エレナの選択
緊張が解けたように、よろよろとクリスが座り込む。
様子を見ていたエレナは我に返り、慌てて彼の元へ寄った。
「クリス」
彼の肩に触れ、まっすぐにその瞳を見つめた。
「今のって……陛下は」
「何も聞かないで。――――ああ、エレナ」
彼は遮ると、こちらを見つめ、ほっとしたように息を吐いた。少女の頬に手を伸ばし、ぎこちなく微笑んで見せる。
「……エレナ、よくやった」
その笑顔を見ただけで、なぜか泣きたくなった。
エレナは唇を噛んで、少年に腕を伸ばす。
二人は強く抱きしめ合った。
少年は鳶色の瞳でエレナを見る。
「ラズールが怒らなくて良かった。てっきり復讐に走るかと思ったよ」
エレナは息をついた。
「あの子の生きがいを、わたしが殺した」
「いいや、ラズールはあいつを愛していたけど、生きがいにはできなかったんだ。グランディールはとっくに狂っていて、ラズールの愛を必要としていなかった。それを彼女自身が、やっと理解したんだよ」
その時、恐ろしい音がして、大きな窓から幾つもの影が入って来た。
黒い生き物たちが翼を動かし、牙を剥き、窓から続けて飛び込んでくる。
クリスが立ち上がり、瞳を鋭く細めた。
「魔」達は醜い声で騒ぎ立てながら、みるみるうちにクリスとエレナを取り巻いて行く。そのうちの一匹が、甲高い声で叫んだ。
「黒の王が殺された! 俺は見ていたぞ!」
不気味な声に、エレナは身を竦めた。
「そうだ! ラズールはそのまま逃げたみたいだが、俺たちは違う!」
「黒の王の復讐を!」
ぎゃあぎゃあとけたたましく騒ぎ立てる魔物達。クリスが彼らを鋭く睨んだ。
「黒の王はご乱心だった。だから俺達が止めてさしあげた。それだけだ」
名もなき魔物達は真っ赤な目をして騒いだ。
「狂ってるのはお前の方じゃないのか?」
「目を覚ませ! クリス!」
クリスは歯を食いしばり、怒りに満ちた目で魔物達を見渡した。
「あの場にいたのがお前達でも、同じことをするだろう。王は狂っていた。気に入らない魔物は、部下だろうがお構いなしに殺そうとしていたんだ」
叫びたいのを抑えるように、まっすぐに黒い群れを見つめた。
「ラズールは逃げ出したんじゃない。狂った王がどんなに危険か理解したんだ。お前達、それも分からないのか」
天井が割れるような鳴き声で、魔物達が抗議の声をあげる。
彼らは黒の王に仕えていたと言っても、実際に顔をあわせたのは命令を聞く時ぐらいのものだ。その根底にあるのは「人」への憎悪と、それ故の黒の王への忠誠心。
グランディールがどんなに狂っていたか、はっきりと理解している者はほとんどいない。誰もがただ、自分の主が殺されたという事実だけを見つめていたのだ。
真実を知ろうとしない彼らは今、お門違いな復讐を始めようとしていた。
魔物達はそろって唸り声をあげ、その手に銀の光を宿した。
魔法もろとも飛び出して、エレナめがけて襲い掛かる。
まるで、部屋の隅に潜んでいた闇がそのまま伸びて、自分を呑みこもうとしているように見えた。
エレナは呼吸を荒げ、必死に蔓を繰り出した。しかし相手の数は多く、意味などあってないようなものだ。
闇の塊は逃げるどころか、勢いを増して近づいてくる。
恐怖が全身を縛りつけ、動くこともできなくなった。
視界が銀と黒に染められる。
一瞬、目の前を別の流れ星が横切った。
他のものとは違う、強い輝きが目を刺す。
それは銀色に光りながら、迫りくるいくつもの黒い影を、すべてなぎ倒した。
「ぐあっ」
「ぎゃうっ」
「魔」達は悲鳴をあげて壁や床に叩きつけられる。
中には凄まじい魔力に耐え切れず、そのまま消えてしまうものもいた。
少年が、エレナの前に立ちはだかっていた。彼の出した魔力は、桁違いのものだった。
鳶色の瞳は黒い生き物たちを睨みつけ、血の流れる足で体を支えていた。
「クリス、こっちへ来い!」
一匹の「魔」がいらいらしたように叫んだ。
「その小娘が王を殺したんだろう! なぜ庇う!」
「エレナは俺を守るために黒の王を殺したんだ。だから今度は、俺がエレナを守る」
「ふざけるな!!」
魔物達が不気味な声で騒ぎ立てる。
「裏切るなら、お前も一緒に八つ裂きにしてやる!」
それは、少年が「魔」をも敵に回した瞬間だった。
彼は何も言わず、悲しそうな瞳で黒い生き物達を見据えた。
「クリス」
黙ったままの少年を、エレナは呼んだ。
彼は答えない。
「クリス!!」
彼の背に駆け寄って、右手を握りしめた。手伝いたかったが、エレナの魔力はひ弱なものだ。クリスもそれは知っているだろう。彼は、一人でけりをつけるつもりなのだ。
「馬鹿なことしないで。あなたはけがしているし、相手はこの数よ! あなたが死んでしまったら……」
「大丈夫、俺の取り柄は魔力だけなんだ」
少年は静かに振り返り、静かな瞳でエレナを見た。
「手伝いはいらないよ。俺に、お前を守らせて」
それは、不思議な光景だった。
永遠の闇に喰われるような、眩しい光に裂かれるような、恐ろしく美しい世界。
迫りくる魔物達。その中に時折ちらつく魔法の光。
それをすべて、横切る銀が切り裂いた。
黒。漆黒。塗りつぶされた闇。
そこに飛び交う星々。きらりきらりと瞬き、光っている。
轟音と共に、すべてを貫く流れ星。眩しい白銀が視界を突き刺す。
遠く近く、風を切る音がする。
闇に呑みこまれそうな少年は、ひたすら気丈に立っていた。
流れ星が光る度、傷だらけの背中が見える。その足元には、赤い赤い血だまり。
抱きしめたい。やめさせたい。
でも、彼は生きるつもりなのだ。
今はただ、それだけがすべてだ。
だからどうか。
闇に少しずつ光が差し込むように、黒い生き物の連なりは、いつしかまばらになっていた。
あちこちから聞こえる悲鳴は泣き叫ぶようで、胸が押しつぶされそうになる。
それでも少年は立っていた。
最後の力を振り絞って、全身から血を流しながら、鳶色の瞳で黒い生き物たちを捕えて離さなかった。
エレナはその後ろ姿を見つめることしかできなかった。
苦しくてたまらなくて、ただ、どうか死なないでと願った。
そうして、少年は黒い生き物の最後の一匹に光を当てた。
名もなき「魔」は断末魔の叫び声をあげて掻き消える。
後には何も残らなかった。
突然、静寂が訪れる。
恐ろしい騒ぎのあとで、部屋は信じられないくらい静かだった。
月の光が大きな窓から差し込み、広い部屋を美しく照らしている。
エレナはクリスに駆け寄り、血のついた顔を見つめた。最初に何を言うべきかは、ちゃんと知っていた。
「クリス」
「何?」
「あ、ありがとう」
笑おうとしたが、うまくできなかった。彼の全身が、あまりにも傷だらけだったから。
それでもクリスは、少しだけ目を細めた。
「一度、お前に礼を言われたかったんだ。……笑ってくれると、もっといいんだけど」
そう言った途端ぐらりと揺れ、突然膝をついた。
「クリス!」
驚いて駆け寄り、触れれば手に血がついた。
少年はエレナにつかまり、立とうとする。
「だめ!! 立たないで! 血が……出て……!!」
泣きそうなエレナに、彼は安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だよ」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。
「俺が城に来た時のこと、覚えてる? ひどい傷だったけど、たったの五日で治ってしまったんだ。俺の魔力は普通じゃないんだよ。こんなことで死んだりしない」
エレナはどうしようもない思いで顔をあげた。
「この傷だって、すぐに治ってしまうさ。俺が怖いか?」
「いいえ」
泣きそうな瞳で彼を見た。
「良かった。あなたが生きてくれるなら、なんでもいい」
少年の瞳がエレナを捕える。
窓から差し込む光を背に受け、黒髪が照らされていた。
傷だらけだと言うのに、月光の中の少年は、異常なまでに美しかった。
「俺は、お前が好きだ」
彼はぎこちなく笑った。
「どれくらい好きだか、お前には分からないだろう」
エレナは黙ってその言葉を聞いていたが、やっとのことで微笑み返した。
「きっと分かるわ。わたしだって、今までもこれからも、あなたへの想いは変わらないもの」
鳶色の瞳は光を湛えていた。
「エレナ」
まっすぐに、こちらを見つめる。
「俺はお前がいるから、こうして生きていられるんだ。本当だよ」
少年は音もなく窓へと歩いて行くと、静かに窓枠へ飛び乗った。
夜の闇を見つめる彼は、それよりも、もっと遠くを見ているようだった。
満月は美しく輝き、彼の体を幻のように浮かび上がらせている。
「俺はここにはいられない」
彼はゆっくりこちらを振り返ると、エレナに手を差し伸べた。
「一緒に行こう、エレナ」
エレナはハッとしてクリスを見た。
彼には居場所などないのだ。
「人」にも「魔」にも疎まれた少年は、朝が来れば殺されてしまう。クリスが生きるためには、遠くへ行かなければならないのだ。
彼の見つめた先は、きっと世界の果て。
皆に後ろ指を指され、世界から逃げながら、平穏の地を探して生きるのだろう。
それはとても残酷で、悲しい未来だった。
それなのに、クリスの瞳には希望が溢れていた。
彼は自分の居場所を知っているのだ。
エレナが傍にいれば、少年は生きられる。
例え地の果てへ追われても、確かに幸せでいられるのだ。
「さあ、一緒に来て」
彼はエレナを一心に見つめた。
「俺はお前となら、どこまでだって行ける」
「だめよ」
エレナは首を振った。その拍子に、涙がこぼれた。
「姫様を置いていけないわ」
少年の顔が歪んだ。
「だって、……だって、あいつには、なんでもあるだろ?」
つっかえながら、エレナを食い入るように見た。
「なんでだよ。俺にはお前しかいないんだ。どうして」
「姫様は、なんでもあるように見えて、なんにも持っていないの」
エレナは喉を震わせた。
「あの方は皆に嫌われてるの。今回のことで、誰もがあの人を見捨ててしまった。わたしが行ってしまったら、一人ぼっちになってしまう」
「だけど……そんなのって変だ! 俺だって…………一人ぼっちなのに!」
「クリス」
エレナは泣きたいのを堪え、必死に言葉を続けた。
「お願い、分かって。姫様はとても優しくて……あなたと違ってとても脆いの。わたしが傍にいなければ、あの方はいつかきっと、消えてなくなってしまうわ」
少年は静かにエレナを見た。
「ああ、そう」
彼はゆっくりと微笑んだ。その笑みはひどく歪んでいて、エレナは思わずぞっとする。
「お前はあいつを選ぶんだ」
自嘲するような声に、心臓が掴まれたような気がした。
「違うわ!」
彼の瞳から、感情は読み取れない。ただ、壊れそうな笑みが張り付いている。
「最初からお前は、俺を選ぶ気などなかったんだ」
エレナは唇を噛んで、揺れる瞳で少年を見つめた。
「どうしてそんなことを言うの? ひどいよ……!」
「なんとでも言え。俺はこの国では邪魔みたいだからな。お前の目の前からは、きちんと消えてやるよ」
打って変ったその言葉に、何が起こったのかも分からなかった。ただどうしようもなく、彼の手を掴みたい衝動に駆られた。けれど、そんなことはできない。捕らわれた姫は、今も牢屋で泣いているかもしれないのに。
その様子を見て、少年は残酷に笑った。感情を隠した目で、楽しそうにこちらを見る。
「これで終わりだ。今度こそさよならが言える」
エレナは喉を詰まらせながら、叫んだ。
「行かないで!」
月の光が、少年の黒い髪に零れ落ち、輝いた。
何よりも懐かしい、鳶色の瞳。
声が、震えた。
「あなたが好きなの」
大きな窓に立つ少年は、あふれる月光を浴びて、ひどく輝いていた。
彼は悲しげな顔で微笑んだ。
「さよなら、エレナ」




