12 むくんだ心
「引っ越し?」
同じ部署の先輩たちと四人でランチを食べながらその話を持ち出すと、隣に座っていた先輩が意外そうな声を上げた。
「はい。それで通勤経路が変わるので、保険の関係とか交通費とか、あれこれ手続きをしないといけないと思うんですけど……」
私が言うと、先輩は「ああそれで」と小さくつぶやいた。
「私はちょっと手続とかわかんないけど、総務の子に聞いてみたら? 聞ける人いる? 私の同期がいるから聞いてみようか?」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です。総務の人に聞いてみますね」
「うん、それが手っ取り早いと思う。それにしても、何で今の時期に……あっ!」
先輩の顔に、「わかっちゃった」とでも言いたげなニヤリとした笑みが浮かんだ。
「同棲でしょう!」
予想もしていなかった言葉に、私は声を失った。
――どうせい?
「あの、いや……」
否定する前に、先輩が「わたし実は、見ちゃったんだよねぇ」と言った。
悪い目をして。
あ、何だかこれは、嫌な予感。
「マリリンこないだ、会社の前で待ち合わせしてたでしょう。彼氏さんと」
「あ、あの……」
それは間違いなく祐樹さんで。
彼氏ではないし、私には彼氏はいないし、同棲もしないし。
どこから説明したものかとまごまごとしている内に、私の正面に座っていた別の先輩が声を上げた。
「え! マリリンの彼氏さん見たの? いいなぁ! 私も見てみたかったぁ」
「あの、いや……」
「どんな人だった?」
また別の先輩が声を上げれば、隣に座っていた先輩がやや得意げに答える。
「うーん……がっちり系? 肩幅とかしっかりしてて、身長もそこそこって感じだったかなぁ。でもマリリンが身長高いから、そんなに差がなかったような気も……」
「マリリンの彼氏さんって、確か幼馴染って言ってなかった?」
「あ、ちなみに付け足すと、結構イケメンだった!」
「うわぁ、いいなぁ。イケメンの幼馴染なんて、欲しいと思っても今から作れるようなもんじゃないしねぇ。超うらやましい!」
先輩たちがすごく楽しそうに盛り上がり始めてしまったので、私は慌てて会話を遮った。
「その人は幼馴染ではなくて……あの……」
「え? 別の彼氏? やだ、マリリンやるぅ」
「いえ、彼氏じゃなくてお友だちです」
「ええ、うそだぁ。照れなくていいのにぃ」
「いえ、ほんとに……」
「なぁんだ、そうなの?」
「それと、人と一緒に住むことになりましたけど、同棲ではなくて女の人です」
「あ、そうなんだぁ。幼馴染の彼氏さんとついに結婚に向けて同棲開始かと思ったら」
先輩たちはなんだか残念そうな表情になり、私も何となく申し訳なさを覚えながら食事は進んでいった。
結局最後まで、「幼馴染の彼氏さん」は既にほかの人と結婚して子供までいるのだということを言い出せないままランチタイムが終わり、めいめい仕事に戻る。デスクに戻ると、少しだけ頬が痛かった。
無意識だったけど、口角を上げるのに、やっぱり無理をしたみたい。
今はまだ、うまく笑えない。
でも、笑わなくちゃ。
――ああでも、言っておいた方がよかったのかも。明るく言えば、それほど気を使わせずに報告できたのかもしれない。
「幼馴染とは、別れちゃったんですよぅ」
お風呂の中で立ち昇る湯気に向かって一人小さくつぶやいてからお風呂をあがり、ジャージに着替えてリビングに向かうと、芹菜さんが寝る場所を用意してくれているところだった。
「あ、茉莉花さん、ちょうどよかった。ごめんなさい、そっち持って! ありがとう」
芹菜さんの指示に従ってシーツの端っこをつまみ、広げる。
それをソファに掛けて、即席ベッドの出来上がり。
ここが私の今の寝床。
ベッドを運び込むまで芹菜さんのベッドを貸してくれると言ってくれたのだが、そこまで侵食するのは申し訳なくて固辞したのだ。
――引っ越さない?
祐樹さんのその提案は突然で、そしてとても魅力的だった。
――物理的に離れるって、結構大きいと思うよ。
どうしてそんなに簡単なことに気づかなかったのだろう。
あの瞬間、私は全く悩むことなく、首を縦に振っていた。
そして祐樹さんがすぐに引っ越し先を紹介してくれたのだ。それがここ、芹菜さんの住むマンション。
「ちょうどルームメイトを募集していたのよ」
芹菜さんはそう言ったけど、私はあんまりその言葉を信じていない。だって、家具の配置がところどころおかしかったから。私が使わせてもらう部屋に置いてあったのを、慌てて運び出してそこに無理矢理置いたような、そんな感じがあって。
でも私はそれに気づかないふりをして、甘えることにした。
いつだったか祐樹さんがくれたアドバイスに従って「ありがとうございます」と言って。
「あのね、私、茉莉花さんに感謝してるのよ」
リビングのソファをベッドに作り替えて一息ついたところで、芹菜さんがぽつりと言った。
「……感謝? 私に、ですか?」
「そう。あの日茉莉花さんに会えて本当に良かった」
そう言って芹菜さんは、大輪の花のように笑う。
お化粧をすっかり落としているはずなのに、きれいな肌。
ここへ引っ越してきておよそ一週間のうちに、そのきれいな肌はものすごい努力の上に作られているものなのだと知った。
「私ね、本当に落ち込んでたのよ。真吾が婚約しちゃって私の失恋は決定だし、真吾の奥さんにひどいこと言っちゃったし。いままで恵まれてたのね。望んで手に入らなかったものなんてあんまりなかったし、ひどい自己嫌悪に陥ったこともなかったの。祐樹に言わせれば普通の人は思春期にそういう気持ちを経験するんだっていうけど、何ていうか……自分のちっぽけさみたいなのをあの時に初めて感じたの。劣等感とか色んなことを一気にね」
そう言った芹菜さんの瞳はやっぱり少しだけ潤んでいた。
「そんなときに茉莉花さんを見て、本当にかっこいいなぁと思って」
あれは口下手で何も言えなかっただけなのに。
「それにあの時、レストランの中で茉莉花さんを個室に連れ込んだときにね、茉莉花さんにありがとうございますって言ってもらったのが本当に嬉しかったのよ」
助けてもらったのだから、お礼を言うに決まっているのに。
「良い事したなぁとか、そんな気持ちに浸りたかったってわけじゃないのよ。でも、自分がひどく無価値に思えていた時に、だれかに感謝されたのはすごく救いになったの。ああ、無価値じゃないんだって」
そんなものなのだろうか。
「それにまぁそういうの全部どけたとしても、私は茉莉花さんのことが好きなのよ。自分で言うのもアレだけど、私、女友達少ないの。弟がいたせいか、男の人と話すのに抵抗が全然なくて、気が付いたら男友達の方が多くなってたのよね。だから、女の子の友達って本当に数えるくらいしかいなくて。だからね、茉莉花さんとこうやって話したりするの、すごく楽しいの」
おかしいなぁ。
私の涙腺は、決して緩くなんかなかったはずなのに。
最近、泣いてばっかり。
芹菜さんの穏やかで少し低い声を聞いていたら、目頭が熱くなってしまった。
「あのね、涙は心の汗なんですって。たくさん泣くと顔はむくむけど、その分心のむくみは取れるのよ。だから、泣いちゃうといいと思う」
そっか、心のむくみ。
むくんでいたのか、私の心は。
「廉の、バカ」
「うんうん」
「かをりさんの、バカ」
「うんうん」
「私があそこに住んでるってわかってるんだから、気を遣ってくれてもいいのに、バカ」
私に遭遇するかもしれないと、彼らは考えなかったのだろうか。
わかっている。
気を遣えって誰かに要求するのは、お門違いなのだ。
それは相手の好意にゆだねるべきもので、こっちから図々しく要求できるようなものじゃない。
でも、ふつう、ふつう……
「逆の立場だったら、私はきっと、会わないように気を付けるのに」
「うん、そうよね」
芹菜さんの相槌に促されて、私はその晩ずーっと、廉のバカ、かをりさんのバカ、という言葉を繰り返した。
そして翌朝。
むくみきった顔とは逆に心は驚くほど軽くなっていて、私は久しぶりに鏡を見て心の底から笑った。
変な顔。
鏡の中の自分は、痛々しげに腫れた顔で、それでもやっぱり、笑っていた。




