薔薇姫の怒り
噎せ返るような薔薇の香り。
豪奢な花瓶はおよそ千年前に作られた、新ロッテンマイヤー派の傑作だ。
赤い絨毯が敷き詰められたこの休憩室は、公爵家の所有する数ある屋敷の中でも、選りすぐりの高貴な血を引く子供たちだけに許された特別なサロンである。
しかし、高貴で気品あふれるその空間は今、無残に打ち砕かれていた。
「ふざけないで……どいつもこいつも!」
ガッシャーン、と乾いた音が響く。アリアーシャが投げつけた置物が、千年の歴史を誇る壁飾りを粉砕した。
燃えるような薔薇色の髪。兄譲りの、宝石のごとき黄金の瞳。
『薔薇姫』と呼ばれ、最高級の賛辞だけを浴びて生きてきたアリアーシャ・ロッテンマイヤーは、今や怒れる猛獣のようだった。
若干10歳。猫のように愛らしいつり目も、総レースのゴールドのドレスに包まれた細い体躯も、今は苛烈な情念を撒き散らすための器でしかない。
「……随分と荒れているね、リーシャ。せっかくの最高級品が泣いているよ」
革製のソファに深く腰掛け、骨ばった長い脚を組んでいるのはユリエル・ローデンフィ。
黄金色の髪に、澄んだ水のような瞳。ローデンフィ侯爵家の18歳であり、次期ロッテンマイヤー一族の当主候補の一人だ。不健康そうな青白い顔に薄い笑みを浮かべ、彼は壊れた調度品を惜しむように眺めた。
アリアーシャの不機嫌の理由は、社交界の誰もが知っている。
サミュエル・ロッテンマイヤー――彼女の兄であり、一族の絶対的な王の器が、宿敵エスメラルダに屈辱的な形で拐かされたからだ。
「納得がいかないわ。なぜお父様は、お兄様をあんなにあっさりと手放したの!」
「当主様は思慮深い方だ。何か……僕たちには測り知れない策があるのだろう。あのサミュエルが、無策でやられるはずがないと信じたいんだろう?」
「当たり前よ!」
パリン、とまた一つ、クリスタルのグラスが犠牲になる。ユリエルは深くため息をつき、宥めるように彼女の頭に手を伸ばした。
「エインリッヒ・エスメラルダは化け物だ。無策に挑めばロッテンマイヤー全土が……いや、大陸が焼かれる。当主様もそれを危惧されたのさ」
「悠長なこと。……あら、おめでとうと言ったほうがいいのかしら? ユリエル」
アリアーシャはユリエルの手を振り払い、幼い顔には不釣り合いな冷酷な笑みを浮かべた。
「お兄様が消えて、次期当主の座が空いたんですものね。でも、貴方のその『まがい物の金』で、誰が跪くとでも思っているの? 貴方じゃお兄様の足元にも及ばないわ」
ユリエルの瞳から温度が消えた。部屋の空気が一瞬で氷点下まで凍りつく。
「口を慎みたまえ、アリアーシャ。サミュエルの庇護なき今、君一人を『処理』することなど、僕には造作もないことだ」
「やってみなさいよ。返り討ちにして、その薄汚い瞳を抉り出してあげる」
「……やれやれ。僕は紳士だ、女性を害するのは趣味じゃない。だが、これ以上茶が不味くなるのは御免だ」
ユリエルが短く指を鳴らすと、控えていた従者が音もなく現れた。
「『贄』を二人、いや三人呼んできてくれ。新鮮なやつを」
「ユリエル……今は狩りの気分じゃないと言ったはずよ」
「僕の気分なんだ。苛立ちを鎮めるには血が一番だろう?」
ユリエルは立ち上がり、上着を整えた。その横顔には、ロッテンマイヤー特有の、美しくも歪んだ残酷さが張り付いている。
「そういえば、ルドヴィカはどうするのかしら。あのお兄様にベタベタしていた女狐」
「ルディかい? 彼女は賢いよ。もう僕の婚約者になりたいと手紙を寄越してきた。サミュエルを見限る速さだけは一流だね」
「穢らわしいわ。どうせ貴方も、一度抱いたら捨てるんでしょ」
「失礼な。僕は紳士だからね、飽きるまでは大切にするさ」
アリアーシャは吐き捨てるように背を向け、バルコニーへと歩き出した。
「どこへ行くんだい?」
「風に当たるのよ。貴方の腐った匂いに当てられそうだから」
下の広間では、夜会が続いていた。アリアーシャが姿を現すと、壁際にいた貴族たちが一斉に姿勢を正す。
「親愛なるアリアーシャ様……」
「ご機嫌よう、公女様」
畏怖と同情の混ざった視線。サミュエルの不在によって、彼女への敬意には隠しきれない「好奇心」という毒が混じっていた。
「リーシャ。こんな掃き溜めに顔を出すなんて珍しいじゃないか」
声をかけてきたのはヴィンセント・ローデンフィ。ユリエルの2つ歳上。若干20歳にして、次期ロッテンマイヤー族長候補の彼は、ユリエルとは違い、常に大衆の中に混じることを好む男だった。
「ヴィンス。貴方のその、誰にでも媚びを売る性格には反吐が出るわ」
「はっ、手厳しいな。だが皆、お前の兄貴の可哀想な噂で持ちきりだぜ?当主は今日も欠席。真実を知りたがって、皆この宴に群がってる」
周りの吸血鬼たちが、聞き耳を立てるように静まり返る。アリアーシャは黄金の瞳を爛々と輝かせ、広間にいる全員を見渡した。
「愚か者共、聞きなさい。サミュエル公子は今、極秘の任を帯びて潜入捜査をされているだけよ」
彼女の全身から、怒気が放たれる。
「下卑た噂を流す者は、お兄様が戻られた際、真っ先にその舌を抜いて贄に捧げると約束してあげるわ。……わかったかしら?」
気圧された群衆が、蜘蛛の子を散らすように散っていく。しかし、ヴィンセントだけはニヤニヤと笑いながら彼女の後に続いた。
「いい芝居だったぜ、リーシャ。でも、本当は困ってんだろ? 助けてやろうか」
「結構よ。貴方に借りを作るくらいなら、今すぐ心臓を杭で突いたほうがマシ」
「相変わらず生意気だな、落ち目の公女様が」
その瞬間、ヴィンセントの背後の壁が、目に見えない衝撃で爆ぜた。
アリアーシャの指先から放たれた不可視の炎――――彼女の特性が、彼の頬をかすめていた。
「殺すわよ、ヴィンセント。次は外さない」
アリアーシャは一人、夜の闇へと消えていく。その背中は、震えるほどに孤独で、けれど決して折れないロッテンマイヤーの矜持に満ちていた。
「……あーあ、怒らせちゃったか。さて、可哀想で可愛い従姉妹のために、少し『エスメラルダの宝石』について調べてやるとするか」
ヴィンセントは頬の傷を指でなぞり、それを舐めとると、暗い愉悦を瞳に宿した。




