四重奏
そして、オケ部練習場。
バッハイシバシの指揮と指導のもと、現在予定されている曲を一通り消化した。まだ、終わるにはいつもより早い時間だった。
「ところで、今度の定期演奏会だが」
バッハイシバシが、話し始めた。
「一曲目はバッハのコンチェルト、三曲目はモーツァルトのシンフォニーとして、二曲目に何を持ってくるか、ずっと考えていてな。実は、選抜メンバーで室内楽をやろうか、と思って」
ざわっ、とオケ部員たちが、ざわめく。
「三年生は受験もあってあまり負担を掛けられないから、二年生からメンバーを選ぶことにした。まずは、王子様」
「はい」
「それから、お嬢様」
「当然ですわ」
「それに、ヴィオラがユズノハ、チェロはトウジョウジだ。まあ、妥当な選択だろ?」
他のオケ部員たちには、特に異存はないようだった。
「曲も決めておいたぞ。モーツァルトの弦楽四重奏曲第19番ハ長調KV465、通称『不協和音』だ」
それに反応して、トウジョウジ・シューヤが独り言のようにつぶやく。
「『不協和音』……その第一楽章冒頭の序奏部に、モーツァルトの時代には有り得ない、作曲学的には明らかに誤りとされるような大胆な不協和音が用いられていることで有名な曲だ……」
リユナも、感想を漏らす。
「えへへ、トーマくんと四重奏かあ。何だか楽しそー」
しかし、サユカの喜びようは、見ている方が恥ずかしくなるほどのものであった。
「まあああああ! トーマイヤー様と弦楽四重奏だなんて、わたくし、感激してしまいましたわ! 先生! バッハのソロは、喜んでトーマイヤー様にお譲りいたします! ああ、このような機会を設けてくださるなんて、やはり先生は素晴らしいお方ですわ……」
そして一人で、何やらうっとりとしている。何か妄想が頭の中を駆け巡ってでもいるのであろう。バッハイシバシは辟易しつつ、
「お、おう。喜んでもらえて、俺も嬉しいぞ、お嬢様。それで、だ。ファーストが王子様、セカンドがお嬢様で、問題ないよな?」
「はい、それはもう……っ?」
サユカは、ちょっとひっかかるものがあるようだった。しかし、思い直したようだった。
「ま、まあ、本来でしたら、わたくしがファーストヴァイオリンを務めるところですが、他ならぬトーマイヤー様とアンサンブルできるのでしたら、わたくしには何の異存もございませんことよ。おほほほほほ……」
目立ちたがり屋のサユカとしては、かなり譲歩しているようだった。
「そうだろ。弦楽四重奏となれば、オケとは違って各パート一人ずつだからな。目立つ度合いで言ったら桁違いだ。だが、その分、本番のプレッシャーもとんでもねえぞ。覚悟しとけよ!」
数分後、室内楽用に作られた小さ目の部屋。
四人が楽器を構えてスタンバイした。
この曲はチェロから始まる。トーマイヤーと軽く目で合図を交わすと、シューヤが静かに八分音符を刻み始めた。ゆっくりとしたアダージョである。
そこへリユナが、あまり冴えない音でヴィオラを重ねた。
次にサユカが、やや主張の強い音でヴァイオリンを弾き始めた。
最後にトーマイヤーが、細くて絹のようになめらかな音を三人の上に重ね合わせた。この曲のニックネームの由来となった不協和音が、静かな緊張感と不穏な空気を醸し出す。濃い霧に包まれて先が見通せない、どこか不安を誘う神秘的な音楽が室内に流れだした。
やがてその混沌としたわずか22小節の序奏部が、穏やかな半終止によっていったん落ち着きを見せると。
一転して、溌剌とした清澄ないかにもモーツァルトらしいハ長調の第一主題が、トーマイヤーの冴えわたるヴァイオリンから紡ぎだされた。活き活きとしたアレグロ、セカンドヴァイオリンとヴィオラの伴奏にのって。
それまでの混迷を一気に吹き飛ばすような、明るくて晴れやかなメロディーである。
が。
ほんの数小節弾き進んだところで、いきなりトーマイヤーが弾くのをやめた。
「ちょっと待ってくれ」
「どうしましたの、トーマイヤー様? せっかく、いい感じでしたのに……」
「いや、伴奏が問題だらけだ」
「まあ、伴奏が……ちょっと、リユナさん!」
「えぇーっ!? あたし?」
「他に、誰がいると思ってらっしゃるの? チェロは休みですし……」
シューヤがひょい、と肩をすくめた。
「だいたい、どうしてあなたがここにいらっしゃるのかしら。全くもって理解に……」
サユカが言いかけたとき。
「いや、サユカ殿。そなたが問題なのだ」
「ええええええーっ!? わ、わたくしがっ!?」
サユカが、目も飛び出さんばかりに驚いた。
「よいか、サユカ殿。ここはアレグロとはいえ、ぼくとしてはもっと優雅に、しなやかに弾きたいと考えている。しかるに、そなたの伴奏はあまりに性急すぎる。ぼくのメロディーを、そなたが急がせてしまっているのだ。これでは、急きたてられているようで、とても弾きにくい。もっと、ぼくのテンポに合わせてくれ。分かったかな?」
「は……はい」
トーマイヤーに言われて、サユカはしょぼん、とした。
「それから、リユナ」
「え、 はいっ?」
「リユナも、もっと活き活きと、軽くはずむように伴奏してくれ。ぼくの音をよく聴いて」
「う、うん、分かった……」
「それじゃ、アレグロの最初からもう一度!」
――一時間後。
「違ーう!! そうじゃない!」」
またしても、トーマイヤーの叱責が飛んだ。
「サユカ殿、何度言ったら分かるんだ?」
トーマイヤーは、顔はいつものように穏やかなのだが、声の調子だけは厳しい。
第一楽章の最初だけでなく、曲の途中で何度も演奏を止めては注意を繰り返していた。主に、指摘を受けるのはサユカと、それからリユナだった。チェロのシューヤは室内楽の演奏法にも通じているのか、あまり問題がないらしい。
リユナはもともと、自分の演奏の腕については大して自信などないので、言われたことを素直に受け止め、トーマイヤーの高度な音楽的要求に応えようと頑張っていた。
しかし。
自信過剰で目立ちたがり、自分が人を引っ張っていきたいタイプのサユカには、ずいぶんと堪えているようだった。いつも自信たっぷりの彼女が、涙目になっている。
「よし、展開部からもう一度やるぞ」
(ひぃ~、トーマくんて、本気になると、意外と恐いのね……)
リユナは心の中で思いながら、ヴィオラをよいしょ、と構えた。
と、そのとき、急に。
わっ、とサユカが泣き出した。
いつもの彼女らしくもなく、人目もはばからず、わんわん泣いている。
思わず固まる、リユナとシューヤ。だがトーマイヤーは。
「サユカ殿。泣いてうまくなるほど、音楽は甘くはないぞ。泣いている余裕があるなら、もっと努力を……」
「も、もういいですわっ、トーマイヤー様なんて、トーマイヤー様なんて……し、知りませんことよッ!!」
泣きじゃくりながら、ヴァイオリンを持ったままどこかへ走って行ってしまった。
呆気にとられて、それを見送る、三人。
ややあってから。
「やれやれ……泣かしちまったぞ。どうすんだ、王子様?」
「どう、とは?」
「どう、とは、って、泣かしたのは王子様だろうに」
「ぼくはただ、演奏に必要なことを言っただけだ」
「う~ん……それはそうだろうが……でも俺たちは、別にプロじゃないんだぜ?」
「プロだろうとアマチュアだろうと、音楽は音楽だ」
「……話が平行線だな。まっ、どっちにしろ今日はここまでだな。んじゃ、お疲れ~」
さっさとチェロを片付け始める、シューヤ。
リユナは冷や汗を流しながら、ひきつり笑いを顔に張り付けていた。
トーマイヤーは、むすっ、と不満げに口を引き結んで黙っている。
「また明日な~」
シューヤがチェロのケースを担いで部屋を出て行ってしまった。
二人取り残されて、気まずい時間。
どうしよう。そーっ、とトーマイヤーの方を見ると。
「リユナ」
「はっ、はい?」
「ぼくは、何かまずいことをしただろうか?」
「うっ……そ、そうね。う~ん、ちょーっと、厳しすぎたかなー? えへ、えへへへへ……」
「厳しい?」
「う、うん……」
「でも、リユナはちゃんとついてきてくれたじゃないか。どうして、サユカ殿だけが、あんなことになる?」
「う~、それは……その。サユカは、プライド高いし、お嬢様だし。あたしと違って、打たれ弱いのよ、きっと」
「そういうものなのだろうか。ぼくが音楽を教わったマエストロなんて、こんなもんじゃなかったけどな」
「え、こんなもんじゃない、って、じゃあどんなだったの?」
「ぼくがまだ小さい頃の話だけど、マエストロにぶん殴られて、五メートルくらい吹っ飛んだことがあったな」
「ご、五メートル⁉ (王子様をブッ飛ばして、そのマエストロは死罪とかにならなかったのかしら……??)」
「それに、練習をサボったりすると、父上にもめちゃくちゃ叱られてな。その日は夕食抜きにされたこともあったなぁ」
「ゆ、夕食抜き……(ど、どんだけスパルタなのよ、トーマくんの王宮って……)」
「そりゃあもう、毎日毎日、泣きわめきながらひたすらヴァイオリンを弾かされたものだよ!」
そして、あっはっはっはっはっ、と快活に笑った。
(わ……笑えねーわ……)
リユナはまたしても、冷や汗を頭から流しつつ、ひきつり笑いを浮かべるしかなかった。




