咲かせる少女
光の差す森の中を、一人の少女が走っている。
帰らずの森と謳われた、誰も入るはずのない場所だった。
少女は大人になる前の、淡く儚い美しさを放っている。
その姿は、立ち並ぶ木々の間で、不思議と輝いて見えた。
深い森は、雫に濡れて静けさを保っている。聞こえるのは小鳥のさえずりと、自分の足音だけ。靴が泥で汚れるのも構わず、少女は走る。飴色の髪が、木漏れ日を受けてオレンジに光った。
服はぼろぼろだというのに、二つの瞳に陰りはない。息を切らし、道も分からないというのに、少女はどこかへ向かい、一心に走り続けていた。
どこまで行こうか。どこまでだって行こう。
息を切らし、煌めく瞳で、少女は思った。
木々が終わりもなく続いている。濡れるような緑の中を、少女はひたすら進み続けた。
ずっと同じような景色の中では、道に迷ったような錯覚に襲われる。いや、既に迷っているのだ。それでも少女の瞳は明るかった。
突然、視界が開けた。
少女は驚いて立ち止まる。木々が消え、ぽっかりあいた空き地に、不思議な屋敷が現れたのだ。
それは少女の住んでいた建物とは全く異なっていた。あの城は、白く、ところどころ壁がひび割れていたが、こちらは赤い屋根に、上品な茶色のレンガ造りだ。壁にはツタが絡まり、所狭しとその葉を広げている。
屋敷の周りには、崩れ落ちた鉄格子らしきものが散在していた。それは錆びた上、ぼろぼろに朽ち果てて、まったく意味を成していなかった。門や塀だったものは、間違った役目を終え、今は元が何かも分からない有様だ。
庭の主は遠い昔に死んだ。鉄格子がないならば、屋敷もなくなっていいはずだが、それはなぜかどっしりと立っている。
誰かの居場所となる屋敷。その赤い屋根やレンガ、庭の湧き水が残っているのは、魔法使いの願いか、あるいは執念かもしれなかった。
その荘厳な屋敷は、誰もいないように静まり返っている。崩れた敷居に目もくれず、少女は草地へと足を踏み入れた。
そこは、広い庭だった。
花は一輪もなく、屋根に伸びたツタは萎れ、一面が枯れた植物で覆われていた。
茶色くなったチューリップが茎をたらして俯き、キンギョソウは死んだように横たわっていた。
まるで、魔法にかけられ、呪われたような植物の墓場。
少女は息を吸い込み、静かに目を閉じた。
その手に、光が宿る。
美しく、眩いばかりの銀の輝き。
植物たちはそれに応えるように、息を吹き返した。
少女に見とれるように首をもたげ、昔の輝きを取り戻そうとするように葉を広げた。枯れたはずの茶色い茎は、生き生きと濃い緑を取り戻し、日の光をまっすぐ見上げた。
それは倒れていたものが、希望を見出し、再び立ち上がる光景に似ていた。
多くの植物たちが、庭中で蠢き、ざわめき、命の声をあげる。ぐんぐんと幾つもの茎が伸び、みるみるうちに、庭は緑で覆いつくされていった。
葉が少女の傍をかすめ、囁くように揺れる。
キンギョソウは鈴なりに蕾をつけ、スミレは小さな一つの蕾を、大切そうに膨らませた。それは皆、歓喜に満ちたように一つ震えると、たちどころに咲き誇った。
日の光を浴びながら、アリッサムが、イベリスが、シロツメクサが、名もない花々が咲き乱れていく。そのたびに色とりどりの命が揺れ、庭は笑い声をあげているようだった。
今や枯れた庭はなく、辺り一面、緑の息吹が葉を広げていた。
少女は瞳を煌めかせ、静かに微笑んだ。
眩しい日の光に目を細めながら、そのまま奥へと進んで行く。がさり、とキンギョソウの葉を掻き分けた時、少女は誰かがいることに気が付いた。
そこに、少年は立っていた。
黒い髪は質素な白い服に映え、澄んだ瞳でこちらを見ている。光の中にいた彼は、どこか人間離れした雰囲気を纏っていた。
少女の瞳は揺れて、食い入るように少年を見つめた。
彼女は一歩ずつ、ゆっくりと噛みしめるように進んで行く。
少年がおもむろに口を開いた。
「花の様子が変だと思ったら……やっぱりお前だったんだな」
少女は緑を掻き分け、静かに返す。
「あなたのために咲かせたかったの。……いつだって、受け取ってもらえなかったから」
そう言って、やっとのことで笑いかける。
「今度こそ、あなたの傍にいさせて」
風が吹き、二人の髪を揺らした。
薄桃色の花びらが舞い散る。
「俺は死んだんだ」
少年は鳶色の瞳で少女を見た。
「もうこの世には存在しない。そうでなきゃいけないんだ。だから俺は、この庭……この魔法でできた世界の果てから、出ることはない。例え誰かがこの森に入って、迷った末にここへ辿り着いたとしても、夢だと思い込んで出て行くだろう。裏切り者にとって、ここは最後の居場所なんだ」
彼はまっすぐな目で言う。
「俺はこの庭で生き続ける。もし一緒にいたいと言うのなら、お前も同じように、世界から消えるんだ。それでもいいのか?」
花びらが、少女の頬をかすめ、通り過ぎる。
少女は少年を見つめ返した。
「いいわ。もうずっと前に決めたことだから」
はっきりと答えると、少年は鳶色の瞳を細めた。
「馬鹿な奴だな」
「知ってるわ」
少女は笑って答える。
彼女の言葉に、少年の無表情がおもむろに崩れた。
その時、少女は初めて、少年が心から微笑むのを見たのだ。
それは誰もが見とれてしまうような、幸せそうな微笑みだった。
風がそよぎ、二人の髪を揺らしていく。それは優しく、どこまでも透き通っている。
くすぐったそうに笑う二人を、庭の花たちが見守っていた。
終わり
これで『ハルシュトラールの夜の果て』は完結です。
続編や番外編を書く予定はありません。
彼らのお話は、これでおしまいです。
この長い物語を最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございました。




