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 それからまた十日が過ぎた。


 予告の翌日に、シレンティウムの現当主である――こういう言い方は最早されないのかもしれないが――オルキス・シレンティウム氏を伴い、シルワが来店した。白いものが混じり始めた栗色の髪を撫でつけて長い部分を後ろで結び、上品な草色の胴衣に、刺繍は少なくとも上等な光沢を孕む薄黄の絹羽織、イオクス材のような濃い茶色のズボンの裾は編み上げサンダルで固定して美しく処理されている。昼の二刻、開店直後のことだ。


 まだ客のいない中、かの御方は父と向き合い、流麗な所作とともにその頭を深く下げた。


「シルワを頼む、イーグニス殿」


 どうやらしっかり説得されたらしい。


 娘のシルワには、勘定台での仕事を覚えて貰うことにした。この美貌、この笑顔、貴族の回りくどい言い回しを経験として備え、論理を以て他人を説得出来る力を持つ、これがどうして戦力にならないことがあろうか。結論から言うと、初日から私は助かった。南街区の酒場「竜の角」に突然の卸が入ったのだ。強制的に彼女に任せざるを得なくなったが、勘定台を気にしてくれながら仕込みと焼きの作業をしていた母が絶賛していたので、大丈夫だろう。


 その日のうちに私は勘定台から遠ざかり、パン屋「彩浪亭」における原料や材料の調整、飲食店への卸、給与や元手に関する財務を担当するようになった。中等学舎の頃に民俗文化研究課程を取っていた傍ら、財務課程も修了しておいた甲斐があった。便利だ。


 アリスィアがまた来店した。目元がほんのわずかな動揺を帯びていたので、何かと思えば、求婚されたらしい。聞けば、相手は元反乱軍の頭領、現在はシルディアナ群主共和国アル・イー・シュリエ地方群主の男性だとか。何ということだ。


「こんな小娘で良かったのか、って思わず訊いたけど、大体のことが片付いて空っぽになってしまった自分にもまだやることがあると思い出させてくれたから、って、言われた」


「なかなか情熱的な方ね」


「了承したら、その場で色々持っていかれたわ、優しかったけど」


 言った瞬間、彼女の顔がアスヴォン高原産の林檎のように真っ赤になった。おっと、何も言えない。経験がないから何も言えない。


「あの人、私より十五歳も年上で、もっと相応しい人がいそうなのに」


「……アリスィア、何歳なの?」


「十七になるわ」


「えっ?」


「えっ、何かおかしいことがあった?」


 結婚よりもそっちの方に驚いた。十七歳とは。


「……あなたの歳よ、普通に同じくらいだと思っていたわ」


「テーラは?」


「もう二十五よ」


「でも、つやつやしていて綺麗じゃない、パンみたいに美味しそう」


 嬉しい言葉である。私はアリスィアにお祝いの気持ちも込めて、新作として出たばかりの甘露煮パンと平パンを二つずつおまけしておいた。是非夫と食べて欲しいと言ったら、抱き着いてきた。やっぱり、とても可愛い普通の女の子だ。また彼女に関する何かを忘れているような気がしたが、私は思い出せなかった。何だったっけ。


 そして「竜の角」料理人であり食材仕入れ担当になったらしいハルフェイスは、毎日シヴォン流の制服姿で裏口から訪ねてくる。彼が来る昼の十刻には、両手でやっと抱えられるぐらいの巨大な箱型の籠三つそれぞれに布を敷き、焼きたてふわふわの芳香を放つ白パンと丸パンと、バターの香りが口いっぱいに広がる何も乗せていないパイをいっぱい詰め、埃防止に布を被せ、裏口の休憩場所に設えた机の上に置いておくようになった。


 当然、応対するのは私である。


「いつもありがとう、テーラ」


「こちらこそいつもありがとう、ハル、運べるように、サヴォラか個人竜車は呼んだ? もしまだならこっちの無線機で呼んでしまうわよ」


「さっき連絡を入れたら、あと半刻ぐらいで来るって……相変わらず遅いよ」


 ハルフェイスは困り眉を更に困ったように下げ、後頭部を掻きながら苦笑いするのだ。サフィルスと同期だということは「竜の角」を訪れた時から知っていたが、気になって色々訊いたところ、彼の年齢は三十歳を超えていた。


「まあ、普通の近衛兵は皆、もう三十を超えているからね……ただ、サフィがとんでもなく優秀だっただけで」


「一人だけ二十二歳よね?」


「近衛になった時は二十歳だったかな?」


 将来有望な青年だったのだ。それだけに、あの傷は堪えただろう。


「だけど、君の傍にいるサフィの方が、見ていて面白いのは事実かな?」


 彼は笑いながらそんなことを言う。サフィルスがかつて持っていて、そして彼の左目と一緒に焼けてなくなってしまったように見えた繋がりは今、私にとっての新しい道を示してくれた。シルワもそう、ハルフェイスもそう、アリスィアは偶然だったけれど、これも縁。目の前にいる「竜の角」の料理人も、「彩浪亭」で新しいものを見つけたのだろうか。


 夜の一刻まであと半刻もない、夕日に照らされながらゆったりとした休憩空間で話す私達の間に、裏口の扉がそっと開く音が聞こえた。


「おう、サフィ、お疲れ」


「あ、ハル、来ていたのか、そっちこそお疲れ様」


 男二人が挨拶を交わし、私は空を見上げた。月が笑むように弧を描き、藍の帳が下り始めている。


「テーラもお疲れ様、今日も私は頑張ったよ」


 サフィルスは私の正面に来て、西の空のように柔らかく微笑んだ。


「結構慣れてきた?」


「かもしれない」


「最初はこんな笑顔すら出せなかったものね」


「うん、思ったよりきつかったよね」


 彼は苦笑いをしながら麻の羽織を脱いで椅子の背に引っ掛けた。両手を組んで、腕をぐいっと突き出し、空に向かって伸ばし、呻き声を小さく上げながら体を解していく。


「そこの椅子に座りなよ、サフィ、私が解してあげよう」


「あ、本当? 頼むよ」


 私は立ち上がって、椅子に座った彼の背後に近付いた。どこかの空から魔石動力機の音が近付いてくる、きっとハルフェイスが呼んだサヴォラだろう。


「お、サヴォラが来たかな」


「みたいね」


 果たして、それは輸送用に設計された格納庫付きのサヴォラだった。彼は運転手と一緒に三つの籠を手早く運び、ひらりとサヴォラの後部座席に飛び乗って、明るい声で挨拶をする。


「じゃあ、サフィ、テーラ、また明日!」


「はーい、毎度!」


「あ、ハル! 今日のパン、私の仕込みだから!」


 暮れなずむ街の上、生まれたばかりではしゃぐ風精霊を纏う魔力の翼を竜の形に拡げて動力音を響かせながら遠ざかっていくサヴォラに向かって、サフィルスが座ったまま叫ぶ。私は驚いて、彼の両肩に手を置き、思わず訊いていた。


「もう出せるまでになったの? 早くない?」


「うん、旦那様に合格を貰えたよ」


 剥き出しの肌がぶるっと震える。首筋を温めるように両手で覆い、ゆっくりゆっくり撫でていく。何かに安心するように、彼はふっと力の抜けた溜め息をついた。こわばった背の筋を手の付け根の肉や指を使って、時にそっと、時に強く刺激すると、言葉にならない満足そうな低い声が彼の額から鼻に抜けていくのが聞こえた。


「やっぱり、あんたって凄いわね」


「……どうかなあ、僕はまだ、何かを成した気はしないけれど、君の方が凄いといつも思っているよ」


「ねえ、教えてあげる、サフィ」


「なあに?」


 自覚がないらしい。


「私がどうして今、サフィの肩を揉んでいるのか、っていうことよ」


「え、僕が頼んだからでしょう?」


「それもあるけれど、それはサフィがここに居るから、サフィがここに居るのは、私が誘ったから、私が誘ったのは「彩浪亭」が忙しくなったから、忙しくなったのは「竜の角」でサフィの知っている人と沢山会って、アリスィアと出会えたから、あの酒場に行ったのは、サフィが真っ先にここに来たから」


「……色々繋がっているから、って、言いたいの?」


「そう、あの時のサフィが居なかったら、今の私は居ないし、シルワ嬢とのことだって何も知らないまま終わったかもしれない……私はね、あんたの連れてきた縁を当たり前のようになぞっていたの」


「僕が連れてきた縁」


「そう、あんたが居なかったら、結ばれなかった縁よ、サフィルス」


 サフィルスの右手が、私の右手を捕らえた。何かを言いたげな右目が、顔ごと私を逆さまに見上げてくる。とても無防備に開きかけた口元が私より幾らか幼い。何となく焼けた左側の頬を左手で撫でれば、それも彼の左腕が捕らえてしまった。


 引き結ばれた唇を見て唐突に私は思い出す。何かを忘れているような気がしてずっと思い出せなかった、アリスィアが教えてくれた、あれだ。


「あ、そうだ、思い出したことがあるの、そのお礼にひとつ教えてあげる」


「……何?」


「朗報よ、でもね、誰にも言わないで」


 彼の左耳に囁いた。息が掛かるとふるりと震えるのが、どうしようもなく可愛い。


「とある特別なラライーナからの情報よ、皇帝陛下はご存命ですって」


「――本当か、テーラ?」


 サフィルスが椅子から立ち上がり、私の両手を思いっきり握った。痛い。まあいい。


「それを、それをいつ聞いた?」


「言うのが遅れちゃってごめんね、あんたと一緒に「竜の角」へ行った時」


「一緒に「竜の角」へ行った時……特別なラライーナ……ああ!」


 合点がいったらしい。彼は全身から力を抜いて私に背を向け、再び椅子にすとんと腰を下ろす――その右目から美しい曲線を描いて涙が落ちていった。


「ご無事で、ご無事であらせられたのか……」


「極秘情報だから、近衛の皆に言いたい時はラライーナさんに打診してね、ちゃんと会わせてあげるから」


「陛下……私は、ああ……」


 サフィルスの、優美な線を描く眉が歪み、喉の突き出た骨の奥から嗚咽が漏れた。両手で顔を覆った彼の肩にそっと触れ、後でもう一度言い含めておこう、と私はぼんやりと考える。不甲斐無かった自分を今は存分に恨めばいい、いつか会える日に思いを馳せるといい、必ずやってくるだろう。私の胸は空いている。


 後ろからそっと椅子越しに抱き締めると、彼は一層酷くすすり泣いた。後頭部を私の胸に預け、太い両腕が私の腕に絡みつく。


「今はエルフィネレリアですって」


「……うん」


「いつか会えるかもしれないから、その日まで頑張ろうか、サフィ」


「……うん、テーラ」


「いつになるかわからないけど」


「……それでも」


 再び彼は私を逆さに見上げた。まるで何かを乞うように、腕を絡めたまま。


「それでも、君は一緒にいてくれるでしょう、テーラ?」


「勿論、あんたと私の仲だからね」


「……それは、幼馴染だから?」


「それもあるけど」


「それも、か……それ以上もあるでしょう?」


 その問いかけに含みがあることに、私は気付いた。その兆候は何となく受け取っていたけれど、ここで確信する。けれど、口には出さないでおいた。するとこんな声が聞こえてくる。


「後ろから味わうおっぱいの感触も、何かさ、絶妙だよね」


「ぶれないなあ、サフィ」


 全く、こんな時まで。そう言って笑えば、今度こそ完全に振り返った彼に腕を引っ張られて、眼帯と火傷痕が私の頬に触れそうな程に近付いた。その力は強い男のものだ、独占欲に塗れたぬるい蜜が互いの吐息にとろりと混じり、雄の匂いを直接ぶつけられて私は驚いた……それは林檎の甘露煮よりもかぐわしく。シルワに私達は恋仲ではないと否定出来なくなるなあとふと思ったけれど、そういう一言では表せないということに、気付いた。気付いてしまった、凪の海が燃え上がるのに。たったひとつ蒼い炎のように煌めく瞳が、竈の中の火魔石よりも穏やかに、心を焼いていく。


 物欲しそうに開いた唇が紡いだ言葉を、私はサフィルスごとそっと食んだ。


「僕と君の仲だからね」




 ひとつ焼くは屋根、

 二つ焼くは壁、

 三つ焼くは器、

 四つ焼くは糧。

 五つ焼くは敵、

 六つ焼くは骸、

 七つ焼くは魂、

 八つ焼くは大精霊の思し召し。

 君と共に歩む道、

 君を守り歩む道、

 君を喪い歩む道、

 また先で出会う道。

 共に焼くは命、

 友を焼くは命、

 糧を焼くは命、

 竈焼くは我が道。


 『上手に焼けました』


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