29 アメリカ
「祐樹がよろしくって。茉莉花さんの出発の日に学会で大阪なんて、何の因果かしらね」
そう言ってため息をつく芹菜さんの隣には、ラルフが寄り添うように立っている。あんなに頼りなくて子どもっぽかったのに、いつの間にかしっかりして、今は芹菜さんを支えている。
そんなことを思うのは、こんな日だからだろうか。
「マリカ、ガンバッテ。マムにヨロシク」
上達した日本語で言われ、私はうなずいた。
「うん、ラルフも頑張ってね」
一年と少し前まで、その存在すら知らなかった家族。人生は本当に不思議だ。
そしてもう一人、空港まで見送りに来てくれた人がいた。平日なのにお仕事はどうしたのだろう、という私の疑問に先回りするように「近くに来たついで」と言っていたけど、成田空港の近くに来る用事は無さそうだ。
「あのさ、須藤さん。祐樹のこと」
倉持常務は言った。その恐ろしく整った顔に難しい表情を浮かべて。
「私、まだ諦めませんよ」
そう言って私は背筋を伸ばした。
「「「え?」」」
常務と芹菜さんとラルフの声が重なった。
あの日振られてしまったことは芹菜さんにもラルフにも言ってあった。
「幸せにできないって言われました。だから、幸せになって帰ってきます。幸せにしてもらわなくても自分の力で幸せになれるって証明するために。それに、自分にもっと自信を持てるように。祐樹さんと肩を並べられるような人間になって帰ってきます。それでもう一回、気持ちを伝えようと思って。それでもだめだったら仕方ないですけど」
そう言うと、常務は力強くうなずいた。
「そっかよかった。もう諦めちゃうのかと思った」
「私は人を一度好きになったら長い方なんです」
「それはすごくいいことよ、茉莉花さん」
「そうだといいんですけど」
「俺の奥さんと須藤さんの違い、もうひとつ見つけた」
「え?」
「俺の奥さんは全然祐樹の好みじゃないけど、須藤さんはど真ん中だよ」
それが本当のことなのか、それともただの励ましなのかはわからなかったけど、その言葉をありがたく受け取って私はアメリカに飛び立った。
約十時間のフライトの後、ロサンゼルス国際空港に到着した私を出迎えてくれたのは母とラルフのお兄さんだった。つまり、母の再婚相手の連れ子。
『マムの娘なんだから、俺の妹だよ』と言ってハグをしてくれたその人は、陽気でとても気さくな人だった。その奥さんもとても明るくきれいな女性で、母と母の再婚相手、ラルフの兄、その奥さんの四人との生活に私はすんなりととけ込むことができた。
『ねぇお母さん?』
一日の仕事を終えて家でくつろぐひととき。
この人をMomと呼ぶようになるまでに、それほど時間はかからなかった。
『なぁに?』
『あのとき日本に来たのは偶然なの? それとも……』
母は微笑むだけで答えなかった。
でも、それが答えだった。
廉との関係がだめになって、吉田家ともぎくしゃくして。いっぺんに家族が少なくなってしまった私を誰より心配していたのはきっと父だったと思う。その父が母に連絡をしたのだと、私は確信した。そうでなければ、あのタイミングで母が来るなんてあり得ないから。
父とは頻繁にSkypeでやり取りをしているけれど、そのことについて触れたことはない。父はどうせしらばっくれるとわかっているし、照れ屋な父に下手な演技をさせるのは気が引けたから。
私がわかっていればいい。
自分がどれだけ守られて、恵まれているか。
忘れずに感謝の気持ちを持ち続ければ、きっとそれでいいのだ。
母の下での仕事は刺激に満ちていて、私は本当に充実した日々を送っていた。来た当初は自分の語学力が思った以上に通用しなくてくじけそうになったりもしたけれど、いつの間にかそれも気にならなくなった。英語が上達したのか、それとも通じなくても諦めない根性が身に付いたおかげかはわからないけれど。
めまぐるしい日々の中で自分の成長を実感できるところといったらそれくらいのもので、あとは自分ではよくわからなかった。
ただただ、がむしゃらだった。
そしてそれは、心地よい感覚だった。
そうして迎えたカリフォルニアでの二度目の夏。
新婚旅行でやって来た凛と池谷くんをあちこちに案内している最中に、ふいに凜が言った。
「茉莉花。廉のこと、知りたい?」
私が気にしているかもしれないと思いつつも、その名を出してよいものか悩んでいたのだろう。私に会った時からずっとどこかふわふわしていると思ったのは、新婚ほやほやで浮かれているせいではなかったらしい。
「うん、元気にしてる?」
こちらに来てからも、私はときどきその姿を思い出していた。
胸の本当に奥の方が軋むこともあったけれど、もう平気だと胸を張れる。
好きだと思える人に出会えたのもあるのだろうし、環境が大きく変わってそのことを考える暇がなかったせいもあるのだろう。何より私自身が変化したのだ。25歳の私は、ずっとずっと昔に置いてきてしまった。
「結婚式で久しぶりに会ったんだけど、元気そうだった」
「そっか、よかった」
「廉は嫡出否認の訴えを起こしたんだって」
「ちゃくしゅつひにん……?」
「この子は俺の子じゃないっていう訴訟だって」
「そうなんだ」
訴訟、かぁ。
そんな訴訟があることすら知らなかった。
大変そう。
「それももう去年の話だけどね。一年だかの期間の制限がある上に訴訟じゃないと主張できないとかで色々バタバタして大変だったみたい。今は少し落ち着いてるって」
「そっかそっか」
「いま廉は転勤で北海道にいて、かをりさんと子どもは東京のかをりさんのご実家にいるらしいの。将来子どもが本当の父親に認知請求をしたいと思ったときにそれができるようにっていうので嫡出否認の訴えはしたけど、離婚についてはもう少し考えてから答えを出すんだってさ。だから今は別居って感じかな。表向きは単身赴任ってことで。養育にかかる費用は当面はかをりさんのご両親が負担してくれるみたい」
「そっか」
子どものため、か。
廉らしいと言えば、廉らしい。
「よかった。余計なこと言っちゃったかなって、気になってたから」
「余計なこと?」
「ううん、何でもない」
廉は「その日」のことを何も覚えていないと言ったけど、たぶん目が覚めたときの状況から「何かがあった」ことは確かだったのだろう。そうでなければ、妊娠と聞かされて真っ先に、本当に自分の子かどうかを疑うはずだから。
たぶん、あったのだ。
そして、何かが起こりうる程度には、二人は親密だったのだ。
大阪に行ったときも吉田家の前で会ったときも、廉は決してかをりさんを嫌っている様子はなかった。むしろ、妊娠しているかをりさんを労っているのが傍目にもわかるくらいだった。
妊娠がなければ結婚しなかったのだろうし、本当のことを知ったときはショックも受けただろう。だけど、嫌っているわけではないのだろうから。
一年というときを夫婦として過ごした二人。
父子として過ごした二人。
家族として過ごした三人。
壊すのはいつだってできる。
だから。
納得がいくまで悩んで、話し合って答えを出した方がいい。
父や母みたいな後悔を残さないように。
そう思って言ったことだったけど、後から考えれば廉にとってはひどく重たい枷になってしまったのではないかと気になっていたのだ。
よかった、ちゃんと前に進んでいて。
凜と池谷くんは本当に幸せそうで、輝きに満ちていた。
幾分ふっくらとした凜は、まぶしい笑顔で「一番つらい時を支えてくれた人だから、私が幸せにするの」と言った。
私もいつかそんな風に言える日が来るだろうか。
大切な人を自分が幸せにするんだって、生き生きとした顔で。
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「須藤さん」
その年の秋、倉持常務が出張でこっちに来たついでに、顔を見に寄ってくれた。
「倉持常務」
「もうとっくに社員じゃないんだし、常務ってつけなくていいよ。敬語もいらない」
「それじゃあ、倉持さんと。敬語は許してください。年上の人にタメ語は私には難易度が高いので」
「そっか。別に倉持さんじゃなくて真吾さんって呼んでくれてもいいんだけどな」
「それはちょっと」
「祐樹のことは下の名前なのに?」
「常務だって、私のことは須藤さんって」
「茉莉花ちゃんって呼んでいいなら喜んでそうするけど? あと、常務じゃないってば」
「あ、ごめんなさい。茉莉花ちゃんはちょっと……」
「そのごめんはどっちに?」
「常務と呼んでしまったことに」
「どうだかな」
私はくすくすと笑った。
「須藤さん、元気そうだね。すっかり日に焼けて。それにちょっと痩せた?」
「元気です。痩せてはいないです。ただ、焦げたのでたぶん細く見えるんじゃないかと」
「そっかそっか。まぁ、元気で何より」
「じょ、倉持さんは、奥さまもお変わりなく?」
「うん、変わらず元気にやってるよ。女子力あげるんだとか言って芹菜さんと一緒に料理教室に通ったりして」
芹菜さんが、常務の奥さんと……それって……
「結構仲よさそうだよ」
常務は軽く言ったけど、その声はとっても嬉しそうだった。
「今年の春に子どもが生まれたんで、今はうちの奥さんは絶賛子育て中だけどね」
「え? お子さんですか? おめでとうございます!」
「ありがとう。超かわいい女の子だよ」
「お名前は?」
「玲奈」
「かわいいお名前ですね」
「ありがと。本当、天使だよ。おかげで出張がイヤでイヤで」
そう笑ってから常務が一度ふっと真剣な表情を見せたので、次に出る名前がわかった。
「祐樹も元気だよ」
「そうですか。よかった」
「連絡は全然取ってない?」
「そうですね。用もないのに連絡してもご迷惑でしょうし、それに……驚かせようって決めてるから」
「迷惑どころか喜ぶと思うけどね。まぁいいや。それで、驚かせるっていうのは?」
「次に会った時に、成長した姿を見せたくて」
「そんだけ日に焼けてるってだけでかなり驚くと思う」
「そういうことじゃなくて」
「わかってるよ。そうだね、それがいいのかも」
常務は静かに言ってから、優しい笑みを浮かべた。
「バラしたら怒られそうだけど、まぁいいや。後でたっぷり怒られてやろう」
「なんですか?」
「本当にずっと前……須藤さんが会社で泣いてた頃かな。俺、祐樹に聞いてみたことがあったんだ」
「何を、ですか?」
「須藤さんとの関係」
思わず笑ってしまった。
そんなに昔から、常務は私と祐樹さんの関係を気にしていたのか。
「そうですか」
「そうしたら、幸せになってほしい子だって言ってた。だから『お前が幸せにするとかではなく?』って聞いたらさ」
「……はい」
「『俺じゃあ力不足だ』って。それってもうほとんど、好きって言ってるようものだと思わない?」
「どう……でしょうか。私には……」
あの日「幸せにできない」と言われた意味がわかったような気がして、鼓動が少し早くなった。
「あとね、こうも言ってた。巨大な湖の表面に張った薄氷の上に立たされたときに、須藤さんはきっと自力で少しずつ少しずつ移動して岸までたどり着く人だって」
「え?」
「祐樹のお母さんは薄氷を自ら踏み抜く人で、芹菜さんは大声で助けを求める人。でも茉莉花さんはそのどちらとも違ってるって。だから自分は湖のほとりで見守るしかできないんだって」
そんな風に思っていてくれていたんだ。
決してお母さんと私を重ね合わせていたわけではなく。
「あいつ、俺の相談なんて絶対聞いてくれないよ? 仕事でただでさえたくさんの人のを話聞いてるのにプライベートまでそんなこと出来るかよっていつも」
「そう……なんですか」
「うん。だから、須藤さんの話を聞いたのはたぶん純粋にそうしたかったからじゃないかな。見守るしかできないっていうか、あいつは見守りたかったんだと思う」
その言葉が嬉しくて、私は常務にお礼を言った。
「俺がお礼を言われるようようなことじゃないんだけどね」
常務はそう言って笑い、続けた。
「結婚願望ないとか言ってたくせに、俺の娘を抱いてうらやましいうらやましい言ってるし。赤のポルシェは手放してシルバーのSUV車に買い換えたし。それに親父さんともときどき飲みに行ったりして少しずつ雪解け中だし。あいつはあいつなりに、前に進んでる。前にって言うか、俺にはどうも……カリフォルニアに向かって進んでる気がしてならないんだけどな」
そう言った常務は去り際に一言、「あいつ、待ってると思うよ」とだけ言った。
常務の勘がどこまで当たっているかわからないけど。でも、絶望はしなくていいみたい。
小さな幸せを心に灯して家に帰ると、母が『マリカ、お客さん来てるわよ』と言って迎えてくれた。
『お客さん?』
客間に足を踏み入れて、息が止まりそうになった。
常務、待ってると思うよって、そういう意味だったんですか。




