明けない夜
エレナは思わず声をあげる。
「もしかして、外に残っている『魔』がまだ暴れているの?」
「それもある。……でも、違うんだ」
ロレンツォはそこで口を噤んでしまった。言いづらそうに目を伏せたものの、再び顔をあげる。彼が口を開いた、その時だった。
「大変だ!」
別の声が、空気を割いた。どやどやと魔物達が入ってくる。
「早く、あいつを止めないと!」
「アシオンの子孫はどこだ!!」
黒い魔物達に、シルヴィアがひっと声をあげる。身を縮めた彼女の前に、エレナが立ちはだかった。
ロレンツォがおもむろに魔物に声をかける。
「予想はしてたけど……君達、どういう了見だい?」
「俺たちの仲間が暴れてる! もう手がつけられないんだ」
「奴を止めるには、アシオンの子孫が必要だ! そいつを渡せ」
シルヴィアが恐ろしげに身を固くする。エレナは魔物達を睨みつけた。
「自分達の仲間なら、自分達で止めればいいでしょ。姫様を巻き込まないで」
魔物達がぎゃあぎゃあと喚き立てる。
「だから! 俺たちじゃ敵わないんだよ! あいつは黒の王と同じくらい強かったんだから」
「まったくクリスの奴、何を考えてるんだ!」
その言葉に、エレナは喉を詰まらせた。
「……どういうこと?」
「僕から説明しよう」
ロレンツォが静かに向き直り、真摯な声で言った。その間も、時折後ろを警戒しているため、魔物達は迂闊に姫に近づけないでいた。
「よく聞いて。一匹の『魔』が国の中央で、銀の光を出しているんだ。ここに来る途中、窓から見えたんだよ。あの『魔』は相手構わず町を破壊しているように見えた。遠くに見えた影は……子どものような形をしていた」
エレナはハッとする。
ロレンツォは、それを見逃さなかった。
「あれはクリスだろう? 君は彼が町を襲う理由を知っているんだね?」
エレナは口を噤んだ。
まさか、そんなはずはなかった。
彼は「人」を殺したくなくて、グランディールに抗ったのだ。
そんな彼が、町を襲うはずがない。
しかし、一つの考えが胸をよぎった。
――――わたしが、姫様を選んだから?
唐突に恐ろしさがこみあげてくる。
――――彼を、一人ぼっちにしたから?
頭によぎるのは、月の光が零れ落ちる黒い髪。
歪んだまま微笑む鳶色の瞳。
彼には、何も残らなかったのだ。
「人」も「魔」も敵に回し、世界から見捨てられて。
彼の居場所は、エレナの隣だけだったのだ。
それなのに、たった一つの希望すら見えなくなってしまった。自分の居場所も、追い求めた光も消えてしまった。
だから彼は、エレナの選んだものを――――
「そんな訳、ないわ」
恐ろしさに心臓が凍り付くようだ。
「彼は、そんなことはしない」
緑の瞳をさまよわせ、エレナは呟くように言った。
ロレンツォが肩に手を置く。
「落ち着いて、何があったか説明して」
エレナはすがるように男を見た。
「わたし、彼を選べなかったの」
あの時、手を差し伸べた少年の瞳は、希望に満ちていた。
「姫様を置いていけなかったの。一緒に来てくれって言われたのに」
去り際の笑顔が目に焼き付いている。歪んだ、悲しげな顔が。
エレナは唐突に理解する。
彼にとって自分はすべてだったのだ。
自分が選ばなければ、彼には何も残らない。
――――それならやっぱり、いや違う。
ロレンツォが静かに言った。
「あの少年は、君の大切なものを壊そうとしているんだね」
エレナは唇を噛んだ。
言葉にされると、嫌でもその事実が心に突き刺さる。
きっ、とロレンツォを見上げた。
「そんな訳ないわ! 彼は優しいもの! いつだってわたしを守ってくれたわ!」
ロレンツォは静かにエレナを見る。
「城にいた時から、あの子はどこかおかしかった。いつも歪んだ顔をしていて、危険だとは思っていたんだ」
「やめてよ!」
エレナは叫んだ。心の中では事実だと分かっていたが、認められなかった。
「クリスはそんなことしない!! そんな風に言わないで!」
「君の気持ちは分かる」
ロレンツォは静かにエレナを見た。
「だけど、こうは考えられないか? 彼は狂ってしまったって」
その言葉に、あの老人が思い出される。ガラス玉のような、空っぽの瞳。
違う。クリスの目は歪んでいるけれど、あんな空っぽなんかじゃない。
「やめて! やめてよ!! クリスは狂ってなんかいないわ!!」
その声をかき消すように魔物が唸った。
「静かにしろ。あいつは狂ったんだ。誰が見たって分かる」
隣にいたもう一匹が、翼をばたつかせた。
「ラズールが言っていた。黒の王が殺されたのは狂っていて、そうするしかなかったからだと。確かにあの王は城に来てから……いや、その前からおかしかった。だから俺は、認めたくなかったけど……それで納得したんだ」
黒い翼はゆっくりとはためき、空気を揺らす。
「王が死んだのは、仕方のないことだったんだ。――お前はあの方を殺した。でも、それで恨むのはお門違いだと、俺だって分かってる。だからお前も、諦めてクリスが死ぬ運命を受け入れろ」
足が、動かなかった。目を大きく見開いたまま、エレナはその場に立ち尽くす。
この魔物の言っていることは正しい。何一つ間違っていない。
憎しみを持った魔物達はここにはいない。クリスと戦った奴らが、そのすべてだったのだ。彼らは一様に復讐を企て、一様に殺された。もうエレナの敵はいない。
それなのに。
次はクリスが狂ってしまったと言うのか。
もしそうならば、彼を殺さなければいけないのは分かる。グランディールを殺した自分は、意義を唱える権利などない。
けれど、どうしても信じられないのだ。
先程まで話していた彼が、グランディールと同じになったと言うのか。
「そこにいるのが、アシオンの子孫か」
魔物の赤い瞳が王女に向けられる。シルヴィアは一層縮こまった。
けれど、魔物達は王女を襲う素振りもない。彼らはまっすぐな目をして言った。
「なんとかクリスを止められないか」
「黒の王がいない今、我々には無理だ」
「身勝手なのは分かってるが、もうあんたしかいないんだ」
ロレンツォが目を細めた。
「虫のいい願いだ。自分達が何をしたか分かってるのか?」
シルヴィアの前に立ったまま、冷ややかに魔物達を見つめた。
「忘れた訳ではないだろう。君たちは『人』を殺し、この国を傷つけ、姫君を牢屋へ閉じ込めたんだ」
「やめて、ロレンツォ」
そう言ったのはシルヴィアだった。身じろぎする彼を横に、王女は静かに足を進めた。
「ねえ、あなた達、それは私にしかできないことなんでしょう?」
彼女が魔物達を見渡せば、彼らは口々に言った。
「そうだ」
「アシオンの子孫」
「お前にしかできない。だから頼んでいるんだ」
シルヴィアは静かに顔をあげ、魔物とロレンツォに頷いて見せた。
「必要とされているなら、私やるわ。どちらにしろ、国を守るためだもの」
エレナは後ずさった。
シルヴィアが、王女として頼りにされているのだ。嬉しいはずなのに、怖くてたまらなかった。
このままでは、シルヴィアがクリスを討つことになるだろう。
大好きな人が、大好きな人を殺す。
考えただけで頭がおかしくなりそうだ。
ロレンツォが、静かにこちらを向いた。
「エレナ」
その凪いだ瞳を見て、エレナは怖くなった。どんな時も味方だと思っていた彼すら、クリスのことを諦めている。
「残念だけど、国を守るためだ。分かるだろう」
エレナは瞳を揺らした。
「お願い、待って。何かの間違いかもしれないわ」
「落ち着いて。目撃者はたくさんいるんだ。町を破壊する者は、倒さなければならない」
大人特有の諦めたような瞳。押さえつけようとする腕を、エレナは振り払った。
「離して!」
ロレンツォは苦しげに息をついた。
「上の廊下へ行ってごらん。そこの窓からよく見るんだ」
エレナの瞳を、まっすぐ覗き込む。
「あれは狂った『魔』の仕業だ。見れば君も分かるはずだ。納得できるまで眺めるといい。だけど、絶対に近づいてはいけない」
エレナは男を食い入るように見つめ返した。言い返したいのに、もう言葉すら出て来なかった。
この男が言うなら、間違ってはいないのだろう。それでも、どうしても受け入れることができなかったのだ。
諭すような男の瞳。そこから目を背け、歯を食いしばって走り去る。
「エレナ!」
シルヴィアの叫び声を受けながら、振り返りもせず、部屋の外へ駆け出した。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
走りながら心の中で叫んだ。
クリスがそんなことをするわけない。彼はいつだって、エレナのことを守ってくれたのだ。
傷だらけになって、全身から血を流して、月明かりの中伸ばされた手。
あの手を取ることができなかった自分。
本当は、彼が狂うには十分な理由がある気がした。
それが怖くて、悔しくて、とても悲しかった。
いくつかの階段を上がり、長い廊下を駆け抜けて、壊れた窓の前で立ち止まった。
向こうには町が見える。時折光る銀が、流れ星のように夜の町に降り注ぐ。
エレナは息を詰め、目を凝らした。
町の中央に、時折幻のように、小さな影が浮かび上がる。
強い光を出すそれは、間違いなく大好きな少年で、エレナは喉を詰まらせた。
「……クリス」
彼は笑っているように見えた。
他の「魔」とは違う強大な魔力で、次々と町に、銀の光を墜落させる。
そこにいるのは、グランディールさえ凌ぐ、強く、恐ろしい生き物だった。
遠くて分からないけれど、それでも町を破壊していく様子は、狂っているようにしか見えなかった。
――――行かなきゃ。
唐突に、そう思った。
月明かりに浮かび上がった、彼の顔が思い出される。
少年は言ったのだ。
――――俺は、お前が好きだ。
ぎこちなく微笑んで、鳶色の瞳は、エレナだけを見つめていた。
――――どれだけ好きか、お前には分からないだろう。
エレナは唇を噛む。
分かっていると思っていた。彼がどんなに自分を好きかなんて。
でも、本当は何も知らなかったのだ。
ここまで深い思いだなんて、気づくこともなかった。
近づいたら危険だと分かっている。何を話せばいいのかも分からない。
それでも、傍に行きたくてたまらなかった。
エレナは、壊れた窓に足をかける。
そのまま身を乗り出すと、地面に降り立った。
城を後にし、走り出す。
一瞬たりとも振り返らず、銀の光が降り注ぐ町へと向かった。




