28 ジン
心の病についての描写が少しだけ入ります。
苦手な方は、ご注意ください。
お通夜の夜は久しぶりに実家に戻った。
そして翌日の昼間、いまごろ芹菜さんと祐樹さんは告別式だろうかとかそんなことを思いながら渡航の準備をする。
といっても生活に必要なものは向こうにあるし、キャットからは『身ひとつで来てね!』と言われているので、それほどの準備は必要なかった。クローゼットの中から必要な洋服を取り出したり大切な写真をいくつかスーツケースに入れるくらいのもので、ものの1時間もせずに準備は終わってしまった。
手持無沙汰になって隣の部屋をノックすると、ラルフが出てきた。
『ちょっと話さない?』
『僕も声を掛けようと思っていたところだ』
二人で1階に下り、ラルフはソファに、私は絨毯の上に体育座りで腰かけた。
『ラルフは知ってた? 祐樹さんと芹菜さんのご家族の話』
体育座りをした膝の間に顔を挟んで自分の足の指を見つめながら問うと、身じろぎをする気配がした。
『少しだけ。ユーキがお父さんと仲悪くて、セリナは最近少しずつお父さんとの仲を修復してることとか、それくらいなら』
『そっか』
『マリカはユーキから何も聞いていなかったの?』
『何も。いつも私の話ばかり聞いてもらっていたから』
私は元々どちらかというと聞き役で、自分の話をするのは得意じゃなかった。なのに祐樹さんといるときは、いつも私ばかりが話していたような気がする。
だから祐樹さんのことは本当に、驚くほど何も知らなかった。
ご家族のことも、お仕事のことも。
『それに、祐樹さんは私に自分の話はしないから』
自分で言ったのに、その言葉が胸に突き刺さった。
祐樹さんは何も話してくれなかった。それは責めるようなことじゃないとわかっているけど、まるで壁を作られているように感じられてしまって、すごく寂しかったのだ。
私は膝を抱えていた手を離し、ごろんと仰向けに転がった。
部屋の電灯を見上げると、眩しさで目がチカチカした。
『ユーキは自分の話をするのが苦手なんだろうね』
ラルフの言葉に、寝転んだまま首だけそちらに向ける。
話をするのが苦手?
でも祐樹さんは私と違って別に口下手というわけではないし。
あれ、でも。
『セリナも言ってた。ユーキは何も話してくれないからって』
あれほど仲の良い姉弟なのに、その芹菜さんにすら話さない。
そういえば、この間タクシーの中で芹菜さんがそんなことを言っていたような気がする。
そっか。じゃあ別に壁があるというわけではないのか。私も廉との間に起こったことをほとんど誰にも話していないけど、だからといって友人を信用していないわけでもなければ、友達だと思っていないわけでもない。楽しくもない話を持ち出して心配をかけるのが嫌なだけで。
祐樹さんはいつも私から話を引き出してくれたから、だから話せたのだ。
私は跳ね起きた。
そうだ。
私だって祐樹さんが一歩踏み込んでくれなければ話せなかった。
どうして思いつかなかったのだろう。
祐樹さんもそうかもしれないと。
その後ほどなくして告別式や火葬などすべてが無事に終わったとの連絡を受け、ラルフは芹菜さんを迎えに行くと言って出て行った。
私は私で、マンションの方に置いてある服をスーツケースに詰めるために芹菜さんのマンションに移動し、そこで芹菜さんの帰りを待った。
『祐樹さんは?』
芹菜さんと一緒にマンションに来たラルフにこっそり尋ねると、ラルフは首を横に振った。
「祐樹なら、父が連れて行ったわ」
私の声が聞こえたはずはないのに、随分離れたところから芹菜さんが言った。
「話があるとか言って。たぶん父がよく行く会員制のバーだと思う」
会員制のバー。
そういえば、そんなものがあると聞いたことがある。
もう、世界が違い過ぎて。
くらりとしながら尋ねた。
「そのバーの場所、教えていただけますか?」
芹菜さんは戸惑ったようだった。
「……でも、会員以外は入れないわよ?」
「どのみちお父さんとお話されているところにお邪魔する気はありませんし、お話が終わるまで近くで待ちますから」
私が言った内容に驚いたのか、それとも口調がいつになくきっぱりしていることに驚いたのか。どちらかわからないけれど、ラルフも芹菜さんもびっくりした表情をしていた。
3日後に日本を発つ。
アメリカでの修行に向かうのに、何一つ未練を残したくなかった。
「廉のときは自分から何もしなくて、そのことを本当に後悔したんです。だから今度は、やってから後悔しようと思って」
やらない後悔より、やる後悔。
使い古された言葉だけど、それはきっと真理なのだ。だからこそ使い古されてきたのだから。
芹菜さんはそれ以上何も言わず、バーの場所を教えてくれた。
『マリカ、頑張ってね』
しまいこんであった靴を引っ張り出す私に、ラルフが言った。
ラルフの言葉に私は微笑みを返した。
「茉莉花さん待って、忘れ物」
芹菜さんに手渡されたのは、ずっとドレッサーの鏡の前に置いたまま出番のなかった口紅。
「そのドレスには、この口紅でなくちゃ」
ジャスミン・レッド
荷造りのために開けた実家のクローゼットで見つけた服に身を包んだ私は、タクシーの中でその赤を唇に塗りたくりながら呼吸を整えた。
翌朝目を覚ますと、見たことのない場所にいた。
大きなベッドの上に転がったまましばらく天井を見つめて、自分の置かれている状況を思い返してみる。
私は祐樹さんに会いに行って、そして……
ガチャッとドアの開く音がして、私は慌てて体を起こした。
「あ、目が覚めました? 今お水用意しますね!」
明るい声を掛けてくれたのは倉持常務の奥さまだった。
「あの……」
頭が痛かった。
やっぱり、どう考えても飲み過ぎたよね。
お水をもらってお詫びの言葉を口にして、そうこうしているうちに常務が部屋に入ってきた。入れ替わりに奥さまが部屋を出て行く。
「ゆうべ真夜中に祐樹から一生のお願いって電話かかって来てさ」
呼び出された常務が駆けつけると、祐樹さんの隣には酔いつぶれた私がいた。
何も聞かずに送って行ってほしいと頼まれて、常務はそれを引き受けた。
「でも本っ当に真夜中だったからさ。芹菜さんを起こすのも気が引けて」
そんな時間に起こされたことを、常務は気にも留めていない様子だった。
「で、うちの奥さん、酔っぱらいの介抱に関してはなかなかいい腕を持ってるから。俺の家に連れてきたんだ」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして本当に……」
「いや、全然。俺は祐樹に頼まれたことをしただけだから。それに奥さんは美女にしなだれかかられてめちゃくちゃ嬉しそうだったし、俺もまぁ役得だったし」
私が気にしないようにと軽口を叩いてくれる常務の優しさに感謝しつつ気になっていたことを尋ねると、常務は穏やかに笑った。
「あの、祐樹さんは……?」
「あいつはタクシーで自分の家に帰ったよ」
「そうですか」
「昨日のこと、覚えてない?」
「ジンを飲み始めたところまでしか」
「ジン、か。いやな名の酒だな」
ああやっぱり、常務も知っていたんだ。
昨日祐樹さんの話を聞きながらふんわりと抱いていた思いが確信に変わって、私はその友情の深さにただただ感服した。
常務にここへ連れてきてもらう間のことは何一つ覚えていない。
だけど、ジンを飲み始めたところまでしか覚えていないと言うのは嘘だ。
本当はちゃんと覚えていた。
祐樹さんの話の内容も、その途中にみせた苦悶の表情も。
自分が言ったことも。
そして私が意識を手放すほんの直前、隣に座っていた人が体を丸めて泣いていたことも。
芹菜さんが教えてくれた会員制のバーを見つけると、私はすぐに一番近い他のバーを探した。そして祐樹さんにメールを入れた。自分のいる場所を知らせるために。
お父さんとの話が終わったのだろう。祐樹さんが姿を現したのは、私がそこで飲み始めてから1時間ほど経った後のこと。
「茉莉花さん」
祐樹さんは私の姿を見て驚いたらしかった。
初めて会った日と同じ、黒いワンピースを着ていたから。
「その服なつかしいな。もう1年半くらい前か」
「そうですね」
「本当によく似合ってるね。あのときも思ったけど」
そう言いながら私の隣のスツールに腰かけた祐樹さんは、「どうしてここに?」と言った。答えは一つ。
「祐樹さんに会いに」
私が辛いとき、いつだって祐樹さんは話を聞いてくれた。
それがお母さんを想っての行動だったとしても、お医者さんとして放っておけなかったからだとしても、別にかまわない。
それでも私は、救われていた。
恩返しをするなら今しかない。
私の気持ちはすっきりとしていた。
「……それ、何?」
私の前に置かれたショットグラスを見ながら祐樹さんが尋ねた。
「ジンです」
「嫌な名前の酒だなぁ」
祐樹さんは苦笑した。
「俺、自分の話をするのが得意じゃなくてさ。昔から」
祐樹さんがぽつりとこぼした言葉にうなずきながら、グラスの外側についた水滴を見つめた。
それからゆっくりと息を吸い、用意していた言葉を口にする。祐樹さんがここに来るまでに、考える時間はたっぷりあったのだ。
祐樹さん。
私、お酒には結構強い方なんです。
でもひとつだけ、どうしても体質的に合わないお酒があって。
それがこれ、ジンです。
ジンを飲み過ぎると必ず記憶を飛ばすんです。
これ、もう4杯目です。
たぶん明日には何も覚えていません。
もし覚えていたとしても、記憶ごとアメリカに。
だから安心してください。
そう言ってから目の前にあったショットグラスのジンを一気に煽ると、祐樹さんは観念したように低く笑った。そして自分も、目の前に置かれたグラスを空にする。
何がきっかけだったのかわからない。私の言葉か、お酒か。それとも、もう限界だったのか。祐樹さんは一度大きく深呼吸をしてから堰を切ったように話し始めた。それらがどんな順序で語られたかはよく思い出せないけれど、祐樹さんが話したことはどれも鮮明に覚えていた。
最初は確か、「ジン」という人の話だった気がする。
――ジンっていうのはあいつの、マイカの結婚相手なんだ。
マイカは小学校のときからずっと同じ学校で、学生時代から付き合ってた。
でも研修医のときに振られた。
その頃うちの母親は体を壊して入院してたし、精神的にもバランスを崩してた。だから背負うものが重すぎるって。
――言えなかったんだ。マイカと別れた理由を誰にも、真吾にすら。大人になってまで家族の問題につきまとわれてるのが空しくて。
だから言ったんだ、俺も色々遊びたい年頃だから別れたって。
「知ってるか? 医者って結構ナースにモテるんだぞ」って。
それから真吾はよく「ナース祭り」と言って俺をからかったけど、本当はどうだったんだろうな。俺の嘘なんてとっくにバレてたんじゃないかっていう気もする。気づいてもそれを口に出さずに気づかないふりをしてくれるような、そんな奴だから。
――俺はずっと母親に縛られて生きてきた。
友達と出かけて帰りが遅くなれば罵られるし、出かけようとして『わたしを見捨てるのか』って大騒ぎになって、結局出かけられなかったことも少なくなかった。
特に俺が大人になるにつれて――たぶん容姿がどんどん父親に似ていったから――母親の執着はひどくなる一方だった。
――母親には白か黒しかなかったんだ。極端なんだ。
好きと嫌い、良いと悪い。
好きなものを急に大嫌いになったりする。
それこそ、手の平を返したようにね。
そのくせ見捨てられることを極度に恐れていて、大嫌いと叫びながらしがみついていくような、そういう人だ。そういう心の病気なんだ。
当然周囲ともうまくやれないし、うまくやれない自分をひどく憎むんだ。
――俺は母親を治したくて心療内科医になったわけじゃない。
母親のことは、むしろ大嫌いだった。
理解できなかった。
だから、ただ理由を知りたかった。どうしてあんな言動に出るのか。
――父親のことを恨んでるのに、ずっとその父親の金で大学まで出て、それが悔しくてたまらなかった。
父親は父親なりに俺のことを考えてくれてて、あの家に縛り付けられている俺を何とかして外に出そうとして、高校時代に母親の反対を押し切って半ば強引に留学させたり、色々してくれたんだ。
それはわかってる。
でも、いざ許せるかと言われると、難しい。
――父親のことが憎いのは母親を捨てたからじゃない。
自分だけがあの家を抜け出したことが許せなかっただけだ。
俺はどんなにもがいても抜け出せなかったのに。
血のつながった母親を見捨てられなかったから。
――あの両親を見て育ったから、誰かと結婚して家庭を築く未来なんて考えられないってずっと思ってた。
マイカと別れたのは振られたからだけど、そのまま付き合ってたとしても結婚には踏み切れなかったと思う。まぁ、だからマイカに振られたというのもあったんだと思うけど。
祐樹さんの話をひとつひとつ心の中で思い返していると、常務が静かに言った。
「俺が聞くことじゃないんだろうけど……須藤さんは祐樹のことをどう思っている?」
私は迷わず答えた。
「好きです」
同じ言葉を昨日口に出したばかりだったから、すんなりと出てきた。
あれはいつだっただろう。どこかのタイミングで、祐樹さんの声に嗚咽が混じった。そのときだったと思う。
――好きです。
唐突にそう言った私を、祐樹さんは信じられないという表情で見つめていた。
――それは……
――そのままの意味です。
――今の話を、聞いた後なのに……? 通夜のときだって……俺は情けない姿を……
だから、かもしれないと思った。
今までだってきっと気付いていたけど、その度に自分の気持ちを誤魔化してきた私が自分の気持ちを受け止めようと思えたのはたぶん、祐樹さんの抱える苦しみを知ったから。
私の気持ちなんて祐樹さんにとっては何の意味もないものかもしれない。だけど覚えていてほしかった。祐樹さんの幸せを何より願っている人間もいるのだということを、忘れないでほしかった。
私が黙ってうなずくと祐樹さんは自嘲気味の笑みを浮かべた。
――俺は茉莉花さんを幸せにはできない。
答えは聞く前からわかっていた。
だから別に、動揺はしなかった。
「昨日、あっさり振られました」
常務は驚いた表情を隠さなかった。
その時にちょうど部屋に入ってきた奥さまも「えっ嘘っ」と声を上げた。
「いいんです、伝えてよかったと思っています。すっきりした気持ちでアメリカに行けるから」
私はそう言った。
その言葉に、嘘はひとつもなかった。




