は日本の伝統として「神の依り代」とされてきたため、「bush」を「柴」と訳されたという説有り)。
例:『出エジプト記』3章2‐4節
「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。」
参考文献:山下洋子(2020)「「bush」はなぜ「柴」と訳されたのか-聖書の日本語訳について-」『立教大学日本語研究』第26集
※ cappuccino 元来はカトリック教会の修道会であるカプチン会の修道士のこと。カプチーノの茶色が修道士の服の色と似ていたから、という説や、エスプレッソに浮かんだミルクの泡を蓋に見立てたからという説、さらに、白い泡をコーヒーが囲む様子が、頭頂部のみを剃髪した修道士の髪型に似ているから、という説があるが、彼等が着るフードのついた修道服、cappuccioから来ているイタリア語。、cappuccioは「頭巾、フード」の意味で、英語のcapと同源の言葉。
※慧 仏教における智慧のこと。一般的にいう知性や知識といったもの(知恵)ではなく、真理を開くもの。
※目から鱗が落ちる 『新約聖書』の『使途行伝』第9章18節。「the scales fall from one’s eyes」の直訳。神の光によって視力を失ったサウロにイエスの使いが手をかざしたところ、目から鱗のようなものが落ちてきて視力を取り戻したという事から、あることがきっかけで急に理解できるようになるような状況のことを示す諺となった。