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風間に咲く花  作者: 奏多悠香
本編

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13 倉持常務

「こんにちは、須藤さん」


 芹菜さんと暮らすようになってからおよそ2週間。お昼ごはんを食べに行く時間がなかなか取れずにランチタイムがすっかり遅くなってしまったその日、一人会社近くの定食屋でカウンター席に座って定食を食べていると倉持常務が現れた。


「あ、倉持常務。こんにちは」


 すっかり気を抜いていた私はあわてて背筋を伸ばし、なんだか落ち着かなくなって慌てて服の裾を引っ張って伸ばしてみたりする。

 一方、この暑さの中でもなぜか涼しげなオーラを放っている倉持常務は余裕の笑みを浮かべてすらりと立っていて、庶民的な定食屋の中で完全に浮いていた。もっと高級なお店でラグジュアリーランチを楽しんでいそうな感じなのに、こんな定食屋さんにも来るなんて。少し意外だ。


「隣、いい?」


 私に向かってそう聞きながら、すでにその長い腕は私の隣の席の椅子を掴んで引いている。断らないとわかっているのだろう。

 私は今しがた口の中に詰め込んだ揚げ出し豆腐をあわてて呑みこみながらこくこくと頷いた。

 倉持常務はすっと椅子に座る。

 立っているとすごく背が高いのに、椅子に座るとそれほど座高が高くない。代わりに、カウンターの下に収められた足がとても窮屈そうに折れ曲がっていた。


「元気?」


 次に投げかけられた言葉は、違和感をもたらした。


 ――げんき?


 会社の人と社外で会って掛けられる言葉は、大抵「お疲れ様」とかそう言ったもので、第一声に「元気?」と言うのは、なんだか不自然な感じがしたのだ。

 そして、倉持常務が見せた、私の顔を窺うような表情に、ふっとある考えがわいた。


「もしかして、倉持常務が……」


 私が言うと倉持常務は、ああ、と言いながら頷いた。


「ばれちゃったか」


 そう言って苦笑する。

 病院に車を取りに行ったあの日、会社の前に祐樹さんがやって来たのはやっぱり偶然ではなかったのだ。私はその事実を、手に取ったコップの水と一緒にすっと飲み込んだ。冷たい水なのに、心はほかほかだった。

 倉持常務は「参ったなぁ。まさか元気か聞いただけでばれちゃうとはね」と言いながら説明してくれた。

 あの日、私が泣きはらした顔で会社のトイレから出たところを常務に目撃されていたらしい。


「いやぁごめんね。首突っ込む気はなかったんだけどさ。社員が会社で泣いてるっていうのは一応ね。パワハラとかセクハラとかそういうおそれもあるし、ちょっと気になって。ちょうど祐樹から連絡があったもんだから、何か知らないかなと思って聞いちゃったんだよね」

「そうだったんですか」

「あ、でも俺は詳しいことは何も知らないから安心してね。祐樹はそういうことは絶対にしゃべんないからさ。俺も聞かないし。仕事と関係ないってことがわかれば十分だから。ああ、芹菜さんと暮らし始めたっていうのは聞いたけど」

「そうだったんですか。あの……ありがとうございました」


 私が座ったままぺこりと頭を下げると、常務はいえいえ、と軽く言った。

 常務は「しっかし、あっちぃね、今日」と言いながらくつろいだ様子でワイシャツの胸元あたりを数回引っ張るようにして風を通し、その動きと共に爽やかな香りが鼻をくすぐった。

 香水だろうか。

 自分が香水をつける習慣がないものだから全然詳しくはないけれど、控え目に漂う柑橘系の香りは少し意外な感じがした。

 倉持常務には、何ていうかもっと強い香りが似合いそうなイメージ。すっと鼻に抜けるような感じの。

 なんて、倉持常務のことをよく知っているわけではないけど。

 私の中にある常務の情報は、先輩たちの会話から漏れ聞いた真偽の怪しい噂話(先輩たちはそれを「伝説」と呼んでいた)と、それからもう一つだけ。

 芹菜さんの元・想い人、という情報。

 芹菜さんはあんなに素敵なのに、どうして常務は芹菜さんを拒んだのだろう。芹菜さんに言わせれば、「来るもの拒まずのくせに、私の事だけは拒むんだもの」というその理由が、私にはどうしてもわからなかった。

 だって、あんなに素敵な人なのに。

 美人で性格もかわいらしいし、本当に楽しそうに生きているのだ。それに――これは一緒に暮らし始めてから気づいたことだけど――ものすごくグラマラス。お風呂上りの色気と言ったら、少し分けて欲しいと思ってしまうほど。

 なのに。

 なぜ。


「俺の顔、何かついてる?」


 そう問われてはじめて、自分がぼんやりと常務の横顔を見つめていたことに気付いた。


「あっごめんなさい。あの……」

「はい」

「どうして……」

「うん」

「あの、どうして、その、芹菜さんを……」


 言葉が口から出た時にはもう後悔していた。

 聞いたってどうしようもないことなのに。

 うつむく私をよそに、常務は運ばれてきたおしぼりで大きな手を拭きながらスペシャルランチを注文した。ご飯が大盛りで、普通盛りよりも200円も高いスペシャルランチ。


「なんで芹菜さんを振ったかって?」


 おしぼりをテーブルに置いた常務に問われて私はまたうつむく。


「あの、ごめんなさい。いいんです。あの、それを聞きたかったというわけではなくて」


 余計な詮索をしたかったわけではなくて、本当にただ不思議に思っただけで。

 でも口に出してみたら、やっぱり余計な詮索でしかなかった。


「芹菜さんは祐樹の姉さんだからね」


 さも当然のように返って来たその答えに、胸の疼きを感じた。


「友達のお姉さんのことをそういう風には見れないということですか?」

「うーん……友達の姉さんだから女性として見れないってことじゃなく、友達の姉さんだから傷ついてほしくないって感じかな」

「……どういうことですか?」

「そのままの意味だよ。須藤さんだって、大事な友達がテキトーな男と付き合おうとしてたら止めない?」

「止める……かもしれません」

「俺はモロ、テキトーな男だからね。自分みたいな奴と付き合ってほしくないな、みたいな」

「そう、ですか」

「あんまり納得してないみたいだね」

「だって、奥さまとは……」


 それじゃあまるで、奥さまが大切じゃないみたいで。


「あぁうん。奥さんはまぁ、特別だから」


 そういって、常務は何かを思い出したようにふっと笑った。

 芹菜さんにはない何かを、奥さんは持っていたということだろうか。


「とくべつ……」


 それは私にはよくわからなかった。

 廉は特別な存在だったけど、それは幼い頃から家族同然に過ごしてきたという意味合いが大きかったと思う。

 だから、人生の途中で出会った人に感じる「特別」が私にはよくわからない。


「特別っていうのは、どうして、その……」


 芹菜さんのこととは全然関係なく、ただ聞いてみたくなった。

 たどたどしい質問に、倉持常務はお味噌汁を飲みながら肩を竦めた。

 こういう仕草、少し祐樹さんに似てる。


「何でだろうね。今、奥さんを特別だと思う理由なら山ほどあるけど、何で好きになったのかって聞かれるとわからないんだよね。理由なんてしょせん後づけだと思うから。でも、強いて言うなら……」


 そう言って常務は優しく微笑んだ。

 この人でも、こんな表情をするんだなぁ。

 社内ですれ違う時はもっとシャープな感じなのに。

 香りと言い、表情といい、何だか意外。

 これが祐樹さんの言っていた「ベタ惚れ」というものなのだろうか。


「俺が苦しんでる時に黙って傍にいてくれたんだ。元来鋭いタイプじゃないくせに、他の誰も気づかなかった俺の小さな心の動きに気づいてくれたのは、多分それくらい俺のことを見ててくれたからだと思うんだよ」

「……見ていた?」

「そう。気にしてくれてたってこと。うちの奥さんの場合は、俺みたいなタイプが苦手だから厳しい目で見てただけかもしれないけど、それでも、奥さんが唯一だった。最初は単純にそれが嬉しかった」

「それで、ですか?」

「まぁね、元々ちょっと変わってて面白い子だなと思ってたけど、それが『手に入れたい』っていう感情に変わったのは、あのときだったと思うな。真冬なのにすっげぇ薄着で駆けつけてくれて。そのくせ、俺が元気になるなり逃げ出すんだ」


 きっとそのときのことを思い出しているのだろう。常務はククククッと楽しそうに笑った。その静かな笑い声ひとつにも、奥さまへの愛情がこもっている。

 そっか、確かに。

 自分を見ていてくれる人って、すごく貴重なのかもしれない。

 私が辛い時に、どうしてか気づいてくれる人。

 私が思っていることを、おどろくほど読めてしまう人。

 その人の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、心臓がゆらゆらと揺れた。


 ……特別?


「ねぇ、祐樹の事、聞きたい?」


 常務の口からその名が出て、鼓動は一層早くなる。


「え?」


 あわてて視線を泳がせた先に、楽しそうにニヤリと笑う倉持常務の顔があった。


「俺、祐樹の事なら何でも知ってるよ」

「あの、いえ、そんな、スパイみたいなことは……」


 私に知られたくないことだってたくさんあるだろうし。


「へぇ、真面目だねぇ。俺だったら喰いついちゃうのにな」


 ゆったりと言ってから、倉持常務は「うまいな」とご飯を頬張った。

 それからしばしの沈黙が流れたので気まずくなってあわてて話題を探した。そして口を突いたのは、結局さっきと大差ない言葉だった。


「奥さまってどんな方なんですか?」


 ああ、私。

 なんでこんなに常務のプライベートなことに踏み込んでるんだろう。

 どうしよう、気を悪くしたかな。

 手汗が滲んで手に持ったお箸が滑るのをしっかりと握りなおしたところで、倉持常務がふっと笑いをこぼした。


「須藤さんに似てる」

「えっ?」

「あ、口説いてるつもりはないよ」

「別にそんなことは……」

「たとえば、ご飯を美味しそうに食べるところとか。ウジウジ悩んでは、そういう自分に嫌気がさしちゃうところとか。ずるいことができないところとか」


 そう言ってから常務は漬物にお箸を伸ばし、ポリポリとそれをかじった。

 常務と漬物。

 何ていうか、相性の悪さが。


「ああ、あとは、俺みたいなタイプが苦手なところも似てるかも。図星でしょ?」

「えっあの……!」

「その苦手をうまく隠してるつもりで全然隠せてないところとかね。そっくりだよ」


 ってことは奥様は常務が苦手ってことで…


「ククク……面白いよね。違うところは、須藤さんは自分が思ってることを心の中に押し込めちゃうってこと」


 そう言って常務はお箸をおいた。そして、ぐんと伸びをしながら付け足した。


「あとは、俺の奥さんは見かけによらず押しに弱いってことかな。だから奥さんは俺を好きになったけど、須藤さんは俺を好きにはならない」


 何だか今、面と向かって「頑固者」と言われたような気が。当たっているけど。


「さて、食い終わったしそろそろ行くかな。じゃあ須藤さん、お先に失礼。話せて楽しかった」


 私よりずいぶん後に食べ始めた上に、大盛りだったのに。

 気付かないうちに常務はランチを平らげてしまっていた。


「ごちそうさまでした。ここのランチ初めて食ったけどうまかった。また来ます」


 おばちゃんにそう言い残して、常務は爽やかに去って行った。

 え? 初めて?

 それは偶然なのだろうか。

 それとも、もしかして私が居るのを見かけて入って来たのだろうか。

 あの話をするために?

 「元気?」というたった一言を、聞くために?

 なんだか私、見守られてる?

 そう思ったら自然と笑みがこぼれた。

 倉持常務の雰囲気は実は少し苦手だったけど、とってもかっこいい人だった。

 芹菜さんも、もしかしたらああいうところに惹かれたのかなぁ。


 ――芹菜さんにも、早く素敵な恋人ができますように。


 その日の夜遅く、ソファに寝転がった私は昼間の倉持常務との会話を思い出しながらそっと祈った。なぜだか、その願いが叶うのはそう遠くない未来だという予感がしていた。

 そしてその予感が的中したのは、それからたった一週間後のこと。


「え? ラルフ? と、芹菜さん?」




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