儀礼魔力ゼロなので、冷遇塔で昼寝します
「第八王子ノエル。儀礼魔力、ゼロ」
白い測定石の前で、教育卿が乾いた声を出した。
広間が一度だけ静かになり、それから笑いが落ちた。
「ゼロ?」
「王家の血で、儀礼灯ひとつ点けられないのか」
「なら、北の冷遇塔で十分だな」
俺は七歳の体で、背筋を伸ばした。
名前はノエル・ラグナード。
王家の第八王子。
そして中身は、前世で地方庁の監査係をしていた三十七歳の社畜である。
会議。
再会議。
判子のための判子。
午前二時の修正依頼。
誰も読まない報告書の体裁合わせ。
最後の記憶は、机に突っ伏した頬の冷たさだった。
だから、教育卿が「冷遇塔」と言った瞬間、俺の胸に湧いた感情は屈辱ではなかった。
(個室。静か。儀礼訓練なし。最高では?)
思わず口元が緩みそうになったので、俺は慌ててうつむいた。
「泣いているぞ」
「当然だ。王子として終わりだものな」
違う。
笑いそうなのを隠しているだけだ。
しかし、俺の隣で小さな嗚咽が聞こえた。
俺付きの従者見習い、ミナだった。まだ十歳。俺より少し背が高いだけの、痩せた女の子だ。
彼女の手は、赤く荒れていた。
袖口からのぞく指先が、測定石の白より冷たそうに見える。
その横で、双子の下働き少年、ルイとロイが唇を噛んでいた。
冷遇塔送りになるのは、俺だけではない。
俺に付けられた子供従者三人も、一緒に北の塔へ移される。
王子の価値が下がれば、彼らの食事も薪も下がる。
広間の笑いが、急に前世の残業室より寒くなった。
「第八王子には、本日より北塔を与える。配膳は第三等、暖房は儀礼余剰分、教育費は停止。以上」
教育卿は帳面に線を引いた。
俺はその線を見た。
第三等。
儀礼余剰分。
教育費停止。
嫌な言葉だ。
前世で何度も見た。
だいたい、こういう言葉の下には、誰かの飯と寝床が雑に沈んでいる。
◇
北の冷遇塔は、名前ほど悪くなかった。
少なくとも、俺にとっては。
部屋は狭い。
天井は低い。
窓枠は少し歪んでいる。
だが、机がある。
書棚が一つある。
そして何より、誰も儀礼作法の練習を命じに来ない。
(勝ったな)
俺は寝台に腰を下ろし、心の中で静かに勝利宣言をした。
ただし、勝利は三秒で終わった。
ミナが運んできた昼食が、あまりにも冷たかったからだ。
木皿の上に、硬い黒パンが四切れ。
薄い豆の煮汁が一椀。
湯気はない。
ルイとロイは目を輝かせるでもなく、当然のように自分たちの皿を奥へ押した。
「殿下が先です」
「俺たちは、あとで厨房に戻れば何かあります」
嘘だ。
前世の監査係は、嘘の匂いにだけは敏感だった。
特に、弱い立場の人間が「大丈夫です」と言う時の嘘には。
「三人とも座って」
「でも、殿下」
「座って。これは命令じゃない。確認だ」
俺は皿の数を見た。
四つ。
煮汁の量を見た。
子供四人分には薄い。
薪箱を見た。
空に近い。
それから、ミナが持っていた小さな配膳札を見せてもらった。
北塔・第三等配膳。
王子一名。
従者三名、随伴扱い。
温食対象外。
俺は眉をひそめた。
「随伴扱い、か」
便利な言葉だ。
人間を人数から消す時によく使う。
札の裏には、もっと嫌な欄があった。
儀礼厨房余剰:白豆二袋、鳥骨だし一鍋、式典用香草、未使用。
薪配分:大広間燭台予熱分、余剰三束。
「未使用ではなく、昼食予約分だな」
「え?」
ミナが瞬きをした。
「この白豆と鳥骨だしは、どこにある?」
「儀礼厨房の裏です。でも、あれは今夜の第一王子殿下の歓迎燭台に使う香りだしの残りで……私たちが触ったら怒られます」
「残り?」
俺は札を指で叩いた。
「ここに未使用と書いてある。未使用なら、まだ誰の手順にも届いていない。しかも第三等配膳の栄養不足を補う欄が空白だ。王宮配膳規則の古い書式なら、温食対象外でも、七歳以下の王族従者には一日一回の温汁を出せる」
「そんな規則があるんですか」
「知らない」
三人が固まった。
「今から探す」
俺は書棚へ向かった。
冷遇塔に残されていた本は、誰も持っていかなかった古い規則集ばかりだった。
儀礼灯の賛美詩。
王族教育の心得。
配膳等級細則。
最高だ。
紙がある。
字がある。
つまり、抜け穴がある。
俺は配膳等級細則を開いた。
ページの端が湿気で波打っている。
前世なら、これを電子化するだけで一ヶ月分の残業が消えたはずだ。
「あった」
第七章、随伴児童の安全。
儀礼に属さない未成年随伴者について、寒冷期は一日一回、温汁または温湯を支給すること。
ただし、支給元は当日未使用の厨房余剰を優先し、儀礼本体の支出を増やしてはならない。
俺は笑った。
「儀礼費を増やさず、余剰を使えって書いてある。つまり怒られるのは、余剰を腐らせる方だ」
「でも、厨房長が……」
「厨房長には、俺が書く」
俺は机に向かった。
七歳の手は小さい。
字も前世より丸い。
それでも、監査メモは書ける。
件名:北塔随伴児童温汁支給の確認。
根拠:配膳等級細則第七章。
対象:ミナ、ルイ、ロイ。
使用物:未使用白豆二袋、鳥骨だし一鍋、余剰薪一束。
生活影響:温食なしの場合、寒冷塔勤務中の児童三名に体温低下および翌朝勤務不能の恐れ。
最後に、俺はこう書き足した。
王宮儀礼の灯りは、人が倒れないことを前提に美しい。
「殿下、それ、何ですか」
「面倒くさい言葉を、スープの話に引きずり下ろした紙」
俺は立ち上がった。
「行こう。昼寝の前に、温かいものを食べる」
◇
厨房長は怒った。
当然だ。
「第八王子殿下。これは第一王子殿下の歓迎準備でございます。北塔へ回す余裕など――」
「余裕ではなく、未使用欄です」
俺は札を出した。
「ここに未使用とあります。未使用なら、誰に届いていないかを確認する必要があります。第七章では、寒冷期の未成年随伴者に温汁を出すとあります」
「しかし、香草は儀礼用で」
「香草は不要です。白豆と鳥骨だしと薪一束だけでいい。香りではなく体温が目的なので」
厨房長が口を開けたまま止まった。
目的。
前世で何度も消えていたものだ。
予算名は立派なのに、本来誰の何を守るのか誰も言えなくなる。
俺はそこを戻す。
俺が偉いからではない。
俺が眠りたいからだ。
従者が倒れたら、俺の静かな生活が壊れる。
「……白豆二袋と、だし半鍋だけなら」
「薪は一束」
「半束」
「三人分の温汁を作って、北塔まで冷めずに運ぶには一束。余った火で湯を沸かし、手を温める分も含めます」
厨房長は苦い顔でうなずいた。
勝った。
ただし、勝利宣言はしない。
監査係の勝利は、相手を論破した瞬間ではない。
鍋が火にかかった瞬間だ。
◇
北塔に戻った時、豆のスープから湯気が立っていた。
ミナは両手で椀を包み、しばらく動かなかった。
「……あったかい」
その一言で、俺は前世の深夜残業より長い一日が少し報われた気がした。
ルイとロイは、最初の一口を飲んでから顔を見合わせた。
「殿下」
「これ、明日もできますか」
「できるようにする」
俺は即答した。
「今日だけの親切にすると、明日また寒い。だから手順にする。未使用の厨房余剰が出た日は、北塔随伴児童温汁欄を必ず確認する。薪一束は温汁と手湯に使う。配膳札の裏に名前を書く。ミナ、ルイ、ロイ。三人分だ」
ミナが、恐る恐る聞いた。
「私たちの名前を、札に書いていいんですか」
「書かないと、また随伴扱いで消える」
俺は配膳札の裏に三人の名前を書いた。
それだけのことなのに、三人はひどく静かになった。
名前がある。
温かい椀がある。
薪の火がある。
そして俺には、食後の昼寝がある。
俺は寝台に横になった。
冷遇塔は静かだった。
湯気の匂いがした。
誰も会議を開かない。
(やっぱり天国では?)
目を閉じかけた時、ミナが古い書類束を持ってきた。
「殿下。棚の奥に、こんな台帳がありました」
表紙には、薄く金文字が残っていた。
王宮儀礼準備費・余剰処理簿。
俺は起き上がった。
開いた一ページ目に、嫌な行が並んでいた。
余剰寝台布:大広間装飾へ転用済み。
未使用薬瓶:聖堂香油棚へ移管済み。
夜間薪:戴冠塔予熱へ一括処理済み。
下級従者休憩札:儀礼奉仕時間へ補完済み。
どの行も、きれいに処理済みだった。
そして、どの行にも、誰が寒くなり、誰が眠れず、誰が薬を飲めなくなるのかが書かれていなかった。
俺は深く息を吐いた。
昼寝時間が、また減る。
だが仕方ない。
俺は前世で学んでいる。
放置した無駄手順は、必ず夜中に人を起こしに来る。
「ミナ。青い紙はある?」
「あります」
「じゃあ、保留札を作る。まずは寝台布からだ」
儀礼魔力ゼロ。
冷遇塔送り。
王族として終わり。
そう言われた俺の最初の仕事は、王宮の美しい処理済みを、温かいスープと昼寝できる仕組みに戻すことだった。
面倒くさい。
けれど、前世の職場よりはずっとましだ。




