第百十七話
『たった少し我の力を出しただけで、動けなくなるとは情けない小娘だ』
圧迫感のせいで呼吸はできない。沈んでいく体に、力を入れることすらできなかった。
『少しは藻掻いて見せたらどうだ? 藻掻いたところで無駄だろうがな』
「……こ、ぁ」
手が震える。泥が顔にまでまとわりつく。
揺れる目玉の花が、キシキシと嗤っているように感じた。
泥が口や鼻を覆って、呼吸ができなくなる。目だけを動かして、体力バーを見やった。
死ねばいい。
プレイヤーには復活ポイントがある。二回までなら消えることはない。
『だから自分は大丈夫とでも思っているのか?』
その言葉が耳から入り、脳髄を這い回る。そのまま背筋を走り、体を痺れさせる。
頭の中に思い浮かぶのは、ルシが復活ポイントを削った出来事である。
そんな干渉をNPCが頻繁に起こすことができるのか?
『……何か別のことを考えておるな?』
違うのかと安心したのも束の間だった。
『お前を殺すなど生温い。永遠に捉えて、我の傀儡にしてやる』
「ん……!」
『死ねるから安全などという、そんな傲慢なことが通用すると思っておるのか?』
また、目玉の花が不気味に揺れて嗤う。泥に覆われていく視界。真っ暗となり、見えなくなっていく。
感覚もない。音も聞こえない。ただ、何もない空間に放り出されたような感覚だ。
下も上もない空間は、心の中に恐怖を植え付けてくる。
いつまでここにいるのかもわからない。ただ、手は虚空を掴むばかりであった。
いつの間にか服は纏っていなかった。自分の体は、線の細い少女のものだ。足先から赤黒く染め上げられ、それがふくらはぎから太ももへと登っていく。
尻尾がいつの間にか前に回る。悪魔族のそれは意思を持つように真っ二つに裂けた。そこから一本一本牙が生え、長い舌が現れた。
自分の体が変容していると気がついたのは、その時だ。しかし、ヒカルにはどうしようもなかった。
考えも何も浮かばない。ただ、自分の体は冷たくなっていくだけだ。
このまま、ここにいるのもいいのかもしれない。薄れゆく意識の中で、ヒカルは静かに呼吸した。
「──ヒカル!」
グイッと。本当にわけも分からずに手が引っ張られた。よろけた瞬間、ヒカルは“凍った花畑”を踏んでいる。
辺り一面、雪が降っている。
手を引っ張っていたのは、サクラだった。彼女は涙目になってヒカルのことを見つめている。
しばらくボーっとしていたヒカルは、頭を軽く振った。額に手を当てて、呼吸を再開する。
「俺は……どうした?」
「囚われかけていたそうです……」
「何に?」
聞き返すと、サクラが首を振る。
「ベルフェゴールの力の残滓が遺っている。ここは爪よりも強力な魔力が使われたんだろう」
聞き覚えのある声に、顔をそちらに向ける。大きな青色の狼──フェンリアルがこちらを向いていた。
その傍らには、ミサキが立っている。彼女は心配そうにこちらを見つめ、何かを言いかける。しかし口を閉ざして、拳を胸の前で握っていた。
「ここは奴の影響圏そのまま残っている。ヒカルよ、ベルフェゴールに睨まれたことをしたな?」
「……一時的に操られたベルを、奴から解放した」
「どおりで……」
フェンリアルは呆れるように大きなため息をついた。
顔をこちらに近づけてくる。
「しばらく雪の世界から出るな。奴の影響圏に行けば、即刻見つかる」
「ここは、大丈夫なのか?」
「ルシファーとの魔力が混ざりあって、ベルフェゴールはここに中々手は出せん。雪はルシファーの力が及んでいる死の気候なのだ」
フェンリアルの説明を聞きながら、数歩下がる。
先ほどまでの花畑が凍っていることに、ヒカルは首を傾げた。
「これは……?」
「一時的に私が力を使った。しかし、奴の力を消すほどではない故、いずれ溶けてもとに戻る」
大狼は、ミサキとサクラを見回す。
「お前たち、依頼された薬草は収穫したな?」
「はいです」
「はいっす」
二人の返事を聞いて、フェンリアルは一人一人の襟首を口で咥える。乱雑に上に放り投げると、そのまま背中へと乗せる。
ふわふわの毛に包まれて、温もりを感じるように息をつく。
少し落ち着いてから、ヒカルは口を開いた。
「フェンリアルがなぜここに?」
「今すぐに吊り橋の補強はできない故、私が迎えに来たのだ。あれしきの距離ならひとっ飛びできる」
「……そうだったのか」
「ヒカルよ。しばらくここには近づくな。雪の中にいても、また攫われるかもしれん」
言われ、無言で頷く。フェンリアルは満足げに微笑んだような気がした。
「それでは、帰るぞ。舌を噛まぬように注意しろ」
そう宣言すると、走り出す。




