大団円
夏休みまであと数日を残すのみとなった学校生活は、死を覚悟するほどの熾烈な冒険を経た後でも、特に変わり映えもせずいつもどおり平凡に過ぎていった。
ミツギは急にまた転校して行ったことになっていたし、事件のことは完全に箝口令が敷かれており、全く表沙汰になることはなかった。
そして迎えた、第一学期の終業式の日。
退屈な式は午前中だけで終わり、午後からはオケ部の練習があることになっていた。
「トーマくん、行きましょ!」
リユナと二人連れだって、練習場へと向かうトーマイヤーは、ふと、校舎の窓から中庭へ目を落とした。中庭のベンチには、金髪頭のリューネが腰かけていて、一人でなにやら黄昏ている様子。
「リユナ、ちょっと先に行っててくれ」
「うん? 分かった」
トーマイヤーは中庭へ出て、ベンチのリューネへ近づいて行った。
「やあ。リューネ殿」
「あ?」
頭を上げて、トーマイヤーの顔を見た。
「げっ、王子!? な、なんだ、また何か文句があんのかっ?」
リューネは復帰した頃よりはだいぶ顔色も良くなり、挙動も普通に戻ってきていた。
「いや、文句など、あろうはずがない。ただ、その方には、ちょっとキツ過ぎる処罰を与えてしまったか、と思ってな。すまなかった。ぼくも反省しているのだ」
「なんだよ、そんなことかよ」
リューネはトーマイヤーから視線を外しながら、言葉を続けた。
「俺は別に、気にしちゃいねえぜ……っていうより、むしろ感謝してるよ」
「感謝? ……感謝とは?」
「うちは親父もお袋も、仕事仕事で全然俺のことなんか構っちゃくれなかったんだけどよ。お前に収容所に入れられてから、本気で俺のことを心配してくれてな。しかも、お前んとこの収容所って、囚人に給料払ってくれんのな」
「当然だ。労働に対しては、対価を払うのが道理というものだ」
「俺はよ、働く、ってことがどういうことなのか、分かった気がしたんだよ。親父もお袋も、どれだけ大変な思いをして、俺のために稼いできてくれたのか、ってな。そんなことを考えるようになったのよ。だからむしろ、お前には感謝してる、って言ったんだよ」
「……そうか。そうであったか。それならば、もう一度、収容所に入ってみるか?」
「ばっ、ばっかやろ! 誰が、二度と行くか、あんな所!」
「はっはっはっはっ。冗談、冗談だ。その方も、ずいぶん元気になったようで、安心したぞ。では、これで失礼する」
「お、おう……」
リューネに背中を向けて、中庭から立ち去るトーマイヤー。オケ部の練習場である芸術館へ向かう途中、腕の通信機にサカハシからの通信が入った。
「殿下。例のテロリストどもですが、黄色い髑髏会と名乗る組織の本拠地を精鋭部隊が襲撃し、リーダー各の男を含む全員を逮捕・拘束することに成功しました」
「それは上首尾であったな。いつもながら、頼りになる」
「もったいなきお言葉。では、ご報告のみにて」
通信が切れた。トーマイヤーは足早に歩いて、そのままオケ部の練習場へ入って行く。
いつものホールに入ると、部員たちが客席に座っていて、リユナとバッハイシバシが舞台袖で待っていた。
「あっ、トーマくん!」
「王子様のご到着だな。それじゃ、今日も聞かせてくれよ。今日は第三楽章だったよな!」
バッハイシバシは、それだけ言って客席へ下りていってしまった。
トーマイヤーはヴァイオリンを、リユナはヴィオラを携えて、舞台の中央へ進んだ。オケ部員たちの拍手に応えて一礼すると、すい、と楽器を構えた。
二人で目を合わせ、呼吸を揃える。
すう、とトーマイヤーが一息吸い込んで、軽快なロンド主題を奏で始めた。リユナもそれに合わせて、軽やかな伴奏を加える。
心躍るような愛らしいメロディーだった。
ヴァイオリンがワンフレーズ弾き終えると、すぐにヴィオラのメロディーである。かつてのリユナからは想像もできないような、豊かで深みのある、やわらかいヴィオラの音が滔々とホールに響き渡った。
その音色の美しさに、誰もが息を呑んだ。
曲は快活に、溌剌として進んでいった。お互いに相手の歌をよく聞き合って、とくにヴィオラはヴァイオリンの表舞台を下からしっかりと支え、二人の息は見事にぴったりと合っていた。
「ほう……これほど綺麗に揃うアンサンブルを実現するとは……あの二人……」
シューヤが聞きながら、独り言を漏らした。
もう一度、冒頭のロンド主題が出てくると、次は一転して沈痛な表情を見せ始める。悲劇的で痛切な胸の裡を語り始めた。リユナは弾きながら、トーマイヤーと共に陥った生命の危機を思い出さずにはいられなかった。途中、救いのように淡い光が射す場面では、あの日に見た青空が脳裏に浮かんできた。しかし曲はまたしても暗く悲痛な叫びへと転落してゆき、二つの楽器が対位法的に複雑に追いかけ合う。しかし暗雲が吹き払われて晴れ間が射すかのように、再びあの軽快なロンド主題へと回帰した。
ホール全体が、爽やかな感動に包まれた。
曲は前半の明るく楽しい曲調をさらに昂ぶらせ、高揚し、ひとしきりクライマックスシーンを築き上げ、二小節の弱奏の後、二つの和音を力強く響かせて、終止した。
熱狂的な拍手が巻き起こった。
トーマイヤーとリユナはお互いの目を見合わせて、二人でほほ笑んだ。
拍手がだんだん小さくなってきた頃合いに。
「お待ちになって!」
突然、ホールに響く声がする。足音とともに舞台袖から現れた人物があった。
「げっ、サユカ……」
「わたくしが、ちょっと体調を崩している間に、このようなことを……リユナさん、抜け駆けは許しませんことよ?」
「え、いや、その……」
返答に困るリユナを無視して、つかつかとトーマイヤーへ近寄り。
「トーマイヤー様! ずっと練習を休んでしまって、ご心配をお掛けしましたわ。でも、もう大丈夫ですのよ。すっかり、吹っ切れました。というわけで、今日からまた、弦楽四重奏の練習を再開させていただきますわよ! 秋の定期公演までには、まだ二か月ほどもありますわ。わたくしの実力でしたら、まだまだ、間に合いましてよ。おーっほっほっほっほっほっほっ」
口元に手の甲をあてがって、高らかにお嬢様笑いを炸裂させた。
客席でシューヤが、
「……相変わらず、空気読めてねえなあ……」
頭を抱えて、呆れかえっていた。
トーマイヤーが、にこやかに笑って言った。
「サユカ殿、ご本復なされて、本当に良かった。ずっと心配しておったのだぞ。ぼくも、そなたには少々厳しく当たり過ぎたのではないかと、反省していたところでな。どうか、先日の件については、ご宥恕願いたい」
「まっ……トーマイヤー様♪ お優しくていらっしゃいますのね……いいんですのよ。わたくしは、もう気にしてませんことよ」
「そうか。それは良かった。これからは、ぼくも手心を加えるゆえ、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわあ~!」
横でリユナが。
「……ちぇー、せっかくトーマくんと二人だけで練習できてたのに……」
小声でぼやいた。
「何かおっしゃいまいして?」
「え? いやあ、何も、別に言ってないけどお~?」
「まったく、人がちょっと油断してる隙に、厚かましくもトーマイヤー様とデュオだなんて、あなたには、百万年早くてよッ!」
「ひゃ、ひゃくま……」
バッハイシバシが舞台に上ってきて、楽しそうに笑った。
「わっはっはっはっ。お嬢様も無事復帰したことだし、秋の定演はモーツァルトの弦楽四重奏で決まりだな!」
リユナは、不満げに口を曲げていたが、ふとトーマイヤーと命の危機に遭遇し死をも覚悟したときのこと、それに二人で積み重ねてきた二重奏の心地よく美しい響きが、頭をよぎった。そして、小声でそっ、と呟いた。
「まっ、いっか♪」
その日の練習も終わり、トーマイヤーもサユカも、迎えの車に乗り込んで帰っていった。リユナは一人で、校門から駅までの下り坂を歩いていた。
明日からは夏休みである。
空は気持ちよく晴れ渡り、遠くに巨大な積乱雲が白く盛り上がっているのが見えた。
見下ろす街並みはどこまでも明るさに満ちて。
浮き立つ気持ちに駆られるように、リユナは坂道を勢いよく駆け下りて行ったのだった――。




