第30話:爆炎の去り際
数年が経った。
帝国は終わらなかった。
皇帝が死に、神官長が倒れ、判事が消えた後も、帝国という構造は残った。次の皇帝が立った。祝福制度は残った。加護ある者が優位な社会構造は変わらなかった。
しかし何かが変わっていた。
奇跡が化学触媒だったという事実は消えなかった。知った人間が忘れなかった。忘れなかった人間が別の人間に話した。話が広がった。帝国が封じようとしたが、完全には封じられなかった。
加護の神聖さが、少しだけ揺らいでいた。
少しだけだった。世界が根本から変わったわけではなかった。しかし一度揺らいだものは、元には戻らない。揺らぎは続いていた。
地方の小さな村に、学校があった。
石造りの建物だった。窓が四つ。生徒が十二人。先生が一人。
先生は三十代の男だった。
無口だった。必要なことだけを言う種類の人間だった。生徒たちは最初、先生が怖かった。しかし時間が経つにつれ、怖くはないと分かってきた。ただ無口なだけだった。
今日の授業は火起こしだった。
石と金属を使った摩擦点火だった。
生徒たちが順番に試みた。うまくいく子もいた。うまくいかない子もいた。うまくいかない子に、先生は短い言葉で何が足りないかを伝えた。長い説明はしなかった。見せた。生徒が真似した。
火が生まれた。
「燃えるのは魔法じゃない」と先生は言った。「空気だ。燃えるものと、空気と、熱が揃えば火になる。それだけだ」
生徒の一人が手を挙げた。七歳くらいの女の子だった。
「先生は加護がないの?」
先生は少しの間、その子を見た。
「ない」と答えた。
「じゃあ何で燃えたの?」と女の子が続けた。純粋な疑問だった。加護がなければ魔術が使えない。魔術が使えなければ火が出せない。しかし先生は火を出した。その疑問だった。
「自分の頭で考えたからだ」と先生は言った。
女の子は少しの間考えた。それからまた手を挙げた。
「頭で考えたら、魔術が使えるの?」
「魔術じゃない。仕組みを知っているだけだ」
「仕組み?」
「火が燃える理由を知っている。知っているから、火を起こせる。魔術師は加護が理由を知らなくても火を出せる。俺は理由を知っているから火を出せる。方法が違うだけで、結果は同じだ」
女の子は頷いた。分かったような、分からないような顔だった。
しかしその疑問は残った。残った疑問は、いつか別の問いになる。それでいいとカールは思った。
授業が終わった。
生徒たちが帰っていった。村の方向へ走っていく子もいた。ゆっくり歩く子もいた。
空では魔術師が飛行していた。
帝国の魔術師だった。巡回しているのか、移動しているのか分からなかった。青い空の中を、人間が飛んでいた。
世界は完全には変わらなかった。
加護ある者が空を飛んでいた。加護なき者が地上で火起こしを教えていた。その構造は変わっていなかった。
しかし地上で火起こしを教えることが、今は許されていた。数年前は許されなかった。その変化だけが、今のところ確認できる変化だった。
十分かどうかは、カールには判断できなかった。
判断する必要もなかった。
学校の窓から外を見た。
遠くに人影があった。
村の外れだった。農地の向こうに、人が立っていた。遠かった。顔は見えなかった。しかし分かった。
エレンだった。
装置は外した。神官庁の技術者を見つけるのに半年かかった。技術者が装置を外すのにさらに三ヶ月かかった。安全に外すために、慎重に時間をかけた。
エレンは戻ってきた。
全部が戻ったわけではなかった。制御されていた期間の記憶は断片的だった。繋がっていない部分がある。しかし自分の意思で動けるようになった。自分の言葉で話せるようになった。
エレンは別の村で化学を教えていた。
カールが教えているのとは別の場所だった。別々に動いていた。
今日、なぜここにいるのかは分からなかった。
エレンが手を振った。遠くから、小さく振った。
カールは見ていた。
気づかないふりをした。
教材の片付けを始めた。石と金属を箱に戻した。炭筆を棚に収めた。生徒たちが残していった紙を束ねた。
いつも通りの片付けだった。
学校を出た。
石造りの建物の扉を閉めた。
外の空気が冷たかった。秋になっていた。
歩き始めた。
村の方向へ歩いた。
足音が後ろで聞こえた。
エレンが歩いてきていた。農地の向こうから来ていた。カールの歩く方向に向かって来ていた。
足音が近づいた。
カールは一度だけ立ち止まった。
振り返らなかった。
「遅い」
それだけ言って、また歩き出した。
エレンが後ろからついてきた。
カールは振り返らなかった。
しかし歩く速さを、少しだけ落とした。
村への道が続いていた。空では魔術師がまだ飛んでいた。地上では加護なき者が歩いていた。世界は変わっていなかった。
しかしカールの復讐は終わっていた。
静かに、終わっていた。
道が続いた。
二人は歩いた。
<了>




