序章 放課後の重力と、交わらない並行線
学校の階段というのは、どうしてこうも無駄に段数が多いのだろう。放課後の気だるい空気の中、私はただ足元だけを見てステップを降りていた。西日が差し込む窓際、埃が光の粒のように踊っている。早く帰って、昨日録画したテレビ番組の続きが見たい。頭の中にあるのはそれだけだった。だから、自分のローファーのつま先が、何もない空間を蹴った瞬間のことも、実はよく覚えていない。 あ、と思った時には、視界がぐにゃりと歪んでいた。「うお、っと!」短い声が聞こえた。衝撃に備えて思わず目を瞑った私を捕らえたのは、硬い床ではなく、少し汗の匂いがする制服の布地だった。「ちはる、お前って意外と軽いんだな。」ふわりと体が浮いた感覚に、私は数秒間、状況を理解するのに時間がかかった。「……あ、えっと。……瀬戸くん?」私は手足をバタバタさせるというより、小さく空を切るようにして困った。照れ、というよりは、あまりに不意打ちすぎて思考が停止している、という感じ。「おい、あばれるなよ。おろしてやるから」「あ、うん……ごめんね。……なんか、ごめん……」私はただ、ぼんやりと彼のシャツの襟元を見ていた。特になんとも思っていないはずなのに、どうしてこんなに時間がゆっくり流れているんだろうとは思わなかった。少女漫画なら、ここで心臓の音がうるさくなったり、互いの頬が赤くなったりするのかもしれない。しかし、私の心拍数は至って平熱を保っていたし、瀬戸くんの顔にも「重い荷物をキャッチした」以上の感情は見当たらなかった。「じゃあな、気をつけろよ」「うん、ごめんね助けてくれてありがとう」床に着地した私の足は、驚くほどスムーズに次の歩行へと移行した。二人は同じ方向に歩いていった。お互いの家の方向が同じだからだ。夕暮れの通学路、影が長く伸びていく。 しかし、会話は生まれない。 二人は、お互いに興味がないからだ。カツ、カツ、と二つの足音が規則正しく並んで響く。別に気まずいわけでもない。ただ話すことがないから話さない。それだけのことだった。
「おい、ちょっと待て。待て待て待て!」背後から、息を切らせたクラスメイトの男子が小走りで追いかけてくるのが見えた。彼は私たち二人を交互に指差し、なぜか顔を真っ赤にして戦慄している。「お前ら、さっきの階段の、何!? お姫様抱っこじゃん! なんでそんな普通に無言で歩いてんの!? 何かあったろ、今!」私と瀬戸くんは、ほぼ同時に足を止め、ほぼ同じ角度で首を傾げた。 何かあったか、と聞かれれば、私が階段で転びそうになって、彼がそれを受け止めた。ただそれだけの、物理法則に従った運動が行われただけだ。
「……いや、別に何も」「うん、何もないよ」私たちの綺麗に揃ったトーンの返答に、クラスメイトは「嘘だろ……」と頭を抱えた。 周りがどれだけソワソワしようとも、私たちの間には、今日も涼しい風が吹き抜けている。




