その14
殴られた後、何が起こったのかは覚えていない。思い出せるのは兄が私を抱き起こしてくれたこと。あの男が顔を血まみれにして大声でわめいていたこと。すぐに警官が入ってきて入れ違いに兄に病院へ連れて行かれたこと。
ほどなくして悪夢に悩まされるようになった。心療内科へ行ってはみたけれど、事件の事を口に出すのに耐えられず、すぐに通わなくなった。見かねた兄が同僚の知り合いだとか言う精神科医の所に連れて行こうとしたのだが、私は拒絶した。結局、兄は自分で話を聞いてきたのだ。
「人間の心って奴はな、悪いことを考えるのが大得意なんだと。恐ろしい体験を封印しようとしても、そいつは暗闇の中でどんどん成長していくだけなんだ。お前が気付いたときには最初とは比べ物にならないモンスターになっちまってるんだよ。だからな、お前は今そいつと向き合わなくちゃならん。そいつの本当の姿を思い出せ。現実に起こった事を思い返すんだ。記憶が膨らんで手に負えなくなるまでにぶっ殺さなくちゃなんないんだよ」
もう済んでしまった出来事なんだから、お前に危害を加えることはできない。同じことはもう二度とは起こらない。そう言い聞かせる兄に私は首を振った。
――だめだよ、お兄ちゃん。そんな恐ろしいこと、私には出来ない。
私が選んだのは逃げること。恐ろしい記憶の蓋が開かないよう、引き金となる物をすべて避けること。銀色の指輪、西日の当るマンション、小さな路地裏、幸せの象徴だった物たちが目に触れないよう、ひたすら隠れていること。
そうして私は平穏を得た。少なくともそう信じていられた。
だけど、私の心は新しい引き金を見つけてしまった。今まで気付かなかった、あの男が残した呪い。幸せを掴みたいと願う気持ちまでが、忌まわしい記憶を呼び覚ましてしまうなんて……。
私はその場に立ち尽くしていた。兄が丹波さんを連れてきた本当の理由が今ならわかる。彼なら私を救えると思ったんだ。あの男と丹波さんは違う。そんなことはわかってる。丹波さんは『タンバ』だったときも、正体がバレてからも、ずっと私のことだけを思ってくれていたのだ。騙されてはいたけれど、『タンバ』と過ごした二日間はかけがえのない素敵な経験だった。
このまま彼を失っていいの? 失くしてしまってもいいの?
けれど私の心は棒で殴られた子犬のように痛みに怯えて縮こまっている。底知れぬ恐怖に飲み込まれることを何よりも恐れていた。
もう、疲れちゃったよ。何もかも忘れて楽になりたい。ソファに腰を下ろし、体から力を抜く。ふと横を見ると青いドッキングステーションが目に入った。
あれ? 端っこから白いものが顔を出している。縫い目がほつれて開いた穴に、小さく折られた紙切れが差し込んであるのだ。引っ張り出して広げると、見慣れた兄の筆跡が目に飛び込んできた。
『お前、馬鹿だからさ、断捨離もいいけど、ほんとに大事なものまで捨てないようにな』
馬鹿、馬鹿って、何度も言わなくてもいいじゃない。そんなのもうわかってる。たった今、生まれてから一番馬鹿な事をやらかしたとこ。それでまた平穏な日々が戻ってくるんだからいいでしょう? 平和で退屈で孤独な日々が戻ってくるんだからいいでしょう?
膝に抱えたクッションにぽたりと水滴が落ちる。知らぬ間に涙が溢れ出ていた。
――丹波さんに会えなくなるなんて……嫌だ、絶対に嫌だ。
慌てて立ち上がって窓に駆け寄れば、真下にはまだ丹波さんの借りてきたバンがとまっていた。エンジンがかかり、方向指示機が点滅する。彼が行ってしまう。待ってと叫んだけど、エンジンの音で声が届かない。私は窓から身を乗り出すと、バンの屋根をめがけてドッキングステーションを投げつけた。
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ぼこん、と大きな音がした。車のエンジン音が止まり、運転席のドアから丹波さんが出てくる。路上に青いクッションが転がっているのに気付いた彼は上を見上げた。
「彩さん? 何をしてるんですか?」
「修理代は私が出します」
「それはいいんですが、こんなものを投げつけるほど怒ってたんですね」
「違うの。丹波さんを止めようと思ったんだけど、他に方法を思いつかなくて」
「どうして僕を止めようとしたのですか?」
戸惑った顔でクッションを抱え上げた彼に向かって、私は大きな声で言った。
「購入することにしました」
「え?」
「購入を決めたんです。掃除機がないとやっぱり不便でしょ? 私、もう生きていけないと思うんです」
丹波さんの顔には今まで私が見たことのない表情が浮かんでいた。目を見開いて、口をぽかんと開けて、そして、今にも泣き出しそうに見えた。
「すぐに伺います」
それだけ言うと彼は車の施錠もしないまま階段に向かった。私もいそいで玄関に向かう。ドアを開けたとたん、彼が勢いよく飛び込んできた。抱えていたドッキングステーションを床に転がし、何も言わずに私を強く抱きしめる。
丹波さん、震えてる。ほんの数日前、キッチンで『タンバ』に抱きしめられたのを思い出した。私が恋した掃除機はまだちゃんとここにいる。しみだらけの私の人生を片づけるために人間になって戻ってきてくれたんだ。
やがて彼は私の耳元で
「返品は出来ませんよ」
と小さくささやいた。
「あれ、クーリングオフは?」
「そんなもの、ありません」
「やっぱり購入はやめようかな」
「現在キャンペーン期間中なんですよ。今、購入されれば色々な特典がついて来ますけれど」
口調はいつもと変わらないけど声の響きは明るい。
「あれ、大きな買い物をする時はよーく考えろって『タンバ』に言われたよ? オマケに釣られると結局は損をする、とも言ってたし」
「彩さん、僕の言ったこと、しっかり覚えているんですね」
丹波さんはほんの少しだけすねたような顔をしてみせた。この人、こんな顔も出来るんだ。まだまだ私の知らない彼が隠れてる。
「嘘だよ。ちゃんと買いますってば」
「本当ですか?」
「本当です」
「では、購入時の特典サービスです」
「何かくれるの?」
「はい。円滑にサービスを提供できるように、目を閉じていただけますか」
目をつぶったとたん、私の唇になにかが押し付けられる。驚いて目を開けてみれば、丹波さんにキスされているところだった。あわててまた目を閉じると、倒れそうな私の身体を彼の両腕が捕まえ、自分の身体に押し付けた。
息を切らせて私は彼を睨んだ。
「それがサービスだなんて、丹波さんってやっぱり自信があるんじゃないの」
「あれ、お気に召しませんでしたか?」
私の顔を見て彼が笑う。特典サービスを気に入ったのが一目瞭然だったからだろう。
「さすがの吸引力でした。掃除機だけに」
「彩さん、悪ノリし過ぎです」
丹波さんがちょっぴり赤くなる。こんなときは彼なりにものすごく照れているんじゃないかと思う。
これからもずっとずっと一緒にいたいよ。だって、あなたの作り出す空間はとても居心地がいいんだから。部屋が汚いと幸運が逃げていくっていうけれど、たまには例外もあるのかな?
今も黒くよどんだ影が飢えたサメのように私を探して徘徊しているのを感じる。不安が溢れ出そうとしてる。でももう過去の記憶に怯えて暮らすのは嫌だ。私はこの人と一緒に明るい太陽の下をどこまでも歩いて行こうと決めたんだから。
兄によれば、人の心には辛い記憶を選んで残す傾向があるらしい。幸せな記憶で上書きするのが一番だと言われたけど、そんなもの、どこで手に入れられるのかわからなかった。けれども今は、丹波さんに任せておけば、私の惨めな過去なんてごしごしこすってきれいにして、その上から素敵な思い出で埋め尽くしてくれそうな気がする。
私たちは手を取り合って居間に戻った。丹波さんは、ドッキングステーションを所定の位置に戻すと、すっきりと片付いた部屋を見回した。そして、物足りなさそうにため息をついた。
「彩さん。今度僕が来る時までには、もう少し散らかしておいてくださいね」
お掃除ロボットは本日も健在のようです。