第一話 なおします
「整備房は、今月いっぱいで閉じます」
朝の集まりでそう言われたとき、俺は手にしていた砥石の置き場所を探していて、たぶん一拍遅れて意味を理解した。
言ったのはクランの運営部の女で、名前は知らない。銀の名札をつけていて、それがよく磨いてあった。仕事のできる人間の名札というのは、だいたいよく磨いてあるものだと思う。
整備房には二十三人いたが、誰も何も言わなかった。
「魔導鑑定盤の導入で、武具の状態は数値で管理できるようになりました。人の目による点検はもう、その」
女はそこで言葉を探していて、探した末に、いちばん正直なやつを口にした。
「割に合わなくて」
なるほどな、と思った。正しい。数字で殴られたら、たいてい正しい。うちの房の人件費は年に金貨千枚を超えるが、鑑定盤の使用料は八十枚だと聞いている。差し引き九百枚あれば深層の探索隊をもう一隊出せる計算になるはずで、俺が経営する側でも同じことをしただろう。
俺はゲルト・ハウザー、四十二歳、クラン・アルゴノート整備房の主任だ。
二十年で十二万本の武器を見てきた男が、年八十枚の道具に負けたわけだった。
最終日、持ち出せたのは私物だけで、房の備品はすべて置いていった。研磨輪も、穴あけ台も、二十年かけて自分の手に馴染むよう削り直した万力も全部だ。俺のロッカーから出てきたのは道具箱がひとつきりで、親父が使っていた鉄の箱の蓋の裏には、四十年前に書かれた名前がまだ薄く残っていた。
中身は砥石が三つと、ノギスと、真鍮のブラシと、油砥と、六角の鍵が七本。あとは自分で叩き出した当て金と、名前のない道具が十いくつか。それで全部だった。二十年の中身が、たまたま片手で持てる量だったというだけの話だ。
「ゲルトさん。あの、どちらへ」
昇降機の前で声をかけてきたのは、去年入ったばかりのトビーだった。
「さあな」
「さあって」
「どっか行くよ」
トビーは何か言いかけては呑み込むのを三度ほど繰り返していて、こういうとき大人というのは嘘でも元気でやれと言うものなんだろうが、あいにく俺は嘘が下手だし言葉も下手だ。二十年、鉄としか喋ってこなかったせいだと思っている。だから黙って昇降機に乗ったが、扉が閉まる直前にトビーが深く頭を下げたのは見えた。
その足で迷宮に潜ったのは、家に帰りたくなかったからで、それ以上の理由はない。
迷宮都市ヴェルナは、二百年前に地下へ口を開けた大迷宮の上に、そのまま人が住みついてできた街だ。到達済みの最深部は三十四階層で、街に住む者の三割が探索者か、探索者に食わせてもらっている連中で占められている。
俺も探索者の証は持っていて、等級は最下位の灰級だ。整備士は現場を見ないと仕事にならないから全員取らされるが、戦えるわけではない。安全に行けるのは十七階までで、それより下は死ににいくようなものだった。
その十七階に、灰の回廊と呼ばれる区画がある。昔はいくつかのクランが共同で資材置き場に使っていた場所だが、奥に新しい大穴が空いて人の流れが変わってからは、誰も来なくなった。行ってみたら思った通り誰もいなくて、錆びた鉄骨と割れた木箱と、十年ぶんの捨てられたものがそのまま冷たく積み上がっていた。
鉄の匂いを嫌う階層だから、魔物も寄りつかない。
いい場所だな、と思った。何しろ家賃がかからない。
俺は転がっていた木箱の前に道具箱を置いて、その上に腰を下ろした。そのまま三十分ほど、たぶん何もしなかった。
それから足元に落ちていた板きれを拾って、道具箱から炭の筆を出した。二十年やってきた人間の手というのは、頭が止まっていても勝手に動くものらしい。
『なおします』
書いたのはそれだけで、値段も名前も店を開けている時間も書かなかったのは、書くことがなかったからだ。板を鉄骨に立てかけて、また腰を下ろした。四十二の男のやることじゃないのは自分でも分かっていたが、ほかにやることもなかった。
どれくらい経ったのか、ふと顔を上げたら、目の前に人が立っていた。
小さい。子どもかと思ったが、たぶん十七、八というところだろう。前髪が長くて目が半分隠れているし、革の胴当てはどう見ても身体に合っていない。三代くらい前の型で、しかも中古だ。
その子が両手で抱えていたのは槍で、真ん中からきれいに折れていた。
「あの」
声が小さすぎて二度聞き直した。
「これ、直せますか」




