04
闇は濃密な布のように二人を包み込み、足元から冷たく乾いた空気が吹き上がってくる。
田中は体が言うことを聞かず、座ったまま震えていた。黒木は躊躇なく闇へ飛び込み、着地した瞬間に周囲を一瞥した。視界の端には、遠くで流れる川の光が青白い帯となって揺れているのが見える。
そこから少し手前に、奇妙な門のような構造が見えた——忘却の門。門の傍らに佇むのは、長いローブとマントを纏い、杖を携えた老人。顔は骨ばみ、胸部は骨格だけが覗いている。彼の存在は、この場所が現世ではあり得ないことを、疑いようもなく告げていた。
老人はゆっくりと声を発した。低く、この地の風がこだまするかのような口調で。
「この門を越える者は、善の記憶を捨てよ。捨てぬ者は、此処に留まるがよい」
黒木は近づいていき、やがてその老人──カルンの顔をじっと観察し始めた。骨と布と杖。死と仕事の匂いが混じったような、得体の知れない存在感だった。
一瞬、田中が顔を上げてカルンに助けを求めようとした。喉が開き、息が声帯を震わせて言葉になりかけたその瞬間、田中の視線はふと老人の胸元に落ちる。
皮膚がない、そこには灰色の鉄のような肋骨が鎮座している。田中の叫びは、恐怖と理解の到来で空気を振動させるのみで、声になる前に途切れた。
黒木はポケットに手を突っ込み、つまみ出したマルボロに火をつけた。炎が先端を焦がし、煙が闇のうねりに小さな渦を作る。
カルンは杖を黒木に向け、声をさらに強めた。
「生者は立ち去れ」
黒木は振り向きもせずに応じる。
「うるせぇ。じぃさん、少し黙ってろ」
タバコの端をくわえたまま、彼は肩越しにカルンを眺める。火の揺らめきに思考を沈めるように、しばし間を置く。やがて顔を上げ、口の端で火を吐くように尋ねた。
「おい、じぃさん。ここから帰るには何処に向かったらいい?」
カルンは杖を握り直し、低く告げる。
「帰路がないか……では、鍵——この杖を門に差し出すべし」
黒木は杖を見据え、フッと笑った。タバコの灰を冥府の地に落としながら言う。
「じゃあ、それを俺によこせ」
「え?」
田中の目が白と黒を往復させ、恐怖と不安で顔が引きつっている。
「帰るのは……お主だけか?」
カルンの問いに、将は必死に答えた。
「お、俺も帰ります!」
カルンは静かに首を振り、次の一言でその場を引き締めた。
「ならば、私を退けて行け」
その瞬間、老人の顔がまるで別人のように歪んだ。眼は細く、また口角も裂けるように吊り上がり、狂気に染まっている。杖を前に構え、骨ばった指がきしむように動く。戦闘態勢に入った彼の形相は、門を護る番人そのものだった。
胸の中で鐘が暴れ「ガラン!! ガラン!!」と激しく音を立てる。
「おぃじぃさん、何をはしゃいでんだ? ガラガラうるせぇぞ?」
黒木は軽く肩をすくめると、田中を突くように続けて言った。
「おぃ田中、手錠を外してやるからこっちにこい。あのじじぃと喧嘩だ。お前が強い男なのかどうか、見定めてやる」
「え? 喧嘩? はぁ?! そんな事できるわけないじゃないですか!!」
将は恐怖と混乱でどうにかなりそうだった。足が震え、尻もちをつきながら後ずさる。黒木は躊躇を許さず、手にしていた煙草を指先で摘むと、無造作に将の肩へ押し付けた。火はまだ消えていない。将の白いシャツが煙草を潰し、暗がりに火が散る。
「熱ッッ!!」
「うだうだ言ってんじゃねーよ。今、手錠を外してやる。ほら、さっさと行け」
「行けって……行ってどうしろっていうんですか!?」
「てめぇで考えろ。不良のくせして喧嘩もできねぇのか?」
「そ、そんな事言われたって……」
「面倒くせぇな。俺に殺されたいのか? 陽動で構わんから、早く動け」
将は喉を鳴らし、軽石にまみれたような地面を這いずり出す。目は恐怖で潤み、歯が小刻みに鳴る。
「キィン」と乾いた音を立ててZIPPOの蓋が跳ねた。黒木は再び煙草に火をつけて煙を吐きながら、カルンの影と門の輪郭を交互に見つめた。
呻きと嘆きを伴う冥府の風が二人の間をすり抜け、門の向こうでは川が揺れている。時間という等しく与えられた概念ですら、浸食され、朽ちていくようだった。




