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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第八章 流れ星が照らすもの
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明けない夜



 エレナは思わず声をあげる。

「もしかして、外に残っている『(ノヴル)』がまだ暴れているの?」

「それもある。……でも、違うんだ」

 ロレンツォはそこで口を噤んでしまった。言いづらそうに目を伏せたものの、再び顔をあげる。彼が口を開いた、その時だった。


「大変だ!」

 別の声が、空気を割いた。どやどやと魔物達が入ってくる。

「早く、あいつを止めないと!」

「アシオンの子孫はどこだ!!」

 黒い魔物達に、シルヴィアがひっと声をあげる。身を縮めた彼女の前に、エレナが立ちはだかった。

 ロレンツォがおもむろに魔物に声をかける。

「予想はしてたけど……君達、どういう了見だい?」

「俺たちの仲間が暴れてる! もう手がつけられないんだ」

「奴を止めるには、アシオンの子孫が必要だ! そいつを渡せ」

 シルヴィアが恐ろしげに身を固くする。エレナは魔物達を睨みつけた。

「自分達の仲間なら、自分達で止めればいいでしょ。姫様を巻き込まないで」

 魔物達がぎゃあぎゃあと喚き立てる。

「だから! 俺たちじゃ敵わないんだよ! あいつは黒の王と同じくらい強かったんだから」

「まったくクリスの奴、何を考えてるんだ!」

 その言葉に、エレナは喉を詰まらせた。

「……どういうこと?」

「僕から説明しよう」

 ロレンツォが静かに向き直り、真摯な声で言った。その間も、時折後ろを警戒しているため、魔物達は迂闊(うかつ)に姫に近づけないでいた。

「よく聞いて。一匹の『(ノヴル)』が国の中央で、銀の光を出しているんだ。ここに来る途中、窓から見えたんだよ。あの『(ノヴル)』は相手構わず町を破壊しているように見えた。遠くに見えた影は……子どものような形をしていた」

 エレナはハッとする。

 ロレンツォは、それを見逃さなかった。

「あれはクリスだろう? 君は彼が町を襲う理由を知っているんだね?」

 エレナは口を(つぐ)んだ。

 まさか、そんなはずはなかった。

 彼は「(ミッド)」を殺したくなくて、グランディールに抗ったのだ。

 そんな彼が、町を襲うはずがない。


 しかし、一つの考えが胸をよぎった。

――――わたしが、姫様を選んだから?

 唐突に恐ろしさがこみあげてくる。

――――彼を、一人ぼっちにしたから?

 頭によぎるのは、月の光が零れ落ちる黒い髪。

 歪んだまま微笑む鳶色の瞳。


 彼には、何も残らなかったのだ。

 「(ミッド)」も「(ノヴル)」も敵に回し、世界から見捨てられて。

 彼の居場所は、エレナの隣だけだったのだ。

 それなのに、たった一つの希望すら見えなくなってしまった。自分の居場所も、追い求めた光も消えてしまった。

 だから彼は、エレナの選んだものを――――



「そんな訳、ないわ」

 恐ろしさに心臓が凍り付くようだ。

「彼は、そんなことはしない」

 緑の瞳をさまよわせ、エレナは呟くように言った。

 ロレンツォが肩に手を置く。

「落ち着いて、何があったか説明して」

 エレナはすがるように男を見た。

「わたし、彼を選べなかったの」

 あの時、手を差し伸べた少年の瞳は、希望に満ちていた。

「姫様を置いていけなかったの。一緒に来てくれって言われたのに」


 去り際の笑顔が目に焼き付いている。歪んだ、悲しげな顔が。

 エレナは唐突に理解する。

 彼にとって自分はすべてだったのだ。

 自分が選ばなければ、彼には何も残らない。

――――それならやっぱり、いや違う。


 ロレンツォが静かに言った。

「あの少年は、君の大切なものを壊そうとしているんだね」

 エレナは唇を噛んだ。

 言葉にされると、嫌でもその事実が心に突き刺さる。

 きっ、とロレンツォを見上げた。

「そんな訳ないわ! 彼は優しいもの! いつだってわたしを守ってくれたわ!」

 ロレンツォは静かにエレナを見る。

「城にいた時から、あの子はどこかおかしかった。いつも歪んだ顔をしていて、危険だとは思っていたんだ」

「やめてよ!」

 エレナは叫んだ。心の中では事実だと分かっていたが、認められなかった。

「クリスはそんなことしない!! そんな風に言わないで!」

「君の気持ちは分かる」

 ロレンツォは静かにエレナを見た。

「だけど、こうは考えられないか? 彼は狂ってしまったって」

 その言葉に、あの老人が思い出される。ガラス玉のような、空っぽの瞳。

 違う。クリスの目は歪んでいるけれど、あんな空っぽなんかじゃない。

「やめて! やめてよ!! クリスは狂ってなんかいないわ!!」


 その声をかき消すように魔物が唸った。

「静かにしろ。あいつは狂ったんだ。誰が見たって分かる」

 隣にいたもう一匹が、翼をばたつかせた。

「ラズールが言っていた。黒の王が殺されたのは狂っていて、そうするしかなかったからだと。確かにあの王は城に来てから……いや、その前からおかしかった。だから俺は、認めたくなかったけど……それで納得したんだ」

 黒い翼はゆっくりとはためき、空気を揺らす。

「王が死んだのは、仕方のないことだったんだ。――お前はあの方を殺した。でも、それで恨むのはお門違いだと、俺だって分かってる。だからお前も、諦めてクリスが死ぬ運命を受け入れろ」

 足が、動かなかった。目を大きく見開いたまま、エレナはその場に立ち尽くす。

 この魔物の言っていることは正しい。何一つ間違っていない。

 憎しみを持った魔物達はここにはいない。クリスと戦った奴らが、そのすべてだったのだ。彼らは一様に復讐を企て、一様に殺された。もうエレナの敵はいない。

 それなのに。

 次はクリスが狂ってしまったと言うのか。

 もしそうならば、彼を殺さなければいけないのは分かる。グランディールを殺した自分は、意義を唱える権利などない。

 けれど、どうしても信じられないのだ。

 先程まで話していた彼が、グランディールと同じになったと言うのか。


「そこにいるのが、アシオンの子孫か」

 魔物の赤い瞳が王女に向けられる。シルヴィアは一層縮こまった。

 けれど、魔物達は王女を襲う素振りもない。彼らはまっすぐな目をして言った。

「なんとかクリスを止められないか」

「黒の王がいない今、我々には無理だ」

「身勝手なのは分かってるが、もうあんたしかいないんだ」


 ロレンツォが目を細めた。

「虫のいい願いだ。自分達が何をしたか分かってるのか?」

 シルヴィアの前に立ったまま、冷ややかに魔物達を見つめた。

「忘れた訳ではないだろう。君たちは『(ミッド)』を殺し、この国を傷つけ、姫君を牢屋へ閉じ込めたんだ」

「やめて、ロレンツォ」

 そう言ったのはシルヴィアだった。身じろぎする彼を横に、王女は静かに足を進めた。

「ねえ、あなた達、それは私にしかできないことなんでしょう?」

 彼女が魔物達を見渡せば、彼らは口々に言った。

「そうだ」

「アシオンの子孫」

「お前にしかできない。だから頼んでいるんだ」

 シルヴィアは静かに顔をあげ、魔物とロレンツォに頷いて見せた。

「必要とされているなら、私やるわ。どちらにしろ、国を守るためだもの」



 エレナは後ずさった。

 シルヴィアが、王女として頼りにされているのだ。嬉しいはずなのに、怖くてたまらなかった。


 このままでは、シルヴィアがクリスを討つことになるだろう。

 大好きな人が、大好きな人を殺す。

 考えただけで頭がおかしくなりそうだ。


 ロレンツォが、静かにこちらを向いた。

「エレナ」

 その凪いだ瞳を見て、エレナは怖くなった。どんな時も味方だと思っていた彼すら、クリスのことを諦めている。

「残念だけど、国を守るためだ。分かるだろう」

 エレナは瞳を揺らした。

「お願い、待って。何かの間違いかもしれないわ」

「落ち着いて。目撃者はたくさんいるんだ。町を破壊する者は、倒さなければならない」

 大人特有の諦めたような瞳。押さえつけようとする腕を、エレナは振り払った。

「離して!」


 ロレンツォは苦しげに息をついた。

「上の廊下へ行ってごらん。そこの窓からよく見るんだ」

 エレナの瞳を、まっすぐ覗き込む。

「あれは狂った『(ノヴル)』の仕業だ。見れば君も分かるはずだ。納得できるまで眺めるといい。だけど、絶対に近づいてはいけない」

 エレナは男を食い入るように見つめ返した。言い返したいのに、もう言葉すら出て来なかった。

 この男が言うなら、間違ってはいないのだろう。それでも、どうしても受け入れることができなかったのだ。

 諭すような男の瞳。そこから目を背け、歯を食いしばって走り去る。

 「エレナ!」

 シルヴィアの叫び声を受けながら、振り返りもせず、部屋の外へ駆け出した。



 嘘だ。嘘だ。嘘だ。

 走りながら心の中で叫んだ。

 クリスがそんなことをするわけない。彼はいつだって、エレナのことを守ってくれたのだ。


 傷だらけになって、全身から血を流して、月明かりの中伸ばされた手。

 あの手を取ることができなかった自分。

 本当は、彼が狂うには十分な理由がある気がした。

 それが怖くて、悔しくて、とても悲しかった。




 いくつかの階段を上がり、長い廊下を駆け抜けて、壊れた窓の前で立ち止まった。

 向こうには町が見える。時折光る銀が、流れ星のように夜の町に降り注ぐ。

 エレナは息を詰め、目を凝らした。


 町の中央に、時折幻のように、小さな影が浮かび上がる。

 強い光を出すそれは、間違いなく大好きな少年で、エレナは喉を詰まらせた。

「……クリス」

 彼は笑っているように見えた。

 他の「(ノヴル)」とは違う強大な魔力で、次々と町に、銀の光を墜落させる。

 そこにいるのは、グランディールさえ凌ぐ、強く、恐ろしい生き物だった。

 遠くて分からないけれど、それでも町を破壊していく様子は、狂っているようにしか見えなかった。


――――行かなきゃ。

 唐突に、そう思った。

 月明かりに浮かび上がった、彼の顔が思い出される。

 少年は言ったのだ。


――――俺は、お前が好きだ。


 ぎこちなく微笑んで、鳶色の瞳は、エレナだけを見つめていた。


――――どれだけ好きか、お前には分からないだろう。


 エレナは唇を噛む。

 分かっていると思っていた。彼がどんなに自分を好きかなんて。

 でも、本当は何も知らなかったのだ。

 ここまで深い思いだなんて、気づくこともなかった。



 近づいたら危険だと分かっている。何を話せばいいのかも分からない。

 それでも、傍に行きたくてたまらなかった。


 エレナは、壊れた窓に足をかける。

 そのまま身を乗り出すと、地面に降り立った。

 城を後にし、走り出す。

 一瞬たりとも振り返らず、銀の光が降り注ぐ町へと向かった。




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