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午後三時の待ち合わせに指定した場所は、家から五分もかからない近所の喫茶店だった。商店街を抜けた左角、地下鉄に続くエスカレーターの見える斜向かいに構えられたその店は、老夫婦が営む小さな珈琲店で、温かい木目調の外観と、モダンレトロの内装が何度か雑誌に取り上げられていた。
隅のテーブル席に腰かけ、互いにコーヒーとミルクティーを注文する。暖房のほど良くきいた店内は、ボサノバ風のレコードが部屋全体に回っている。彼女はコートを壁に架けると、カバンから一冊の本を取り出した。
「この前言ってたサガン。難しくはないけど、ちょっと表現が古いかも」
薄いパラフィン紙のかけられた文庫本は、背表紙が鮮やかなピンク色。僕は彼女から本を受け取ると、パラパラと中を覗き「ありがとう」とカバンの奥へしまう。フランス文学なんて、その言葉さえ彼女の口から知ったもので、あまり乗り気はしなかったが、薦められた手前、読まないわけにはいかなかった。
彼女は本が好きだった。連絡先を交換して真っ先に話したのは、最近読んだ面白い小説の事だった。僕は日頃から本など滅多に読まないし、興味だってほとんどなかったから、初めは少し戸惑った。ここで会話を終わらせても、新たに話題をくべることもできないしと、何とかひねり出した末に、三年前に気まぐれに買って挫折した、筒井康隆の『残像に口紅を』に縋ることにした。
それを聞いた彼女は思いの外食いつき、 ―すごい、純文学だね と感心していた。
―― 読んだって言っても、半分くらいだけどね
―― ううんスゴイよ、筒井康隆だなんて 昔の人だもん
―― 時をかける少女とか、富豪刑事とかだったらアニメで見たことあるかも
―― なんだ、結構知ってるじゃん!知らなくないじゃん!
―― アニメとか 映画なら見るんだけどね
その次に会った時、彼女は筒井の『原始人』という短編集を持ってきてくれた。
「王道の面白さじゃないんだけど、なんかこう心にグサッと刺さるような、あ~そう来るのかって展開が、読んでいてすごくドキドキするの」
彼女は映画やドラマにも異常に詳しかった。僕の知っている作品は大抵視聴済みで、映画は最近のトレンドから昭和の名作、トレンディドラマやマイナーな西部劇なんかも数多く知っていた。「コロナの時、家ですることがなかったから、もう片っ端から見ていったの。キューブリックにタランティーノでしょ、それにトルナトーレ、北野武、大林信彦、まあこの辺りが無難かな」
彼女が頭のいいことは、同じクラスだった小学校の頃から知っていたし、受験して難関校に進んだことも覚えていたから、その比類ない記憶力と知識欲にあらためて驚くことはなかったが、それでも好きなものをここまで突き詰め、語れることは凄いことだ。中高一貫の女子校を卒業した彼女は、推薦で都内の国立大学に通っていた。片道一間半かかる道中を映画鑑賞や読書に当てているから、通学はそれほど苦ではないらしいが、それでも毎日続けるとなると疲れるのか、もっと近場の大学にすればよかったと何度も嘆いていた。
「本当はひとり暮らししたいんだけど、親が反対するの。卒業して独り立ちするまでは絶対にダメだって。でも私ももう二十歳越えてるし、貯金だって十分あるから、できないこともないんだけどね」
彼女は少し唇を尖らせて、「その時は一緒に住もうね」といたずらを企てる野良猫みたいな目をして笑っていたが、バイトで月八万程度の収入しか貰っていない僕が、彼女と一緒に暮らせるとは到底思えなかったし、学生の彼女と違い、僕は何もしていないただのフリーターなのだ。彼女は個別の家庭教師のバイトをしていたから、それだけで収入が僕の倍以上もあるし、何よりも御三家といわれる女子校に通わせた彼女の立派な家柄は、僕の背中にかなりの重みで圧し掛かり、それは何度彼女と会っても一向に軽くはならなかった。僕は高嶺の花である彼女にひきかえ、何の取り柄も凄みもない。そこに引け目を感じていたのかさえ、当時はよくわかっていなかった。ただ僕にできた事と言えば、毎回のレストランやカフェの支払いを、彼女より多く出すことくらいで、それでようやく面子を保てている節は、会うごとに強くなっていた。
彼女は小説の中でも若い男女の恋愛ものが好きだった。サガンやオースティンを特に好んで読んでいた。彼女は物語に出てくる、大人びて知性のある男によく惹かれるようで、読み終わった後もその顔や声が夢に出てくるのだと恥ずかしそうに言っていた。
「そんなに本が好きなら、自分で書いてみようとは思わないの?」
イタリアンを食べに行った帰り路、僕らは川沿いの遊歩道を並んで歩いていた。駅前とは反対の、街灯の少なくなった石畳をゆっくりと踏んでいった。二月の長い春休みで、その頃の僕らは二日に一度の割合で一緒にどこかへ行っていた。
「書けないよ」と彼女はぽつりと呟いた。「まだ書いてないのに?」と僕はからかうように返した。
「そんなに簡単に書けたら苦労しないよ」
高校三年の時に一度だけ新人賞へ送ったことがあった。他校にいる男子との叶わない恋愛を綴った短編で、友人や現代文の教師から好評だったため、それなりに手ごたえがあったのだが、結果は一次にも残らなかった。元から筆力に自信があっただけに、その結果は大きく応えた。
「その時の受賞者は大学生だったの。二十歳。今の私と同じ歳。それでその作品読んだら、もう冒頭から凄まじくって。持っているものが一回りも二回りも違って、これは私には書けないなって圧倒されたの」
彼女は受賞者のサイン会に行き、作者にその感動を伝えたという。彼女と二歳しか年の違わない受賞者は、驚きも感動もせず、ただ黙って見開きにサインをすると、「ありがとうございます」と言って頭を下げていた。どこにでもいる普通の女子大生だった。
その日の別れ際に、僕らははじめてキスをした。言い出したのは僕からだった。彼女はそれを受け入れ、小さな手を優しく肩に置いた。濁った都市の排水が流れる、まだ桜の蕾も見えない鉄橋の真ん中だった。夜風が冷たく僕らを包み、身体を離しただけで吹き飛んでしまいそうな冬の空だった。欄干に寄り掛かかりながら、川面に移るホテルのネオンの揺らめきを無心で眺めていた。
彼女のために僕にできることはなんだろう。唐突にそんな疑問が浮かんだ。彼女と付き合うようになってから、僕は毎日のように彼女の事を考えるようになっていたし、彼女が日頃どんなことを考えているのかさえ気になり始めていた。
そして僕は本を読むことにした。あまりお金のかからない趣味だったし、彼女は以前から身近に読書好きの人がいないと嘆いていたから、これは絶好の機会だった。彼女の友だちは、巷のアイドルやインフルエンサーの話しばかりで、なかなか会話も弾まない。それならば僕が、彼女の唯一の読書仲間になってやろう。僕は彼女の勧める本を読むことで、彼女という人をもっと理解することができるし、それは回り回って自分に返ってくるような気もした。そして僕は本を読むたびに、彼女の知らない一面を知るようになるのだった。僕はそれが、自分のできる精一杯の誠意だと本気で思い、ますます彼女のことを好きになる。
ところで、そんな僕の、彼女はどこを好きでいてくれたのだろうか?
彼女は僕のどこがよかったのだろう。まだ中学生の頃、アイツと国語の作文を見せ合った時、こんなことを言われたことがある。
「オマエはバカで不器用で、びっくりするくらい文章が下手だなぁ」
そこまで言わなくてもいいのに、と当時は思ったが、確かにアイツの言う通り、僕は高校受験に失敗するほどバカで、パンケーキをひっくり返すのにも失敗する不器用で、おまけに自分でも驚くほど文章を考えるのが下手だった。もちろん今まで恋人ができたことだって一度もない。インスタのDMで知らない女子からメッセージが届き、喜んで承認したら、後日それが女子になりすました後輩のいたずらだとわかって皆に笑われた。そういうものに悉く疎く、暢気だった。
だから僕は彼女から連絡先を聞かれた時、もっと言えば同窓会で僕の後を必死についてきてくれた時、どこまでも天高く飛んで行ってしまうかと思うほど、心の底から嬉しかった。無常の幸福とはこういうことなのだろうと、初めて身に襲う至福の時に震えがとまらなかった。そしてこの彼女を、どんなことがあっても手放さず、大切にしていこう。家族の次に大事なものとして、一生をかけて守って行こうと、大げさだが本気でそう思ったのだ。
僕はこの疑問と決意をアイツに伝えた。アイツは深夜にもかかわらず親身に僕の話を聞いてくれ、「惚気た話だなあ」と笑ってくれた。
「オマエは別に頭が悪いんじゃなくて、ただ変に考えすぎてるっていうか、何事も理屈から入るからダメなんだよ。悩みや心配はそれ自体として受け止めなきゃ。それ以外の繋がりはあくまでも憶測でしかないんだからさ」
まあ、そこがオマエのいいところでもあるんだけどな。アイツは煙を吹かしながら笑っていた。変に真面目で一途なところが彼女に惹かれたのだろうと言って、おでこの辺りに軽くデコピンをしてくれた。
僕はアイツにそう言われたことで、少なからず胸のわだかまりが消えて心が軽くなったし、アイツがそういうふうに僕を認めてくれている事実に不思議と身体が震えた。嬉しかったのだ。僕を理解してくれている人間がひとりでもこの世にいることに、何か祈りに似た安堵を感じて、心の中が熱くなった。
僕らは久しぶりにハウスへ行き、熱い酒を飲んだ。マスターとR&Bと最近のヒップホップシーンについて語った。店は珍しく深夜でも客が少なく、二階は僕らの貸し切りだった。プレイヤーから、TLC、アリシア・キーズ、アッシャー、キーシャ・コールを好きなだけ流すことができた。今日は男もシズカもいなかった。最近はめっきり人が減っちゃって、またコロナかしらとマスターは嘆いていたが、それでも一階ではいつものゲイのカップルや中国人のバイヤーが静かに出入りしていた。
夜も更ける頃、マスターは水パイプを持って二階へ上がってきた。僕らはもう当然のように慣れきった手順で互いに煙を吸った。すぐに視界が回り始め、現実の色彩が絵具のように崩れ落ちていった。僕はアイツの肩に手を回す。アイツはブルースに酔いながら、だらしなく開けた口元から涎をしたたらせ、音に合わせて身体を刻んでいる。右足右足左足。左足左足右足。アイツの首すじはほんのり甘い汗が光り、産毛の映えた口元に好奇の笑みを浮かばせていた。
僕は何度も吐いた。吐いて、吐いて、喉の奥が焼けるように痛み、胃の中が空っぽになった。何度やっても、僕は一向に気持ちよくならなかった。ただアルコールとカンナビノールが、両側から僕を責め、押し破ってくる不快な響きしかもたらさなかった。身体の底に溜まる醜く汚いところが、いっぺんに流れ出していきはしないかと、淡い期待も虚しく、僕はただ音と煙と血の流れに巻き込まれ、それでも頭の中ではわずかに彼女のことを考えている。塗りつぶされ、押しつぶされているとわかっていながら、それでも彼女だけを思っている。僕には彼女のために尽くすことは、全てはこの苦しみの先にある幸福への道筋のようにも感じられた。これは試練だ。口の中で血と胃液と唾液と汗が混じり合う。暗い視界にソウルミュージックが溢れ出す。便器の縁に勢いよく汚物を吐き出していた。
トイレの壁にうなだれるようにして眠っていた。幸い、汚したのは便器の縁だけで、それも水たまりのように薄くなり消えかけていた。頭は痺れ、全身は凝り固まっている。トイレを出ると、カウンターの明かりは全て消えていた。
二階へ戻ると、アイツは変わらずタバコを吸っていた。床と壁に垂直になるように背をつけ、何か物思いに耽るように天井を見上げながら白い煙をはき出していた。
「どうだ、覚醒しきったか」
僕はアイツの隣に腰を下ろし、ケースから一本抜き取った。アイツは何も言わず火をつけてくれる。一度吸い込むと、喉につっかるいがらっぽい苦みが襲い、すぐに僕はせき込む。それを見てアイツは小さく笑う。
「ダメなもんはダメだな」
僕らはしばらくそうやって並んで天井を見上げていた。煙と汗と、現実離れした喧騒と音楽を吸い込んだ天井は何十もの膜を覆ったように固く、僕らを見下ろしていた。
僕は苦しみの中で彼女の顔が浮かんだことをアイツに話した。闇の中から抜け出すことが、僕に与えられた試練だと思って、歯を食いしばりながら彼女のために耐えていた。アイツはいつものように笑みを見せず、ただ天井に昇る煙に意識を集中させて聞いていた。
「オレも女の事を考えてたんだ」
「そうか」
僕はアイツの考える女がシズカだと直感で思った。僕は二週間前、ハウスで偶然彼女と会っていた。カウンターで飲んでいるとシズカがひとりで入ってきた。僕はアイツが現れると思って閉店まで粘ったが、結局アイツはこなかった。シズカは、気まぐれだから、と言って笑っていた。緑色の髪をした男のことを訊くと、家族にバレて今は食品加工の仕事をしているのだと可笑しそうに言っていた。
その夜、ホテルで僕ははじめて女を抱いた。シズカは何も言わず服を脱いだ。僕は彼女のどこまでも白い肌と華奢な骨の窪みに全身を押し付けた。足先から震えが襲い、次第にそれは彼女と温かく溶け合ってひとつになった。僕はシズカの耳元に熱く息を吹きかけ、赤くなった唇を思い切り吸う。息をするのも忘れて、ただ己の身体と身体を合わせ続ける……
後ろめたさは微塵もなかった。むしろ清々しいくらいだった。僕は彼女という人間を心から愛していたし、だからこそシズカという女を、ここまで辱め、思うように振る舞ってやれたのだと感じもした。僕にとって肉欲という問題は、彼女がいようがいまいが関係はなかった。ただ僕が彼女を愛し、また彼女が僕を愛してくれている事実が何よりも大切だった。僕はすぼまった自分の性器を眺めながら彼女のことを考える。すると、それは息を吹き返したように強く屹立する。隣で寝息を立てているシズカに向かって、僕は思い切りそれを叩きつけた。
アイツの女がシズカだと思ったが、そうでないことがわかると僕は安堵から大きく息をはく。アイツは不思議そうに僕を少し見て、現在付き合っている女の話をしはじめた。つい三日前に出会ったばかりの二つ年上の女の子。胸が大きく、二枚に分かれた舌を指のように動かすことができるから、その感触がやみつきになるのだと言っていた。
「ちょっとオタク気質で芋っぽいっていうか、面白いやつなんだ。マンガとアニメに詳しくて、話し方も早口でまくし立てる感じだから、たまに何言ってんのかわかんなくなる」
「典型的なオタクだね。それだと付き合っていて大変だろう」
アイツは笑ってスマホの通知を見せてくる。溜まったバナーに、彼女だと思われるアカウントから何通ものメッセージが届いていた。
「ちょっとでも連絡しないとこうなんだ」
アイツはその女とどこで出会ったのだろう。まさか、このハウスではないだろうか。僕はアイツが女と会っているところを想像する。カウンターでいつものコークハイを飲み、タバコを吸って、時機が来たらふたりで草を楽しむ。そしてセックス・ピストルズみたいにいつまでも時を忘れて溶け合っていたのだろうか。僕は何気なく居座っているこの部屋の空気が、壁や床に沁み込む女の性質を孕んでいるような気がして身が震えた。スプリットタンの巨乳の女が、どうやってそのホースを口元へ持っていくのか。二つに分かれた舌で、絡み合わせるように筒を包むその様子を、アイツはどんなしたり顔で眺めていたのだろうか。
「星が見えるな」
唐突にアイツがそう言った。僕は聞き間違いかと思って言葉を返さなかった。アイツの目には、未だ幻覚が見えているらしい。
「俺には見えない」
「嘘だぁ」とアイツは快活に笑う。
「あそこで光ってるじゃんか。そこの三つ並んでるやつと一緒に、一番光ってる」
宙を指でなぞるようにしてアイツはしばらくそうしていた。僕はアイツが、いつものようにふざけているだけだと思って黙っていた。けれどアイツは煙草が吸い終わっても、天井に漂う煙を名残惜しそうに眺めていた。
「子どもの頃なんだけど、オレずっと星が空に浮いているって思ってたんだ」
「どういうことだよ」
僕は苦笑したが、アイツはそれでも真面目に話し続けた。
「だからさ、星って宇宙に存在する天体だけど、幼い頃のオレはそれを知らなくて、ずっと夜になったら現れる何かだと思ってたんだよ」
「花火みたいに?」
そうそう、とアイツは調子づくようにそう頷き、星のきらめきから目を放さない。
「それである時さ、いつも見えているはずの星が見当たらなくて、今日は飛んでいないんだなって思ったら、いつもと違う方角で見えるんだよ。ああ、今日はあっちのほうで飛ばしてるんだなって思って、そのことをばあちゃんに言ったら笑われて、その時はじめて、星が空よりもずっと遠くにある存在だって知ったんだ」
アイツは父親と二人で暮らしていた。自宅の斜向かいにある神社の隣にばあちゃんの家もあった。小学校が終わると、アイツはいつもばあちゃん家に上がり、犬のミルクを連れて神社でよく遊んでいた。ゴールデンレトリバーの雄のミルクは毛が真っ白で、僕が頭を触ると舌を出して喜ぶ。ヒトよりも鮮やかなサーモンピンクの舌で、嬉しそうに腹を揺らしていた。
ミルクは今ごろどうしているのだろう。僕はミルクと散歩しているアイツに、みんなと校庭で遊ばないのかと訊ねたことがある。サッカーもドッジボールも流行っていた放課後の学校で、アイツだけが顔を出さなかった。
ミルクのリードを引きながら、困ったような笑みを見せたアイツは、こいつの散歩があるから、と柔らかい毛を撫でて言っていた。
「それにあんまり行きたくないんだ」
僕はアイツと同じクラスだったから、アイツがクラスの誰よりも足が速く俊敏で、底なしの体力を持っていることを知っていた。跳び箱で六段以上跳べるのは、クラスではアイツだけだった。
「何か習い事でもやってるの?」
ううんなにも、とアイツは首を振る。でも、腕立てと腹筋は毎日五十回やってるんだ。シャツを捲り、筋の浮き出た腹と鉄のように硬い二の腕を触らせてくれる。これだけでも、結構運動になるんだよ。アイツは腕相撲で、これまで一度だって負けたことはないんだと得意そうに言った。
「Y中に男子のバレーボール部があるの、知ってる?」
知らない、と僕は言った。バレーボールという競技がそもそもどんなものなのかわからなかった。アイツは少し失望したような色を顔に浮かべ、そこの先生が有名な人で、オレ、スカウトされちゃったんだ、キミならプロになれるって。
母が学生時代バレーボールの選手で、すごく昔に試合に出たこともあるんだ、とアイツは言っていた。
「Y中は学区外だから、みんなとバラバラになっちゃうけど、男バレがあるのはそこしかないから」
神社の境内で、僕はアイツのバレーボールに触らせてもらった。それは皮が剥げ落ちて、中のチューブが半分飛び出しているようなものだった。室内用のボールで、コンクリートに打つと空気が抜けるから、スパイクはもう打てないのだとアイツは言っていた。
「男バレに入ったら、新しいボールを買ってもらう約束なんだ」
僕はアイツとパスをした。オーバーもアンダーも、まだ当時はまったく理解していなかったけれど、アイツは僕の触るボールを楽々と上げ、終始楽しそうだった。
「今見えてる星って、実は過去のものなんだぞ」
光の速度のこと?僕はカビで汚れた天井から、星が浮かび上がってこないか待っていた。
「そうだ。遠い星は地球に光が届くまで何億年ってかかるから、目でとらえている映像が今もあるかはわからないんだ。億だぞ、億。今オレ達の見ている星は、地球が生まれるずっと前から存在している星で、それが今も見えているってことは、すなわちオレ達は星の過去の姿を見ているってことなんだ」
それってとんでもなく凄いことなんじゃないのか?アイツはそう言って、またしばらく薄暗い天井を眺めていた。




