194-相談
人通りの少ない民家が並ぶ路地裏の一角。少し奥まった位置に、窓の付いた壁があった。ドアは正面には無い。開け放たれた窓からは仄かに甘い香りが漂う。
耳や手首に装飾品を飾る黒い少年は、熱い円形の鉄板の上に、とろりと薄黄色のタネを落とす。それを小さなトンボで手早くくるりと伸ばす。円く薄く伸ばしたそれが狐色に焼けるのを待ち、頃合いを見て引っ繰り返す。
窓から見えるそれを、幼い少女は小さなカウンターに代金を置きながら目を輝かせて待っていた。
両面が程良く焼けたそれに純白のクリームを搾り、薄く切った鮮やかな苺を並べる。
「ろっ、ロタ! 今すぐ贔屓の所に連れて行って!」
「!」
苺を並べ終えた少年――黒種草はぴくりと一瞬手を止め、すぐにその生地を手際良く畳んで包み、厚い紙を巻いた。その上に更にクリームを少し搾り、花のように切った苺を載せる。
幼い少女は目を輝かせ、その花束のようなクレープを受け取って嬉しそうに去って行った。
「……いつもの千里眼じゃ駄目なのか?」
「直接話したいの! 贔屓は科刑所にいると思うわ。狴犴と話し合いをしてるはず」
「またあいつらか……」
「大変なの……蒲牢の片腕が無いの!」
「!?」
鴟吻は窓からは見えない物陰で杖を握り、千里眼を使用していた。彼女の千里眼は異国の遠方を覗くことはできなかったが、花街へ赴く獣達の様子を探るために焦点を合わせる鍛錬をしていた。
「饕餮も……し、死んでないわよね……?」
目を閉じて千里眼を使用しながら、鴟吻は杖を握り締める。その声は微かに震えていた。
どうやら花街で何かあったらしい。黒種草は窓の前に突き出している小さなカウンターを畳み、窓にシャッターを下ろす。今日はもう店仕舞いだ。
* * *
「一人、二人……また一人……」
立ち入り禁止の塔の一室で、黄色い少女は開いた瞳孔を床に向けて呆然と数を数えていた。
「一人……一人、一人一人ひとりひとりヒトリ……」
声が震え、両手で頭を掻き毟る。髪を握り締め、息が上がる。
もうどれほどここに一人でいるだろう。外では何かが壊れる音がする。何度も、何度も。確認する勇気は無かった。だが悪いことが起こっていることは間違い無い。
「皆……皆もういなくなったかな……私が最後かな……私も殺されるんだ……喰い破られて……皆、皆……連れて行かれる……殺される……スコル様とハティ様に殺される……!」
一人また一人と、自分と同じ容姿の少女が彼に連れて行かれた。静かに音を立てず、誰にも悟らせず。城に棲む他の獣や無色の変転人は、彼女達がいなくなっていることに気付かない。唯一アルペンローゼだけが一度、彼女達に尋ねたことがある。
――最近、城外の仕事が多いのか?
最近ではなくもうずっと前からだったが、彼なら彼女達が消えることに何か対策を講じてくれるかもしれない。
有色の変転人である彼女達は獣に逆らうことができない。抗う武器も出せない。腕を掴まれれば逃げられず、呼び出されただけで簡単に付いて行く。アイトワラスに付いて行った彼女達は『変』になった。普段はしない悪戯をするようになり、いつも通りの時に悪戯のことを質しても答えは返ってこない。『変』になった時のことを覚えていないのだ。
『変』になって暫くすれば姿を消す。スコルとハティに連れて行かれる。少女はそれを尾行した。そして立ち入り禁止の塔の最上階を見た。何人もの彼女達が折り重なり、変な虫に喰い破られていた。
――アル兄様、助けて……。
それが言えたらどんなに良かっただろうか。立ち入り禁止の塔に無断で入ったことが後ろめたく、言うことができなかった。
だが彼女達は皆、無意識に助けを求めたかったのだろう。アルペンローゼに悪戯を仕掛けることが多かった。その所為でアルペンローゼは傷を負うことになり、それは擦り傷程度だったが、それで彼女達の『変』が移った。
アルペンローゼが花街の外へ捨てられたのは、彼女達――ミモザの所為だ。
「嫌だ……死にたくない……私の中にもあんな……あんな変な虫が……アル兄様……死にたくない……助けて……」
もう涙も枯れ果てているミモザは埃を被った部屋で頭を抱え、誰に縋れば良いかもわからず孤独に震える。
「アイト様……そう言えば先生の診療所で見た容器を持ってた……先生も一緒に皆を殺してるの……? ……ち、違う……先生は変な人だけど……怪我とか……治してくれる人だから……」
もう限界が近い。極限の状態で、恐怖に囲まれながら、ミモザは衰弱するほど耐えてきた。飲食もできず、精神が擦り減り、限界が近かった。
虚ろな目を何も無い部屋の隅に向け、乾いた吐息が忙しなく漏れる。
「アル……兄様……の、料理……また撮み喰い……したかった……」
目を開けるのも難しくなっていたミモザは、ゆっくりと、そして物が落ちるように床に倒れた。
* * *
花街から離脱した獏達は、一旦エーデルワイスとゲンチアナに合流して場所を移した。エーデルワイスはヴイーヴルに抱えられた意識の無いアルペンローゼを見て武器を生成しようとしたが、獏達に取り押さえられ簡潔に事情を聞くことになった。詳細は後で話すとし、エーデルワイスは眉を顰めながらもアルペンローゼの容体が心配なので渋々従った。ゲンチアナもまた青褪めたが、武器を取り出す気骨は無かった。
人間どころか動物の気配も無い大きな廃墟へ、一行は身を隠す。
鬱蒼と茂る森の中に、蔦や草の絡む三階建ての古い建造物があった。周辺には他に建物は無い。窓硝子は割れ、明かりのない薄暗い出入口も荒れ果てて所々に草が生えている。おそらく昔は綺麗に整列していたであろう革張りの椅子があちこちに散乱し、引っ繰り返っている物もある。出入口の近くには、宵街の病院の受付のような、区切られた場所があった。
「廃墟……だよね。こんな大きな建物が忘れられて残ってるんだね」
獏は感心して周囲を見回す。床や壁は剥がれ、穴が空いている所もある。いつか天井も落ちてきそうだ。
「ここは元々ホテルだったのよ。私が見つけた時から廃墟だったから、いつからあるかは知らないけど。ホテルと言えばベッドがあるでしょ? アルを寝かせるのに丁度いいと思うの」
「少し掃除した方が良さそうだけど……」
ヴイーヴルはアルペンローゼを抱えて迷わず階段へ向かった。もう何度も訪れていて、中に何があるのか把握している。
だがその足がぴたりと止まる。壁の穴からそろりと小さな顔が覗いていた。それは宵街にいる花魄と同じくらいの大きさの掌に乗る程度の小さな少女で、背には蜻蛉のような透けた翅を生やして飛んでいた。
「妖精……」
足留めは喰いたくない。ヴイーヴルはアルペンローゼを抱く手に力が籠り、焦れったく階段に足を掛ける。
「えー。無視するの? ここは私の家なのに!」
頬を膨らませたかと思えばころりと笑い出し、妖精は口元に手を当ててくつくつと神経を逆撫でする。
小さな少女に獏も目を丸くし、窮奇は苛立ち顔を顰める。蒲牢は表情を変えずに様子を窺う。三人は妖精を見るのは初めてだ。花魄を知っているので大きさには驚かないが、どういう存在なのか不明なのでヴイーヴルの行動を注視する。
「ほら皆! 皆も出て来て! 私達の家を荒らす悪い奴!」
壁の穴や物陰から、同じような大きさの翅が生えた少女達が顔を出す。ここは廃墟だが、どうやらこの小さな獣達はここを塒にしているようだ。
「帰れ帰れ! 大きな獣!」
「ここは私達の場所!」
「私達が見つけた場所!」
威嚇するように耳障りな羽音を立てながら妖精は口々に騒ぐ。負傷者を早く休めたいのに、羽音に呼ばれるように妖精は数を増やしていく。
窮奇は音に苛立ち、抱えている饕餮を獏と蒲牢に押し付けようとする。獏は彼を落ち着かせながらヴイーヴルを窺う。妖精は花街圏では珍しくない獣だ。ヴイーヴルも慣れているだろう。だがちらりと窺った彼女の横顔は窮奇のように苛立っていた。
「これだから羽虫なんて呼ばれるのよ! 私を誰だと思ってるの!?」
妖精は嘲るように笑ったり、不快なものを見るように顔を顰めたり、各々姦しく喚き立てる。話ができる状態ではなかった。
どうするのかと様子を窺っていたが、獏と蒲牢はきょとんと目を瞬くことになった。ヴイーヴルに策は無く、ただ小さな獣達を文字通り蹴散らした。
「退きなさい! 怪我人が目に入らないの!?」
妖精は圧倒的な体格差に為す術も無く蹴り飛ばされ、壁に叩き付けられ床に転がる。妖精の対処法はこれで良いのかと疑問に思いつつ、獏達もヴイーヴルに倣って妖精を避けて階段を上がった。さすがに恨みも無いのに踏み潰せない。
飛ばされた妖精はすぐに体を起こせず、追って来ることはなかった。
破れた赤い絨毯が敷かれた階段を上がり、二階の廊下に並ぶドアを見回す。閉まっているドアもあれば開いているドア、壊れているドア、外れてドアが消失している部屋もある。
「閉まってるドアは開かない所もあるから、開いてるドアで、ベッドのある部屋……」
ヴイーヴルの後に続き、部屋の中を覗く。ほぼ全て客室だが、ベッドが無い部屋や、あっても壊れて使用できない部屋もある。
「閉まってるドアだろうと壊せばいいじゃねーか」
窮奇は饕餮を抱えながら、血の気の多い提案をする。傷付いた饕餮を早くベッドに寝かせたかった。
「廃墟は管理放棄された建造物なのよ。放棄された建造物は朽ちていくの。獣がちょっと力を加えたら、壊れるかもしれないわ。ドアじゃなくて、この建物全部が」
「ドアを壊しただけで建物が崩壊するのかよ……」
「石でできてるからそこまで脆くないと思いたいけど……だから、開いてるドアも閉めないでね。開かなくなったら大変。あの妖精が何かしてるかもしれないし」
「妖精って、あんな風に蹴散らしていいの?」
妖精が話題に上がり、あまりにぞんざいな扱いをされていた妖精達を憐れむように獏は口を挟む。花街の獣とはなるべく揉めたくないのだが、ヴイーヴルの対処は正しいのだろうか。
「え? 妖精を知らないの? 宵街にはいないの?」
「いない……んじゃないかな?」
蒲牢に目を遣り確認を取る。彼は頷く。宵街でああいった妖精は見たことがない。
「あら、そうなのね……。こっちはたくさんいるから、何処にでもいると思ってたわ」
「そんなにたくさんいるの?」
「そうよ。人間は妖精を綺麗なものか悪戯好きの面倒な奴だと思ってるけど、獣は皆、妖精のことは虫だと思ってるの。だから扱い方も虫と同じ。目障りだと思ったら手で叩き潰すの」
「え……そんなのでいいの? 仲間に恨まれて復讐されない?」
「面白いことを言うのね。特別な妖精もいるけど、その辺に飛んでる多くの妖精は下級も下級、知性が乏しいの。君も虫を殺したことがあるでしょ? 恨まれると思って殺してるの?」
「それは……そう言われるとそうだけど。獣にも色々いるんだね……」
「獣って括りが大雑把過ぎるのよ。――あっ、このベッドが良いわね」
比較的綺麗に形が残っているベッドを見つけ、ヴイーヴルは杖で一度叩いた。長年降り積もった埃と砂塵が舞って咳き込んだが、四本の脚はしっかりと床に立っている。これなら人を乗せても大丈夫だろう。
枕は無かったが、頭を置く位置に清潔なハンカチを敷き、意識の無いアルペンローゼを寝かせる。呼吸は穏やかに安定している。アイトワラスの味方をしているようだが、カトブレパスは医者の使命を果たしてくれたようだ。
「おい。そいつを寝かせたら、饕餮は何処に寝かせりゃいいんだよ」
「部屋は他にもたくさんあるわよ」
「最初から言えよ! ベッドの奪い合いだってな!」
「ベッドの奪い合いよ」
「今言うな」
苛立つ窮奇を獏は宥め、部屋から連れ出す。ヴイーヴルの言う通り、客室は他にもある。
彼女達とは少し離れた部屋に破損していないベッドを見つけ、窮奇はそのまま饕餮を寝かせた。饕餮のふわふわとした髪はベッドの埃と砂塵を掃除している。
獏は部屋の隅に転がっていた小さな丸テーブルを起こして置き、脚が一本折れた椅子に座る。蒲牢も倣って、脚が折れそうな椅子を起こして座った。椅子は二脚しかなかったので、窮奇はベッドに腰掛ける。埃と砂塵が少し舞った。
「……これからどうする?」
やっと一息吐き、獏は三本脚の椅子が倒れないよう慎重に背に凭れて口火を切る。狴犴に頼まれて花街を威嚇しに来たが、どんどん悪い方へ流されている。
蒲牢は頭の角を重そうに擡げ、睫毛を伏せて考える。とても面倒なことになった。
「……フェルニゲシュをどうにかしないと城の調査はできそうにないから、一旦諦めて帰るか、打倒フェルニゲシュを掲げるか。仕返しに一発殴りたい気持ちはあるけど……二人はどうしたい?」
一人で決めるには状況が拗れてしまった。問われた二人は険しい顔をする。花街のために、蒲牢のように何かを失う覚悟はあるかという問いに等しい。
「殴りたいのはオレもだけど、帰ればいいだろ。饕餮は重傷なんだぜ? 殴る以外に留まる理由はねーな。オレ達に花街を守るなんて反吐が出そうな義務は無いだろ」
「だよねぇ。命あっての物種だし、相手も悪い」
「……じゃあ一旦帰っ……いた」
意見を纏めようとした蒲牢は小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「何か……小石? 頭に降って来た」
「え? それって、天井が崩れるってことじゃ……」
「天井が? 押し潰される……」
三人は一斉に天井を見上げ、小石を顔面に受けた。
「!?」
だが天井が震えることはなく、代わりにヒラヒラと紙切れが降って来た。蒲牢はそれを抓んで確認する。
「これ……鴟吻だ」
「え? こんな遠くまで見えないんじゃなかったっけ……?」
「そのはずだけど」
もう一枚、ヒラヒラと紙切れが降って来る。蒲牢はそれも抓む。
「……かなりの集中力を要するらしいけど、少し見えるようになったんだって。あまり長くは見られないから、簡潔に……」
頭に今度はノートとペンが降って来た。ノートの角が当たり、蒲牢は頭を摩る。宵街圏からかなり距離があるので、小物転送の狙いが上手く定められないようだ。
「俺の腕が無いし、饕餮は気絶してるし、状況を記せ、って言ってる。獏、書いて。俺は両利きだけど片腕じゃ書き難い」
「あ、うん……いいよ」
口頭の会話が一番早いが、鴟吻の千里眼は音を拾うことができない。
文字を書く時はノートを押さえる手も必要だ。獏はノートを受け取り、丸テーブルに広げた。
「俺と饕餮の姿を見て驚いたみたいだ」
「それは驚くよ……」
獏が書き殴った文章は鴟吻が都度千里眼で見ている。まずはベッドに横になる饕餮が治療を受けて無事だということを伝えた。
短時間しか覗けないとのことで、これまでの要点を簡潔に記し、最後にわかりやすいようフェルニゲシュの一撃の破壊力を絵に表した。
「……獏。何だそれ?」
「フェルの凄い攻撃」
「とてつもなく長いエビフライかと思った」
「え……そんな脈絡の無いもの書かないよ! とてつもない長さのエビフライって何!? お腹空いたの?」
「空いてる」
獏はノートに蒲牢が空腹であることを追記した。
紙切れは落ちて来ないが、代わりに固い物が降って来た。角がまた蒲牢の頭に当たった。茶色くて薄い長方形の物が床に落ちた。板状のチョコレートだ。
「俺のか」
「蒲牢はたくさん消耗したから、足りないんじゃない?」
「無いよりはいい」
長方形の紙を剥ぎ、箔を捲ると薄いチョコレートが顔を出す。蒲牢は角を齧って折り、甘く溶けるそれを味わう。久し振りに食べ物を口にした気がする。宵街を出てから随分と時間が経ったように感じた。
半分ほど食べた所でまた紙切れが降り、抓んで確認をする。
『贔屓と狴犴が話し合ってるから、少し待って。宵街で花街の獣が暴れて変転人に死傷者が出たから、最低でも抗議はしてほしいんだけど』
「何か揉めてるみたいだ。最低でも花街に抗議か、宵街に帰るか」
「死傷者……宵街も大変なことになってるみたいだね……。蒲牢と饕餮がこんな感じだから、すぐ戻って来いって言いそうなのに、戻っても安心できないのかな?」
「今は呑気に食べてるし、余裕があると思われたかも」
「ここだけ見れば確かに。でも獣だって疲れるし不死じゃないんだからさ、もう少し労わってほしいよね」
「ノートにそう書いてみたら?」
「罪人が言ってもなぁ……」
ぼやきながらもペンを走らせ、蒲牢の頭に先程と同じ板状のチョコレートが降った。
「おかわりが来た」
「それ僕の。僕も欲しいって書いた」
「チッ……」
無感動に舌打ちをし、蒲牢は落ちて来たチョコレートを獏へ差し出して自分のチョコレートを齧った。苦笑しながら受け取った獏は早速チョコレートの包装を剥ぎ、ふと視線を感じて足元に目を落とす。床に転がる石ころの陰から小さな妖精が一人、物欲しそうな顔で見上げていた。先程立ち塞がってきた妖精達よりも少し小柄な妖精だ。ヴイーヴルは虫と同じだと言っていたが、小さくとも人型をしている獣を虫だと思うことはできなかった。獏はこっそりとチョコレートの角を折って床に手を下ろした。蒲牢と窮奇は気付いていない。
妖精は様子を窺いながら、自分の頭ほどあるチョコレートの欠片を素早く奪い取って物陰へ駆けて行く。物陰を移動しながら、背中の翅で飛ばずに足で走って部屋を出た。虫と言うより、小動物のようだ。
「おい、お前らばっかり餌貰ってんじゃねーよ。オレにも肉を寄越せ」
「肉は重いから難しいかもしれないな。あまり質量のある物は転送できないから」
「一応書いてみるよ。注文したら降って来るの、面白いしね」
視線を戻してふふと笑い、獏はノートに書き込む。チョコレートより少し時間は掛かったが、蒲牢の頭に生える白珊瑚のような角に薄い生肉がぺとりと引っ掛かった。
「…………」
「うっすいな」
「しゃぶしゃぶ用かな?」
鴟吻が転送できる限界なのだろう。窮奇は立ち上がり、蒲牢の角にだらんと垂れ下がる薄い肉を抓んだ。蒲牢の顔には虚無が浮かんでいる。
「脂少なめ赤身肉……わかってんじゃねーか」
窮奇は口の端を上げて満足し、ベッドへ戻って脚を組んだ。
「肉なら何でもいいってわけじゃないんだね」
「まあな。脂より赤身の方が肉喰ってるって感じがするだろ。人肉もそうだ。女の肉は軟らかいけど、脂肪が多い。筋肉質な男の方が旨い」
「へぇ。そんなに違うものなんだ」
続いてひらりと紙切れが落ちる。宵街からはあまりに遠方で、落下位置を逸らせられない。全て蒲牢の頭上に降って来る。
『最終的には現場の判断に委ねるけど、フェルニゲシュの脅威が宵街に及ばないか確認してくれる?』
「獏、窮奇。フェルニゲシュは宵街に行くと思うか?」
「オレに訊くな。知るか」
「フェルの状態はよくわからないから何とも……かな。でもフェルがアサギさんに会いに来たのが最初だし、目的があれば行く可能性はあるのかな」
「それもノートに書いて。今の会話全部。鴟吻には聞こえてないから」
「はいはい。何だか書記になった気分だね」
三人の会話を一字一句そのままノートに書き、反応を待つ。
『獏、悪夢は使える?』
「え? 何? そんな嫌な言い方をするのは狴犴でしょ」
『使役できるなら下手な獣を送るより優位に立てる』
「この口調は絶対鴟吻じゃないね。狴犴だよね。悪夢の使役はしたくない」
「獏、使役するかは別で、近くに悪夢はあるのか?」
ペンを走らせる獏の手が止まる。蒲牢に他意は無く、ただ確認のために尋ねただけだ。凝視されると獏は居心地が悪い。
「……悪夢はあるけど……」
「俺か?」
「蒲牢じゃないよ。君からはもう悪夢を感じない」
「花街の人か?」
返事を逡巡するが、口止めされているわけではない。獏は小さく頷く。
「じゃあいきなり悪夢なんて目にしたら驚くだろうな」
「……そうだね」
「例えばなんだけど、悪夢は獏しか触れられないんだから、フェルニゲシュも苦戦するか?」
「何とも言えない。フェルの力は物理的じゃないから悪夢に効くかも」
「厄介だな、あいつ……」
二人は顔を見合わせて溜息を吐く。花街はフェルニゲシュの力を封じ、後に面倒なことになると予測できなかったのだろうか。
窮奇は薄い肉を頬張り、他人事のように退屈そうに頬杖を突いた。
* * *
ベッドを探す宵街の獣達を見送り、ヴイーヴル達は転がっている椅子や破れたソファに腰掛けた。エーデルワイスに睨まれ、ヴイーヴルは慌ててアルペンローゼの有様を説明する。
「これはアイトに遣られて……アイトがカトブレパスの能力を使ったんだけど、大丈夫よ。カトブレパスがすぐに治療してくれたから」
自分の能力の被害を自分で治療する事態はそうないだろう。複雑な事態である。
「どうしてアイト様が……」
ゲンチアナは不安そうにアルペンローゼを見詰める。ゲンチアナを逃がしてアルペンローゼ達に預けたアイトワラスが、何故このような仕打ちをするのか。
「……アイトはフェルを慕ってるから裏切らないと思ってたけど、逆だったみたい。慕ってるから裏切った」
「裏切り……」
「フェルの首輪がずっと気に入らなかったみたいね。フェルを解放したくて、でも他の大公が邪魔で。私達を城から引き離す計画を立てて、それで……」
『それはアルがこんな目に遭う理由にはならない』
新しくメモ帳を調達したエーデルワイスも詰問を始める。ヴイーヴルの話だと、邪魔なのは獣で、アルペンローゼは関係無い。
「それは……宵街の子も同じ攻撃を受けたし……」
『お前を止めるためじゃないの? アイトワラスは捕まりたくないから。お前に攻撃を当てられなくても、変転人なら簡単に当てられる。お前の所為でアルは利用された』
「!」
ヴイーヴルは三つの目を見開き、睫毛を伏せてベッドの上を見た。彼女を止めたいなら目的は達成された。彼女達は花街から離脱した。アイトワラスの目論見通りだろう。
もしかしたら花街から離脱する選択は間違いだったのかもしれない。
「アイト様の目的はフェル様の解放……なんですよね?」
「ええ、そうみたいよ」
「では今は、街はどうなってるんですか? 首輪が無いと危険だと聞いてますが」
「わからない……アイトから聞いたのはフェルを解放したいってことだけで、その後どうしたいかは言ってなかったわ」
『後先考えないのが獣。どうせ何も考えてない』
「アイトだけならそうなんだけど……問題はカトブレパスも協力してるってことで……」
「!?」
今度はゲンチアナとエーデルワイスが目を見開く。変人として名高い彼が関わっているなら厄介だ。彼の思考は誰にも理解できない。
『アイトワラスよりカトブレパスを捕らえた方がいい。あいつはアルを解剖しようとしたことがある。危険』
「そうねぇ……」
「えっ!?」
どうしたものかと冷静に話す二人の言葉の中に、聞き捨てならない言葉が含まれていた。ゲンチアナは思わず声を上げ、二人の視線を浴びた。
「アナは知らなかったかしら? アルは治癒力が高いから、研究したいってカトブレパスが言い出したの。調べ尽くしたら解剖もしたい、って」
『アルが変転人になって間も無い頃だから、アナはまだいなかった』
「そうだったかしら? カトブレパスの要求は勿論却下したけど、しつこかったわ。何度も城に来て……出入り禁止にしたの」
『あいつは殺しておくべき』
「怖がられてるけど、カトブレパスほど腕が立つ医者はいないんだから殺すのは駄目よ。……でもアイトに協力した内容によっては死刑にしないといけないわよね……難しい話だわ」
ヴイーヴルは腕を組み、小さく息を吐く。花街にはカトブレパス以外にも医者のような者はいるが、飽くまで『ような者』である。頼れる医者はカトブレパスだけだ。可能なら彼を失いたくない。
「……あ、そうそう。宵街の人達はベッドを見つけたかしら? 今後どうするか、聞いてきてくれる? フェルを抑えるのを手伝ってくれればいいんだけど……さすがに虫が良過ぎるわね」
「私が行ってきます」
ゲンチアナは即座に踵を返し、部屋を後にする。守られてばかりで落ち着かなかった所だ。王の秘書はゲンチアナなのに、逃げてばかりだ。
(……私……このままでいいのかな……死ぬのは嫌だけど、死ぬのが私の使命なんだよね……)
事態が拗れる程、傷付く人が増える。ゲンチアナが腹を括れば、アルペンローゼもこんなことにはならなかったはずだ。宵街の獣も負傷することはなかった。
剥がれた壁や壊れた調度品が転がる廊下を歩き、ゲンチアナは溜息を吐く。自我の無い植物なら、こんなに悩むことはなかった。
半分ほどドアが開いた部屋からぼそぼそと声が聞こえ、ゲンチアナは中を覗く。アルペンローゼと同じく負傷した獣はベッドに寝かされ、三人の獣はそれぞれ食べ物を頬張りながら寛いでいた。
「まるで自分の家のような緊張感の無さ……」
思わず声に出してしまったゲンチアナに、三人は頬張ったまま顔を向けた。
「アナさん」
「あ、いえ、すみません。何でもないです」
獏はただ部屋を覗いた彼女に呼び掛けただけだが、ゲンチアナはばつが悪く少し目を逸らした。
「今ね、今後どうするか考えてた所なんだよ」
「そうですか。私もそれを聞きに来たんです」
「僕達は宵街の方に帰りたいんだけど、統治者がまだ帰って来るなって言うんだよ」
「そうなんですか」
「フェルの脅威が宵街に及ぶ可能性がないか見極めてほしいんだって。アナさんはどう思う?」
「どうと言われましても……私はフェル様が暴れてる所を見てません。私はいつものフェル様しか知らないので……。怖さはわかるんですが。……すみません、腕が無くなってるのに」
ゲンチアナは申し訳無さそうに頭を下げ、獏は話題に上げられた蒲牢へ目を遣る。当の本人は無表情でチョコレートを頬張っている。
「……えっと、そっちはどうするの? ヴイーヴルは何か言ってた?」
「宵街の方々にフェル様を抑えるのを手伝ってほしいと」
「それ、僕達は役に立つの? ヴイーヴルは龍属なんでしょ? 彼女の方が強いよね」
蒲牢も龍だが、彼は片腕を失っている。隻腕でも獏より強いはずだが、同じ龍属であるフェルニゲシュの暴走を止められる保証は無い。
「抑える方法は……おそらくまだわかりません。共に考えてほしいのではないかと」
「首輪もフェルのこともよく知らないんだけど……一応訊いてみるよ。相談なら乗ってくれるかも」
手元のノートに文字を書き込む獏を、ゲンチアナは不思議そうに覗く。その前にも幾らか文章が書き込まれている。
「悪夢を……使役?」
「ん? ……あ、これ? 気にしないで」
ひらりと蒲牢の頭上に紙切れが降り、抓んで獏に見せる。
『フェルニゲシュの情報が少ないけど、考えてみるわ。狴犴は烙印を捺すのが一番楽だって言ってるけど、花街には無いわよね?』
「アナさん、罪人の烙印なんて花街にある?」
「烙印? 罪人は捕縛後、審議する間は牢に入れられますが、身体には何も刻みません。牢自体に制限が施されているので」
「だよねぇ。宵街は罪人の体に激痛と共に烙印を刻むんだよ」
「その烙印と言うのは、どういうものなんですか?」
「杖が出せなくなるんだよ」
「! 杖を!? そんな強力な呪縛を体に直接施せるんですか!? それならフェル様も鎮圧できるのでは……杖が無いと獣は何もできません!」
「捺せればいいけどね。抵抗するだろうし、それを押さえ付けて烙印を捺すのは難しいよ。フェルに近付くのも命懸けになるだろうし」
「そう……ですよね。そんな簡単に鎮圧できる都合のいいものがあるわけないですよね……」
「狴犴は印に詳しいらしいから、何か都合のいい印がないか探してくれるよ。妙案が思い付くのを待とう」
「……はい」
ゲンチアナは頷くが、不安が消えることはない。どうしてこんなことになったのだろう、そればかりが頭に浮かぶ。
彼女がこれまで見てきた穏やかなフェルニゲシュは一体何だったのだろう。心の中ではどうしようもなく暴れたくて堪らなかったのかもしれない。




