九十六 もやもや
町中一の言葉を聞いた魔王の瞳が、何やら微風を受けた水面のように僅かに揺らいだが、それを表情というには、あまりにも無理があり、無表情といっても、まったく差し支えのない物だった。
「君は魔王なのか?」
町中一は、自分の中に生まれた、最大にして決定的な、疑問を口にする。
魔王が、首を小さく会釈をする時のように動かして、町中一の言葉を、肯定した。
「一さん。今はそんな事をしている場合ではないです。魔王が何かする前に倒して下さい」
女神様の声が、頭の中に響く。
町中一は、倒せと言われてもな。いくら愛する女神様の言葉でも、あんな顔をする子を殴ったりする事なんてできない。と思う。
「女神様。倒す以外に何か方法はないんですか? 俺はもう窮地を脱しましたし。今なら別の方法を使う事が、できたりしないですかね?」
町中一は、言ってから、女神様に逆らうようで申し訳ないけど、しょうがないもんな。ごめんなさい。と心の中で謝った。
「肉奴隷になっても良いんですか?」
「そ、それは」
そう言えば、そんな話だったっけ。でも、この子は俺を本当に肉奴隷にしたいのか? 女神様の誤解とか早とちりとかじゃないのか? 町中一は、やっぱり、女神様に申し訳ないと思いつつ、そんな事も思う。
「一さん。私を信じて下さい」
女神様のとても真剣な声が、町中一の心にずしりと響く。
町中一は、先程までとは別の意味で、窮地に立たされていた。
スライム親子を、その身に纏うような姿になっている魔王が、町中一に向かって片方の手を伸ばす。
「一緒」
「一しゃん。一緒にしよう?」
「この子は魔王かも知れないけど、快楽を求めるという同志としては、心の底から信用できると思う。この子は、一流のエロ探求者よ。わえがそう言うんだから、間違いないわ」
スラ恵とお母さんスライムが、魔王の短い言葉を補完するかのように、口を開いた。
「女神様。すいません。俺は、貴方の事を信じています。けど、暴力は、やっぱり、ちょっと無理そうです」
町中一は、魔王の手から逃げるように後退り、そう言ってから、魔王に向かって、君は何がしたいんだ? 俺を肉奴隷してどうするんだ? と聞いた。
「一緒」
魔王が、なんの表情の変化も見せずに、前の時と同じような調子で、言葉を返して来る。
「一さん。魔王にも色々な者がいますが、どうやら、この魔王は、対話などはできないようです。己の欲望の為だけに、ただ行動する。そういう類の者みたいです」
「そうですか。そうなると、説得はできないという事に、なってしまうのかな。やっぱり、もう、ぶん殴るしか、ないっていう事なのかな」
「私だって本当は辛いんです。一さん。貴方の受ける痛みは、私の痛みでもあるのです。貴方は一人じゃありません。一緒に、この痛みを背負いましょう」
「女神様」
町中一は、しょうがない。やるしかないんだ。と思うと、いつの間にか下ろしていて、拳を解いていた手を動かして、再び拳を作った。
「一緒」
魔王が、町中一に向かって、ゆっくりと歩き出す。
「一緒にはなれない。俺は肉奴隷になりたくはないんだ。すまない」
町中一は、魔王を見つめ、再度握った拳を、振り上げた。
「主様。さっきから何をやってるんだわん?」
「お、おお。柴犬。お前こそ、何をやってたんだ? 珍しくずっと黙っていたじゃないか」
「主様が、独り言を言いながら、嬉しそうに、にやにやしたり、何やらアヘアへして、腰砕けになったり、急に悲しそうにしたりし出したから、いよいよおかしくなったんじゃないかって、駄ラケットと話をしてたんだわん」
町中一は、何それ、酷い。でも、まあ、そうか。傍から見ていると、そんな事になっていたのか。それは確かに、そう思われても、しょうがないのかも知れない。完全に女神様と二人だけの世界にいる、気になっていたもんな。と思った。
「そうか。まあ、もう、それはいい。実は女神様の声が頭の中に聞こえて来ていてな。それでこの女の子、実はこう見えても魔王らしいんだが――をどう倒すかという話をしていてだな」
「それで、殴ろうとしては躊躇って、また気を取り直して、殴ろうとしては躊躇ってを、繰り返していたんだわん?」
町中一は、そんなふうに言われると、俺がなんだかとても優柔不断な奴みたいじゃないか。でも、実際に俺と同じ立場になったら、お前だってそうなっちゃうはずだ。と思い、そういうけど、それなら、お前ならできるのか? と柴犬に問うた。
「できるんだわん。でも、もっとスマートな方法を使うんだわん」
「スマートな方法?」
「そうなんだわん。いつもなら、頭とかを撫で撫でしてもらわないと教えないところだけど、今回は、分かってなかったとはいえ、主様が戦っていたのを放っておいた負い目をもあるから、すぐに教えるんだわん。主様。お耳を拝借なんだわん」
「何よぉん。あたくしも混ぜなさいよぉん」
柴犬の後ろに黙って立っていたななさんが、急に、町中一と柴犬の仲に、嫉妬でもしたのか、口を挟んで来る。
「ななさん。ごめん。今は無理」
町中一は、冷たくななさんをあしらうと、しゃがんで、柴犬の、カブトムシのお尻のようにも見える、とってもかわいい黒色の口に、耳を近付けた。
「もうぉん。あたくし、魔王の肉奴隷になっちゃうんだからぁん」
「いらない」
「ががび~ん」
魔王とななさんの、そんなやり取りが行われている中で、町中一は、柴犬の言葉に集中した。




