第2話 呪いの鞭、壊れません
「で、どうすれば外れるんだ?」
「それを俺が聞きてえんだよ!」
冒険者ギルドの向かいにある武器露店で、俺と店主のおっさんはそろって俺の右腕を睨みつけていた。
正確には、その右手にぴったりと張りついて離れない、古びた黒い鞭だ。
掴んでからかれこれ十分。全力で引っ張り、腕が抜けそうになるほど振り回し、左手で指を一本ずつ引き剥がそうと試みたが、まるで皮膚と同化したかのようにびくともしない。どうやら俺の右手は、この薄汚れたガラクタを生涯の伴侶に選んでしまったらしかった。
「おっさん、これなんなんだよ。売り物なら何か知ってるだろ」
「売ってねえっつうの! 何年も前に仕入れた武器箱の底に転がってたガラクタだ。値段もつかねえから適当に放り出してただけだ!」
「じゃあ貰っていい?」
「話を聞け! まず俺の店を弁償しやがれ!」
怒鳴り散らすおっさんの背後には、見るも無残な惨状が広がっていた。へし折れた天幕の支柱、潰れた布屋根、路上に散乱する武具、そして真っ二つに割れた木箱。物理的に壊したのはガルドに吹き飛ばされた俺の身体だが、それを口にすれば間違いなく火に油だ。
突きつけられた請求額は、銀貨八枚。さっき荷物持ちをクビになって無一文になったばかりの男に、払える道理がなかった。
「……とりあえず、外すのを手伝ってくれ。金も職もない上に、右手がこれじゃ何も始まらない」
「ちっ、なんで壊された俺が手伝わなきゃならねえんだよ」
悪態をつきながらも、おっさんは腰を上げてくれた。根は面倒見がいい男なのだろう。
まずは力任せの綱引きだった。俺が踏ん張り、おっさんが両手で鞭の柄を掴んで顔を真っ赤にしながら後ろへ引く。掛け声とともに体重を預け合っても、俺の腕が引き伸ばされる痛みに耐えるだけで、指先は微動だにしなかった。
「力づくが駄目なら、壊すしかないな。切るか叩き折るだろ」
「普通そこまで思い切れるかよ……」
感心と呆れが半々に混ざった顔をしながら、おっさんは売り物にならない古い短剣を持ってきた。鞭の革部分へ刃を押し当て、のこぎりのようにギリギリと力任せに引くが、刃が滑るばかりで傷一つ残らない。
「もっと体重かけろよ」と言うと、「やってるわ! じゃあテメエでやってみろ」と短剣を突き出された。
俺はため息をつき、空いている左手を伸ばす。
だが、指先がその柄に触れた瞬間――。
バチンッ!
「痛っ!」
甲高い破裂音とともに強烈な電撃が走り、短剣が手から跳ね飛んだ。宙をくるくると回転し、石畳へ突き刺さる。
俺とおっさんは目を丸くして顔を見合わせた。
「……おい、今のは?」
「いや、滑っただけだ。もう一回」
「やめとけって!」
制止を無視して足元に落ちていた剣を拾おうとしたが、触れた瞬間に再びバチッと弾かれる。痛む手をさすりながら、今度は槍の柄へ手を伸ばそうとすると、「おい、確認するな! 学習しろ!」とおっさんの怒声が飛んできた。
痛む左手を抱えながら、俺は右手の黒い鞭を見つめる。
「なるほど。俺、他の武器に嫌われたらしい」
「どう見てもその鞭が他の獲物を拒絶してんだろ! どんだけ独占欲が強いんだよ!」
「聞こえてるかもしれないから、あんまり悪口言うなよ」
「怖いこと言うんじゃねえ!」
刃物で切れず、他の武器を手に取ることも許されない。呪いとしての完成度がいっそ清々しいほど高かった。
「切れないなら、叩き潰すか」
呆れるおっさんを促して店の裏手に回り、作業用の金床に鞭を乗せた。おっさんが両手でずっしりと重い大槌を構え、狙いを定めて振り下ろす。
ガァン! ガァン! ガァン!
甲高い金属音とともに激しく火花が散り、やがて息を切らしたおっさんが槌を止めた。額の汗を拭う彼に結果を尋ねると、「槌の打撃面のほうがへこんで、鞭には傷一つねえよ」と信じられない答えが返ってきた。
「強いな」と呟くと、おっさんは「なんで嬉しそうなんだよ!」と肩を怒らせる。試しに燃やそうかと提案したが、「店の前で火を使うな」と即座に却下された。
見た目は長年放置されたただの古革なのに、強度は文字通り桁外れだ。
ぶらりと右手に下がる黒い革を見つめているうちに、ひとつの考えが浮かんだ。
「おっさん。これ、もしかしてかなり業物なんじゃないか? 絶対に壊れないなら、武器として最高だろ」
「相手に当てられればの話だ。鞭なんて素人が扱える代物じゃねえよ」
もっともな指摘だった。だが、外れない以上は付き合っていくしかない。
俺は露店から少し離れ、野次馬が遠巻きに見守る通りの中央へと歩み出た。伸ばしてみると、自分の身長の倍以上はある。振った経験など一度もない。
「おっさん、こうか?」
「待て、こっち向けんな!」
剣を振るう要領で、腕の力に任せて大振りに一閃してみる。
ぶん、と鈍い風切り音が鳴り、鞭の先が地面を情けなく擦った。お互いに無言のまま見つめ合う。
もう一度振ってみたが、今度は空中でだらしなく円を描き、自分の足元へ絡まりかけた。
「だから言ったろ!」とおっさんが腕を組んで前に出る。「鞭は剣みたいに腕力で振り回すもんじゃねえ。根元から波を送るんだよ。しならせて、最後に先端へ力を集める。こう……肩から動かして、腰も使って――」
おっさんが身振り手振りで見せてくれた動き。
波。しならせる。先端へ力を集める。
理屈の意味は半分も分からなかった。
けれど――おっさんの肩が動き、腰が回り、肘が遅れてついてきて、最後に手首が返る。その一連の動きだけは、なぜか異様なほどはっきりと目に焼きついた。
「……こうか?」
右足を半歩引き、肩の力を抜く。
鞭の柄を握る感触に意識を集中させ、ゆっくりと息を吐き出した。
振りかぶった瞬間、考えるより先に身体が連動した。
足裏から腰へ、腰から肩へ、肩から肘、そして手首へ。すべてが一本の線のように滑らかにつながり、黒い革へと波が走る。
根元から先端へ向かうにつれ、細く、鋭く、速くなっていくその軌跡が、不思議なくらい見えた。
――ここだ。
手首を鋭く返す。
次の瞬間。
パァァァンッ!!
鼓膜を劈くような爆音とともに、大気が破裂した。
野次馬たちが一斉に耳を塞ぎ、屋根に止まっていた鳥が驚いて飛び立つ。あまりの衝撃音におっさんまでもが尻もちをついていた。
「な、なんだ今の!?」
「知らん! 俺もびっくりした!」
「……いや、上手くしならせりゃあ鞭は鳴るもんだが……」
立ち上がったおっさんの顔が引きつっていた。初めて握った奴が一発で鳴らせるはずがない、と信じられない様子で呟いている。俺が才能あるかもと笑うと、いつもの調子で怒鳴り返してきたが、その声のトーンがふいに変わった。
「待て……おい、あれ見ろ」
おっさんが震える指で指差した先を見る。数歩離れた場所に立てかけてあった作業用の厚い木板――その表面に、一本の鋭い裂け目が走っていた。
細く、深く、まるで鋭利な刃物を叩きつけたかのように木板が抉れている。
「鞭って、ああなるのか?」
「ならねえよ!」
「じゃあ何で?」
「それを俺が聞きてえんだよ!」
今日何度目か分からない怒声を聞きながら、俺は右手を持ち上げた。
薄汚れていて、外れなくて、他の武器も持てない。間違いなく厄介な呪具だ。
けれど、木板に残った切断痕と自分の右手を見比べたとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……これなら、俺でも戦えるんじゃないか?」
十五歳で《無知》を授かってから二年。魔法も剣も弓も扱えず、仲間の荷物を背負って歩くことしかできなかった。その荷物持ちすら、今日クビになったばかりだ。
でも、初めてだった。自分にも扱えるかもしれない武器を見つけたのは。
「おっさん! もう一回やっていいか?」
「待て、せめて木板から離れろ!」
「分かった!」
言われた通り反対側へ身体を向け、手首をしならせて構え直す。
「よし、これなら――」
「バカ、店からも離れろぉぉぉ!」
おっさんの絶叫をかき消すように、パァァァンッ、と小気味のいい破裂音が青空へ響き渡った。
その日。俺は初めて、荷物持ち以外の生き方を見つけた。




