閑話・2
植物園とはいえ、小さな街に作られているものであるため、入り口から敷地内が見える程度の広さだった。入園者も少なく、二人の身分がバレる心配もなさそうである。
舗装された道沿いには花が咲き、植物園の中央のスペースは広場のような設計だった。
「ここには来たことがあるんですか?」
「植物園はねぇな。この街には視察で何度か」
「なるほど、だから道に迷わなかったんですね」
二人は植物を楽しみながら歩き、所々に設置されているベンチの一つに並んで腰掛ける。
「小さな街にも足を運ぶんですね。ヴァレク様は真面目で素晴らしい方です」
「……そりゃあ、こういう街ほどよく見とかねぇと。王都は目が届くから良いが、少し離れたところはちょっと目を離した隙に一気に壊れやがる」
「ふふ、あの宿屋の店主様がヴァレク様にすぐにお部屋を提供してくれた理由が分かりますね」
「あの宿屋には何もしてねぇ」
「噂は流れるものです。そして、人は意外と気付かないところから見ているものですから」
風が吹くと、帽子が飛ばないようにとクラリスは咄嗟に頭を押さえた。
その目は真っ直ぐに遠くを映して、ヴァレクを見ることはない。サラサラと葉の揺れる音を聞きながら、ヴァレクは影が揺れるクラリスの横顔を見ていた。
「謝ろうと思ったんです、ヴァレク様に」
静かな中で聞こえた言葉は、ヴァレクにとっては予想外なものだった。
はて、謝られるようなことをされたんだったか。
思い出そうと記憶を遡ってはみるが、特に思い当たることはない。
「……俺に何かしたのか?」
「アストラ様を疑われて、感情的に怒ってしまいましたから」
「ああ、そのことか」
その後レオンハルトが倒れたこともあり、バタバタとしていて忘れていた。
謝るということはこのあと改めて怒ることはないのだろうが……クラリスにしては珍しく声を張り上げて怒っていたということもあり、ヴァレクは気まずげに目を逸らす。
「あのあと、ルーちゃんと少し話をしたんです。ルーちゃんに他意なく諭されて、客観的に見たアストラ様の動きの違和感を私も理解しました。だから、ヴァレク様に酷い言葉を言ってしまったことを謝りたかったんです」
風が止まると、帽子を押さえていたクラリスの手も緩やかに膝に戻る。
同時にヴァレクに振り向き、そしてすぐに顔を伏せた。
「すみませんでした。アストラ様と昔から関わりのあるヴァレク様が疑っていたから許せなかった気持ちもありましたが……思えばヴァレク様は、何事も自分の感情で判断してはいけない立場の方ですから、あの場面でアストラ様を疑うことは正しかったと思います」
「……別に気にしてねぇよ」
「私の問題です。……ヴァレク様は大人ですね。私はどうしても、感情的になってしまうことがあります」
顔を上げたクラリスは、再びどこか遠くへ目をやる。
「先ほども、その件でみんなに気を遣わせてしまいました。……北の聖地に向かうのは、アストラ様がそこに行ったからですよね」
「……まあ、そうだが」
「聖地といえば、各大聖堂にとって必要不可欠な清浄の場所です。湖や巨石、巨木、あるいは土地を、『清浄の器』として、必ずそばに置いています。そんな場所にアストラ様が……王都の司教が行く理由は通常であればありません」
クラリスの横顔は、少しだけ悲しそうに見えた。しかし落ち込んでいる様子はない。ヴァレクはそれを盗み見ると、クラリスと同じように遠くに目を向ける。
「……教えてください。ヴァレク様が知っていること、考えていること……私も、みんなと一緒に戦いたいです」
さらりと優しい風が吹き、クラリスの髪を揺らす。
ヴァレクから見たクラリスの第一印象は、「いつも何かに追われて焦ってる奴」という、良くも悪くもない、まったく無関心なものだった。
出会ったのは五歳の頃だ。ヴァレクが突然記憶を無くしてから二年。そんな境遇だったがヴァレクは落ち込むことなく、むしろ今のように自信満々に暮らしていた。
ヴァレクがそういう性格だからこそ、クラリスの様子が余計目についたのかもしれない。
クラリスは幼いながらに常に動いていた。誰かの手伝いを自ら請け合うくせに、やりたくてやっているようではないその様子が、ヴァレクには心底不思議だった。
『クラリスは、居場所が欲しいのかもしれませんね』
ヴァレクにそう言ったのは、クラリスの親代わりであるアストラである。
『クラリスは私の子ではないんですよ。ある日、大聖堂の礼拝堂に置かれていたんです。あの子はきっと、捨てられたくなくて必死なんでしょう』
『でも、周りはあいつをすごいって言うぞ。きっと素晴らしい聖女になると』
『そう。周囲は何も知りませんから、言いたいように言って、思いたいように思います。……クラリスはね、確かに素晴らしい魔力を持っていますが、うまく扱えないんです。扱えない魔力は無いものと同じでしょう。おかげで本人は、自分には魔力がないのだと思い込んでいます』
ヴァレクには不思議だった。
なぜ扱えないのか。それは自分が出来るからこその疑問であり、そしてクラリスからすれば傲慢な思考だった。
『俺が教えてやろうか』
ヴァレクはある日、思い詰めた様子のクラリスを見つけ、唐突に声をかけた。
しかしそんな一言にも、クラリスは嫌われないようにと曖昧な顔で笑うだけである。
『殿下のお手を煩わせるわけにはいきません』
『でもお前、魔力扱うの下手なんだろ』
『殿下には関係ありませんから』
『関係はねぇけど……アストラが気にしてたぞ、お前のこと。もっと周りに頼ったらどうだ』
ヴァレクからすれば、それは何気ない言葉であり、そして正論だった。クラリスはいつも一人で行動して、そして一人でこなしている。手伝いも勉強も黙々と進め、誰かと親しくしている場面を見たことがない。
しかしクラリスにはどう響いたのか。ヴァレクの言葉を聞いた途端、クラリスの表情が怒りに変わった。
『……動いていないと、落ち着かないんです。ただでさえ何もできない、期待にも応えられない私が、誰に頼れると言うんですか。自分で動かないといけないんです。自分で全部やらないと……私みたいな者は、みんなのために人一倍動かないといけないんです』
激昂したわけではない。怒鳴られたわけでもない。それでもヴァレクにはそれと同じくらいの感情が感じられて、すぐに頭を下げた。
『そうか、そう思ってたのか。悪かったな』
あまりにあっさりと謝られては、クラリスも何も言い返せない。
『じゃあ一緒にやろう。俺もちょうど試したい魔法とかあったし』
『一緒に……?』
『おう。そのほうが上達早そうだろ』
『ですが、殿下には何のメリットもありませんし』
『アストラが気にしてた、それだけでいいだろ。俺はアストラを友達だと思ってるしな』
クラリスは何かを考えるように瞬きを繰り返すと、やがて小さく「よろしくお願いします」と呆けた様子で呟いた。
ヴァレクにとっては気まぐれだった。アストラが気にしていたからというのは本音だが、当時は退屈すぎたということもある。
不意に昔を思い出してしまったヴァレクは、そこでようやく我に返った。
クラリスが「一緒に戦いたい」なんて言うから、その成長に思わずトリップしていたようだ。
「……昨晩、侵入者が居ただろう。奴が、首謀者はアストラだと証言した」
「……そうでしたか。狙いは何でしょうか」
「お前らしいぞ」
まさか自分の名前が出るとは思わなかったのか、クラリスは思わず振り向き、目を丸くして首を傾げる。
「……私ですか?」
「らしい。奴はお前を『神』と呼んでいた。なんか知らんが連れて行きたいんだろ」
「それはなんというか……痒くなってきそうですねぇ」
「やめてやれ……」
クラリスは今度、顎に手を当てて考えるように腕を組む。
「そうですか。人の子ではないと言われた次は、神ときましたか。これは次も楽しみです」
「楽しむな。……アストラがお前をなんのために拾ったのかは知らねぇが、こうなる未来を予想していた可能性もある。胸糞わりぃ」
ヴァレクは煩わしそうに舌打ちをする。
「……実は私、拾われた頃の……おそらく、生まれた直後の記憶があるんです」
「…………はあ?」
「ふふ、不思議な話ですよね。目はしっかりと見えていなかったと思います。なにせ視界は明るくてぼんやりしていて、まるで膜を張られていたかのようでした」
クラリスは思い出すように、一度間を置いた。
「そのぼんやりとした世界の中で、聞こえたんです。『こっちの子を引き取ろう。君はごめんね』と。アストラ様の声でした」
「……そうか。それは……」
「おそらく私には兄弟がいたのでしょう。そしてその兄弟は拾われませんでした。だからこそ私は余計に捨てられたくなくて、ごめんねと言われたくなくて、期待値以上を出せるように頑張って、アストラ様に縋って生きてきました」
ヴァレクの表情が厳しいものに変わる。そんなヴァレクを見て、クラリスは眉を下げて笑った。
「気にしないでください。私は気にしていないんです。私がアストラ様でも、一人以上引き取ることはしないと思います」
「でもなぁ……」
「まあつまり何が言いたいかと言うと、私はアストラ様には感謝しているんです。だから何か馬鹿げたことをしているのなら止めたいとも思います。一人では無理でも、みんなで一緒に」
「…………効率的にとか言うんだろ」
「その通りです!」
言い当てられたクラリスは、なぜかやけに嬉しそうである。
「効率的な作戦として一つ、良い手があります」
「却下だ」
「まだ何も言っていませんよ」
「言わなくで分かんだよ。どうせ囮になるとか言うんだろ」
「言います」
「却下だ」
むっ、と、クラリスの顔が不服げに歪んだ。
「私は強くなりましたよ。ヴァレク様ほどではありませんが、それなりに魔力もありますし」
「知ってる」
「それなら良いでしょう。私が敵陣に先に乗り込むので、みなさんはあとから来てください」
ヴァレクは納得できない様子で、クラリスを睨みつけた。
「おそらく、相手に厄介な奴がいる。呪いを扱い、力も強かった。お前が単独で乗り込んで無事でいられるとは思えない」
「あとから来てくださるじゃないですか」
「……神として連れられて、何をされるか分かったもんじゃねぇだろ。神だから犠牲になれといきなり殺されたらどうする。それこそ魔力が強ぇから狙われてるのかもしれねぇしな」
「それならヴァレク様が狙われるはずでは」
「とにかくダメだ」
ヴァレクの睨みにも負けず、クラリスの不服顔は続く。
「過保護すぎます」
「心配してると言え」
「いいえ、過保護すぎます。ヴァレク様は昔からそうです。特に十六歳の頃から、どこに行ってもヴァレク様と会うようになった気がします」
「……お前が倒れるからだろうが」
「それいつも言いますけど、そんな覚えはありませんよ。当時私は、本当に倒れたんですか?」
「本当に倒れたんだよ、俺の目の前でなぁ」
当時を思い出したのか、ヴァレクは苛立ったようにこめかみに青筋を浮かべていた。忘れているのが余計に腹立たしいのだろう。あるいは、「あの程度で」とでも思っていそうな態度が癪に障るのか。
「まあ良いでしょう。ルーちゃんならきっと分かってくれます」
「仲良くなりやがって面倒くせぇ」
「あら、拗ねないでください。ヴァレク様とも仲良しですよ私は」
「仲良しとかいいんだよ」
なぜこうもズレているのか。
すっかりクラリスのペースに巻き込まれたヴァレクはむしゃくしゃする心地のまま、クラリスの頭を帽子の上からぐりぐりと乱暴に撫でていた。




