13
椿の目が見開かれる。
いつの間にか、苦悶の声も命乞いも哄笑も途絶えていた。
「……俺が?」
訝しげに椿が問う。私はさも当然というように頷いた。
「ええそうよ。私はもう、あなたとともに行く気はないと選んだの。だから今度は、あなたの番。──さあ、どうする?」
椿は口を噤む。空になった腕を組み、私をじっと見据える。
耳の痛いほどの沈黙だった。
誰も身じろぎ一つしない。私は手を伸べたまま、真っ直ぐに椿を見つめる。
椿が腕を解んだまま、低い声で言った。
「深春は、この光景の真ん中に立っているのがよく似合う」
「そうでしょうね」
頷く。苦悶と痛みに彩られるのは、私のような人間にこそふさわしい。
椿は両腕を広げる。
「周りを見てどう思う? 今まで自分を虐げてきたものを踏み躙り、悲鳴を聞く気分は?」
私は胸に手を当て、声も高らかに答える。
「最高よ。胸がスッとしたわね。とってもいい気分よ」
自然と笑顔が溢れた。愉快なことには違いないのだ。それは本当だ。
椿が目を伏せる。綺麗に生え揃った睫毛が、頬に影を落とした。
「それでも──深春は、俺とともに行く気はないのだな」
「ええそうよ。私はもう、美しいものを知ってしまったから」
これから先、どんな景色を見たって、それは変わらない。私の目に眩しく映るものは、とっくの昔に決まっているのだ。
椿が私を睨みつける。
「以前、俺は、深春の激情の果てが見たいと言ったな」
覚えている。そのとき私は、自分が何を目覚めさせたのかも、自分の正体がなんなのかも知らなかった。
「……これが、その果てか」
彼の瞳に冷酷な光が宿る。その視線が私の背後に向けられたかと思うと、「ぎゃっ」という踏まれた猫のような声がして、重いものが床にぶつかる音がした。
見ると、どうやら意識を取り戻したらしい沙一が、私に襲い掛かろうとしたところを椿に返り討ちにされたらしかった。うつ伏せに倒れた彼の腕は妙な方向に曲がり、僅かに痙攣している。
「随分つまらぬ仕儀と相成ったものだな」
すでに彼は視界に入るもの全てに興味を失ったようだった。累々と倒れる鬼や妖たちを睥睨し、軽く手を振る。
途端、静まり返っていた鬼たちが、先ほどよりもずっと苦痛の滲んだ悲鳴を上げ、のたうち回り始めた。花恋も、両親も、皆一様に、想像を絶する責め苦に襲われ、殺してくれと口走るものもいた。
茫然とする私に、椿はなんでもないように声をかけた。
「俺はもはや、ここにいる意味がない。追われても面倒だからな。ここにいるものどもを喰らい、旅立つとしよう。ちょうど、目の前には喰らい甲斐のありそうな魂もあることだからな」
薄い笑みを唇に刷き、私に手を伸ばす。それは今までの、ある種の優しさに満ちた手つきとは違い、ただ食事を摂ろうとするだけの無機質なものだった。
椿から距離を取り、私は吼える。
「違うわ!」
握り締めた拳を震わせながら、喉を裂く声を張り上げる。
「私の人生は続く! 明日も、この先も! こんなところが、果てでなんてあるものか──!」
椿が動きを止める。私は彼から目を逸さなかった。
そうだ。勝手に終わりだなんて決められてたまるものか。私の終わりは私が決める。誰に暴言を吐かれたって、無価値と断じられたって、足蹴にされたって、私は歯を食いしばってここまで来たのだ。こんなところで終わらせはしない。この先に続く未知だって、踏破してみせる。
睨み合いが続く。私と椿の間にだけ、火花が散るようだった。
やがて、椿の身体から力が抜けた。再び静まり返った部屋の中、低く呟く。
「──なるほど、これが報いか」
肩を震わせて笑い出す。そうして一歩足を踏み出すと、恭しく私の手を取った。
「俺は、深春と同じ道を歩めない」
そのまま手を引き寄せ、ふわりと私を抱きしめる。その体がわずかに震えているのを感じ、私は思わず背中に腕を回した。
「……同じ憎しみを糧として育ったものが、俺とは異なる道を行くという。ならば、とてつもなく凡庸で、俺には価値の見出せないつまらぬものを、美しく思う心を抱えて生きろ」
耳朶に冷たい唇が触れる。
「その先で──お前の道行きが俺と重なったときは、殺してやるから」
強くかき抱かれる。因果が巡り、邪鬼に報いが返ったことを、私はなんとなく悟っていた。けれどもそれを選んだのは彼自身で、私にはどうしようもないことも分かっていた。
だから私はただ黙って、彼の体を抱きしめ返した。
けれども、黙っていられない人間ももちろんいた。
「……なによ」
地の底から響くような不気味な声に、私はそちらに目をやった。
掻き毟った髪は膨れ上がり、血走った目をぎょろりと剥く、母の姿がそこにはあった。
「どうしてどうしてどうしてよ! 深春は鬼なんでしょう! 私があなたを憎しみに沈めて育てたのよ!! さっきまで鬼どもを苦しめていたじゃない! 全部殺してよ!! 私のために殺してよ!!」
そのまま父の腕を振り払い、私に掴みかかろうとする。椿が私の前に立ち塞がり、暴れる母の胸ぐらを掴んで宙吊りにした。
「離しなさいよ!! なんでうまくいかないのよ!! 深春は私の子どもなのにどうして言うことが聞けないの!!!」
「お母さん」
自分でも驚くほど静かな声が出た。手足をめちゃくちゃに振り回していた母が、はっとして私を注視する。
心の底から、私は優しく微笑んだ。
「私をこんなふうに育ててくれてありがとう。おかげで、私は他者の苦しめ方をよく学んだし、理解できたわ。今や、視界に入る全ての鬼を殺すことだってできる」
「なら……」
私は大股で母に近づき、その耳に唇を寄せて囁いた。
「だけど、私はお母さんなんかのために、鬼を殺してあげない。──残念でした」
母が悲鳴をあげる。私は腕を中途半端に母に向けたままの父を見やった。
「お父さん。あなたの妻はこの状態だけれど」
「ひっ」
ガタガタ震え出す。全く、何も成せない男だった。
「十七年前、あなたの愛した女性が傷ついたとき、あなたは何をしたの」
「お、お、お父さんは……た、ただ、深春をそう育てることで気が晴れるなら、と……どうせ、血の繋がった子ではないからと、思って……す、すまなかった!」
膝を折って、床に額を擦り付ける。私はその頭を踏みつけたいのを堪え、舌打ちした。
「あなたがすべきだったのは、傷ついた妻をただ黙って抱きしめることだったのに。……本当に、見下げ果てたものね」
私は踵を返す。椿から解放された母が、泣き喚きながら、父に縋り付いた。それが、私が両親と話した最後だった。
「瓏樹」
起き上がりかけている百目鬼の当主に向かって、私は声をかけた。瓏樹はびくりと肩を震わせ、恐る恐るといったふうに私を見上げた。
「な、なんだ」
「あなたは花恋の花婿でしょう。ならば、花嫁のしたことには責任を取りなさい」
「なんのことだ」
本当に思い当たる節がなさそうに首を傾げるので、私は顔をしかめた。
「花恋が鬼に命じてクビにした、私の友人の両親を、早く元の地位に戻しなさい」
「なぜ私がそのようなことを……」
「二度言わせる気?」
「失礼した。すぐに取り計らおう」
瓏樹は従順に頭を下げる。私は、その横に転がる花恋に目をやった。
顔を歪め、鼻から血を流したまま動かない花嫁。このまま、なんの言葉もなく別れるのが、私たち姉妹らしい気がした。
私は出口へ向かい、それから一度、振り向いた。
痛苦にさらされた鬼や妖が一面に広がる部屋を背に、椿が私を見つめていた。
そっと微笑みかける。柔らかな声で、別れを告げた。
「さようなら、椿」
「さよならだ、深春」
私は、そのまま百目鬼の屋敷を後にした。
◆◆◆
百目鬼の門を出て、さてこれからどうしようと首を捻ったとき、道の向こうから私の名を呼ぶ声がした。
「深春──!」
少し離れていただけなのに、涙が出るほど懐かしい声。
こちらに駆け寄ってくる人影を見留めた瞬間、私の足は勝手に駆け出していた。
「菜緒!」
両腕を伸ばして、思い切り抱きつく。菜緒とともによろめきかけ、すんでのところで足を踏ん張った。
「菜緒、親御さんが……」
「あれ、なんで知ってるの? 今朝急にクビになったー、と思ったら、さっきここに来る途中でやっぱり間違いでしたーって連絡が来てさあ。本当ふざけないでほしいよね」
「よ、よかった……」
瓏樹は速やかに仕事をしたらしい。ほっと胸を撫で下ろした。
「というか深春、その髪と目はどうしたの!? 怪我!?」
菜緒が私の肩を掴み、心配そうに見上げてくる。私は指で頬をかきつつ、口を開いた。
「ごめん、人間じゃなくなっちゃった」
「はあ!?」
「私、もしかしたら菜緒と一緒に年は取れないかもしれない。けれど……」
「そんなのどうだっていいよ!」
菜緒は大声をあげる。その目が涙で濡れていた。
「深春が深春ならなんだっていいよ! 怪我してなくて、傷つかないでいてくれたら……あたしは、それだけで……」
しゃくり上げる。その瞳から零れる涙が、光を受けて地面に落ちていくのを、私は確かに、美しいと思った。
「菜緒、ありがとう。私は無事だし、五体満足で帰ってきたわ」
「よかった……よかったよぉ……」
菜緒は腕で顔を擦る。
「本当にさあ! 毎日電話してって言ったのに、途中で連絡途切れるし!」
「ご、ごめん」
「めっちゃ心配したんだからね!? この数日で何があったの!? 全部話すまで離さないからね!」
「長くなるわよ?」
「最高じゃん! 今日も明日も休みなんだからさ!」
菜緒が顔を輝かせる。私は人生で初めて、明日を楽しみだと思った。
◆◆◆
──こうして、鬼と花嫁をめぐる、憎悪から生まれ落ちた私の物語は終わりを告げた。
けれど人生はまだまだ続く。新たな物語を紡ぎながら。そうして私は、二度と邪鬼に会うことはないまま、死ぬのだ。
それでいい。
それがいい。
きっとその道行きは、私の目には眩しく映るから。
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