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第八話 水滴のディスタンス、あるいはフードの合理性

 ワクドナルトでのシミュレーションから数日後。 空は朝から不機嫌な灰色に染まり、放課後を迎える頃には、予報通りバケツをひっくり返したような土砂降りの雨になっていた。「よし、遠藤。作戦通り、高梨の下駄箱から置き傘は抜いたな?」昇降口の陰で、宮本拓海は手元のスマートフォンを操作しながら低く囁いた。隣にぴったりと並ぶ遠藤葵が、得意げにVサインを掲げる。数日前のワクドでの一件以来、二人はなんとなくお互いの距離感にドギマギしていたが、今は作戦の成功に全神経を集中させていた。「バッチリ。これでちはるは強制的に傘がない状態よ。あとは、佐々木くんが瀬戸くんに一本余ってるから高梨に入れてやれよってビニール傘をパスすれば、雨の日の王道イベント相合い傘下校の完成!」「フッ、今度こそ二人のパーソナルスペースをゼロにしてやる……っ、うお!?」その時、突風とともに横殴りの雨が昇降口の奥まで吹き込んできた。二人が隠れていたスペースは一瞬で水浸しになり、宮本は慌てて自分の傘を開く。しかし、風が強すぎて小さな折りたたみ傘では二人をカバーしきれない。「ちょっと宮本くん、濡れる! こっち寄って!」「お、おい、引っ張るな遠藤……っ」狭い傘の骨組みの下、遠藤の肩が、宮本の胸元に強く押し付けられた。 至近距離から、あのワクドの時と同じ甘いシャンプーの匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。雨の音があまりにもうるさいせいで、自分の心臓がドクドクと警報機のように鳴り響いているのが、宮本にははっきりと分かった。「……宮本くん?」「な、なんだ」「……なんか、顔赤いよ? 寒いの?」「ち、違う! これはただの湿気による毛細血管の拡張だと言っただろう!」上目遣いで覗き込んでくる遠藤の濡れた睫毛に、宮本は完全にノックアウトされかかっていた。(待て、落ち着け僕。なんでターゲットの二人じゃなくて、仕掛け人の僕たちがまた少女漫画の黄金比みたいな距離感になってるんだ……!)外野が勝手に沸騰し、過呼吸寸前になっているその横を。 当の本人たちは、実にあっさりと通り過ぎていった。



 「あ、瀬戸くん」「高梨。お前、傘は?」「なんか、下駄箱に入れたはずなんだけど無くなってて。盗まれたのかな」「物騒だな。じゃあ、これ入れよ。一本余ったし」「あ、ありがとう。助かる」(キタアアアアア!!)と心の中で叫びながら、物陰から顔を出す宮本と遠藤。 瀬戸の差し出した傘に、ちはるがすっと入る。一つの傘の下、二人の距離はわずか数十センチ。これぞ全読者が、そしてトキメキ同盟が待ち望んだ甘酸っぱい放課後。しかし、二人が歩き出してわずか三十メートルで、その幻想は無残に引き裂かれた。しかし、二人が歩き出してわずか三十メートルで、その幻想は無残に引き裂かれた。



 「……瀬戸くん」「なんだ」「これ、お互いに遠慮して真ん中空けてるから、私の左肩と瀬戸くんの右肩、もう完全にビショビショだよ」「……本当だな。っていうか、風の抵抗のせいで歩行速度が通常の七割まで落ちてる。これ、相合い傘っていうシステム自体が、日本の気候において著しく非効率的なんじゃないか?」「うん、私もそう思う。お互いの濡れ面積を等分にする意味がないよね。あ、だから大丈夫。傘って間違って持って帰りやすいから、私いつも予備でカバンに折りたたみ傘もってるの」ちはるは何の気負いもなくそう言うと、カバンの奥から見慣れたネイビーの折りたたみ傘をすっと取り出した。「持ってたのか」「うん。だから、お互いに自分の傘を百パーセント活用して、等速で帰ったほうが合理的だと思う」「至極真っ当な意見だな。じゃあ、分岐点で」「うん、またあとで」バッ、と相合い傘は一瞬で強制解除された。各自の独立した雨よけシールドを展開した二人は、一メートル半の定位置をきっちりキープしたまま、何事もなかったかのように淡々と雨の中を歩き直した。二つの物体は、それぞれの最高効率を維持したまま、あっという間に通学路の彼方へと進んでいく。



 残されたのは、昇降口の陰で、お互いの体温に顔を真っ赤に染めたまま硬直している宮本と遠藤だけだった。「……ねえ、宮本くん」「……なんだ、遠藤」「あいつら、本当に何なの? 予備持ってたなら、最初から言ってよ……」「僕が聞きたい。僕たちのあのワクドでのシミュレーションは、一体なんのために……。それより……その、いつまで僕の服を掴んでいるんだ」「あ……っ! ご、ごめん!」相合い傘の甘酸っぱさを全て外野に押し付けたまま、無関心な二人の並行線は、今日も一滴の水滴すら寄せ付けずに進んでいくのだった。


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