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27.カイルと子豚


別荘では、ミゲルはまるで自分の家のように振る舞っていた。


廊下も、テラスも、湖への小道も、

迷いもせず進んでいく。


その背中を見ていると、ここが誰の所有物か分からなくなる。


それに、隠し通路でミゲルがカイルを拘束した件もあって、

わたしはしばらく、カイルとミゲルを直接会わせたくなかった。


カイルの神殿での治療が終わっても、

兄たちには公爵家に留まってもらい、

わたしが通うことにした。



静かな別荘と、

公爵家を行き来する生活。


体調が戻るまでカイルには会えない分、

公爵邸ではアスランとは二人きりで過ごした。


アスランと向かい合うと……


公爵家でひとり過ごした寂しさより、

もっと前――幼い頃の空気が、

ふたりの間によみがえってくる。



わたしが6歳の頃、

カイルの真似をして、

長い階段の手すりを滑り降りたことがあった。


ドレス姿ではカイルのように止まれず、

どんどんスピードが出て――

勢いよく落ちたわたしを、アスランが受け止めてくれた。


わたしのつけていたブローチが、

アスランの頬に当たり、深い傷をつけた。


『大丈夫、大丈夫だよ、フェリ』


『ごめんなさい、ごめんなさい、

アスラン兄さま……ごめんなさい……』

しゃくりあげて、

ただ涙をこぼすだけのわたしを抱きしめてくれた。


『そんなに泣いて、愚かだなフェリは。

男の僕には、なんてことのない傷だよ』


アスランは許してくれた。

そう、彼はわたしの過ちはなんでも許してくれた。


幼い日にわたしからした、あの口づけ以外は……


頬の傷跡を指でたどる。


アスランの手が重なる。


あの日、拒まれた口づけすら、今はわたしだけのものだ。


愛しい、という感情が、あまりにも素直に心を揺らす。

その事実が、聖女としてのわたしを、いとも簡単に崩してしまう。


愛しすぎて、アスランを前にすると、うまく話せない。

現実的な話をした途端、

この時間が壊れてしまいそうで、

言葉が迷子になる。


そこには使命も、聖女もなくて、

残るのはただ、

刹那的な恋人同士の距離だけだった。


「フェリだけを愛しているよ」


耳のそばで甘く響くアスランの声に、

酔い、全てを委ねていた。


口うるさかったサシャも、

もう何も言わず、

少しだけ視線を向けて、

静かに心配しているのが分かる。


何人夫が増えても、

アスランは、わたしの特別だ。


それはきっと、一生変わらない。



お披露目会から十日ほど経ったある日。


いつものように魔力を分けてもらった後、

深く眠るアスランを残して部屋を出るとサシャが待っていた。



「カイル様の身体が回復して、今朝公爵家に戻ってこられました。

このまま、お会いになりますか?」


その言葉に、慌てて近くの鏡で、自分の全身をチェックする。


白銀の髪は緩いウェーブで腰まで垂れている。


侍女たちに丁寧にお手入れされてるおかげで、指を通せば、なめらかに流れ落ちた。


顔色も、大丈夫。

ひどく疲れてはいない。


服は――聖女の白。

飾り気が無いのはまあ、仕方ないか。


カイルは、女の子の身だしなみにうるさい。


久しぶりに、聖女ではなく、

フェリシアとして見られるのだと思うと、

少し女の子に戻った気分だ。



自室にいたカイルは、

わたしの姿を見るとすぐに、

隙のない貴族的でスマートな仕草で、わたしの手を取った。


微かに赤が散る明るい緑の瞳に、生気が戻っていた。


「カイル兄様、身体は辛くない?」

まだ少し痩せて見える。


「もう、大丈夫だよ、フェリ」


カウチに並んで座る。


開け放たれた窓から咲きはじめたクチナシの香りがわずかに鼻をくすぐる。


グレンに拘束された時のものだろうか、

カイルの手首に治りかけのあざがあった。



「いろいろ、勝手に決めて、ごめんね……」


わたしがそう言った瞬間、カイルはすぐに眉をしかめた。


「なんでフェリが謝るんだよ。

俺が無力だっただけだろ――

結局、何もできなかった」


低い声に、自嘲が混じる。


「聖女の拉致なんて重罪、

フェリが夫にしてくれなかったら、

どうなってたか分からないさ」


ぱらぱらと、事後報告のように話す。


「親父も烈火のごとく怒ったし。

でも、あの若い神官……サシャだっけ……あいつが間に入ってくれた」


そういえば、義父公爵とサシャは以前から、親しいようだった。


「兄貴とも話した。

――どうやっても、

フェリの聖女は覆らないんだな」


胸が締めつけられた。


どう言おうかと迷っていたけれど、

もう、

後戻りできないことを周りが説明してくれていた。


「助けるはずだったのに、心配かけた」


「うん、心配したよ。すごく……」


わたしは正直に言った。


「だから、絶対に死んだりしないで……傷ついたりも」


カイルは一瞬目を丸くして、すぐに苦笑した。


「『式典を俺の血で汚せ』なんて言ったこと?

ただの勢いだよ。

そんな軽い命なら、フェリにやるよ」


「カイル兄様の命は、軽くなんかないよ」

声が震えそうになる。


「だから、怖がらせて、ごめんって……

でもさ、伴侶って、ほんとに俺でいいの?

俺、ヤリチンだけど?」


ちょっとおどけて、白い歯を見せる。


「ふふ、ばか」

グーで、トンとカイルの胸を叩いた。


「自分で言うの、やめなよ……」


「……うん」


カイルは小さくため息をして、目を伏せた。


「俺には、もうフェリだけだ。

ずっと、そばにいるよ」


カイルには、わたしだけ……


カイルは――

子供に囲まれて、

郊外で穏やかに暮らしたいと話していた。


ずっと、普通の幸せを望んでいた人だ。

わたしは知ってる。


なのに――

その未来ごとわたしの運命に巻き込んでしまった。



湧き上がる気持ちを抑えられず、

わたしは、聖女の聖痕を強く握り締めた。


「聖女には……三人も夫がいるんだよ。

これから、きっと、もっと増える。

こんな未来しかないわたしに付き合わされて、怒ってもいいよ」


「怒らないよ」

カイルの声は、驚くほど穏やかだった。


「聞いたでしょ?

わたしが生まれる前から聖女になるって決まってたってこと。

神託で作られたってこと――」


「俺がフェリを選んだんだ」


強く大きな手が、わたしの背を優しく撫でた。


「だから、フェリが辛いと思うことは、俺に分けたらいい。

責任も、罪悪感も、なんでも俺に押し付けろ」


本当は、

ずっとわかってた。


憎まれ口きいても、

カイルがわたしに優しいこと。


気にしてくれてたこと。


「全部、俺が引き受けるから。

フェリはさ、たまに子豚みたいな顔して、

俺を笑わせてればいいんだよ」


「……わたし、まだ子豚なの?」


白い花の木の下で泣いていた幼いわたしに、

カイルが初めてつけた呼び名。


カイルは少し照れたように笑った。


子供の頃と違う、

女たちを惑わせる眩しい笑顔……


「いや。誰よりも綺麗だよ」


わたしの頬を両手で包み込む。


「俺の大切なフェリ……」


その言葉が、クチナシの香る午後の空気に、静かに滲んでいった。





わたしは、夫を三人迎えた。


――なのに、魔力は全然足りなかった。



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