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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千


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第1話 ピラミッドタウン

挿絵(By みてみん)



 夜も明けきらぬうちから、石の街には喧騒が生まれる。

 往来を行く人々のざわめき。

 石畳を叩く荷車は、日干しレンガの家を揺らして通り過ぎていく。


 少年セスは、藁のむしろの上で目を覚ました。

 隣で寝ていた父ダクトの姿はない。

 けだるい欠伸をひとつ、寝たまま大きく背伸びした。


 ゆっくりと身体を起こす。

 日干しレンガの家は、窓が高い。

 砂埃を浮かせた薄い朝の陽ざしが、隣の部屋へと伸び始めていた。


 目覚めるたびに思う。

 朝が来なければいいのに、と。


 ついさっきまで見ていた夢を、セスは必死に思い出そうとした。

 ナイル川のほとりを、母と歩く夢だった。


 四年前、セスが十歳の年に、母キラは二十八歳の若さで亡くなった。

 出産時の大量出血が原因だった。


 ミイラになった母の姿は見ていない。

 あんなに硬く冷たい身体が、母であるはずがなかった。


「セス、起きて」


 十六になる姉のムトが、戸口から入ってきた。

 すらりと背が高い彼女は、鳥のように細い。

 亜麻の長衣の裾を腰紐で結び、頭に薄い布を巻いている。パン工房で働く彼女の腕には、いつも白い粉と赤いやけどの跡があった。


「起きてるよ」

 そう言いながら、セスは眠気の残る目をこすった。


「パンが焼けたわよ。食べなさい」


 ムトは、両手に抱えた籠を食卓に乗せた。

 大麦パンのかぐわしい香りが、セスの鼻をくすぐる。


「お弁当もできてるわ。父さんに届けて」


 言いながら、彼女は忙しなく奥へと入っていく。

 十歳になる弟のルカが寝ている部屋だ。

 幼い頃から病弱な弟は、昨夜も咳き込んでばかりいた。


 立ち上がったセスは腰布の乱れを治し、食卓に近づいた。

 父ダクトの朝食の跡が、そのまま残っている。

 

 赤茶色の陶器の皿に乗っているのは、大麦パンと玉ねぎがひとつ。

 昨夜の残りの煮豆も、小さな素焼きの器に入っていた。

 

 立ったまま、灰色の壺から杯にビールを注いで飲み干す。

 固いパンをちぎっては、どろりとした食感の薄いビールで流し込む。

 玉ねぎをかじると、鼻の奥がじんと熱くなった。


「ごちそうさま!」


 あっという間に食べ終え、弁当が入った籠をひょいと担ぐ。


「姉さん、行ってくるね! ルカ、おとなしく寝てろよ!」


 奥の寝室に声をかける。


「行ってらっしゃい」

「気をつけて」


 姉と弟の声が重なった。


 家の前の道は、採石場へ向かう石工たちの足跡で白く染まっていた。

 荷車の列が砂埃を巻き上げている。

 遠い採石場から、石を割る乾いた音が朝の空気を震わせていた。

 

 視線を伸ばせば、さらに遠くに三つの巨大な山がある。


 朝の光を受け、砂漠に長い影を落とす四角錐の建造物。

 白い石灰岩に覆われ、まばゆく輝いている。

 はるか悠久の時間を越え、エジプトを守り続けている聖なる遺跡だ。


 往来は、すでに七月の陽気で満ちていた。

 石工たちが列をなし、ピラミッドタウンの坂道を登っていく。


 ナイル川が増水期アケトに入れば、石を運ぶ船が動き出し、王や貴族たちのピラミッド建設や葬祭殿の増築が一気に始まる。


 もちろん、謎の古代遺跡である三大メル──メルとは「昇る」の意味だと、石工であり遺跡調査官でもある父ダクトが教えてくれた──の改築工事も、これから急速に進められることだろう。


 増水期アケトは石工にとって稼ぎ時であり、命が削られる繁忙期でもある。 

 今日も、物言わぬ石を刻む一日が始まるのだ。


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