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あの時の、あなたのための、あなたにしかわからない、あなたの詩

2024年、あの透き通るほど真っ赤な朝焼けの景色を覚えているか

 






 ぼくのほうこそ、誰にでもいいから代わってもらいたいくらいだ、ハリー

   そんな笑い方をしないでくれ

     本当のことを言っているのだ

          ―――オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』より





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



                 *



 煙草屋は今日も閉まっていた。商店街の裏にひっそり構えられた神社の、昨年補習され鮮血のように赤く染まった鳥居の位置から中学校の方へまっすぐ進む。




 単身赴任(たんしんふにん)用のワンルームマンションが何棟も連なるその道を三十秒ほど行くと、右手に場違いなほど小さな建物にシャッターが下がっているのがわかる。薄暗く、埃で汚れたシャッター。ギザギザの溝にゴミがこびりつき、雑巾で拭いてもなかなか取れない。




 定休日(水)の消えかけの文字が黒ずんでいるのは、周囲のマンションが高すぎるせいでそこに陽が当たらず、年中(ねんじゅう)曇りのような、どんよりとした空気を被っているからだろうか。




小窓は小学生がやっと入れるくらいの大きさで、その下に突き出たボードもろとも、薄墨色(グレー)に変色していた。煙草屋はこの通りに残った唯一の二階建て住居で、三年前から競うようにして建てられたコンニャクみたいな外観の賃貸マンションに挟まれて、西ドイツで捕まった宇宙人(エイリアン)みたいだった。




 目線を上にやると、住居に当たる二階の真っ暗な部屋の様子がわかる。()りガラスの奥にわずかに見える段ボールは、乾く前の水彩絵の具のように、茶色い輪郭(りんかく)をぼやけさせている。




引っ越したのか、と一瞬は思うが、あの段ボールは確か三年前からずっとあのままで、移動する気配がない。多分、永遠に。()びたトタンが暴風で剥がれ落ち、室外機のホースがビヨンビヨンに道にはみ出して、向かいのベランダに置かれた(はち)が窓をぶち破ってきても、段ボールは端然(たんぜん)と隅に置かれたまま、何食わぬ顔で眠っている。室内の人間はそれに気づかずに、静かに部屋の掃除をはじめる。




 空き家か、それとももう店を閉めて住居と化した建物なのだろうと、何気(なにげ)なくそう思ったりもしたが、グーグルマップにはきちんと店の名前が書かれて、〈営業中〉となっている。流石にホームページはなかったが、五年前のXの投稿に店の名前が出ていた。









 SKIPの帰りにいつもの#河崎(かわさき)屋 さんで一杯

 キレ味のチョップにビールは安定の美味さ

 疲れた体にキク~**

 エディオンで髭剃(ひげそ)り買って帰宅

 寝る前にタバコ

 おやすみなさい







 #SKIP日ノ出川店#河崎屋#LWASON尾下町店#エディオン横浜湊店

 #    #ケンちゃん日記休日編

 #明日も七時から労働#昼飯何にしようか#独身はツラいよ#月曜から他人に奉仕したくねえって

 #来週はいよいよお酉さま








 しかし…………ポケットに両手を突っ込んだまま、誰もいない通りに立ち止まり、身長ほどの庇を眺める―こんな場所でタバコなんて、いったい誰が買うのだろう。ここは地下鉄駅からそれほど離れていない住宅地で、五分もしない距離にコンビニが三軒(ローソン2にセブンが1)にスーパーが二軒まいばすけっともある。いくら単身赴任が多いからって、わざわざここでタバコを買うとは思えない。長年この辺りに住み着いている常連か、よっぽどの物好きじゃない限り、ここで買うどころか、店の存在すら知らないで、毎日ここを通り過ぎているのだろう。きっとそうに違いない。だいたい、どの町にも老舗(しにせ)の店が一軒くらい残っていて、大抵それは店主が町内会長か代表をやっているパターンなのだけれど、ここはどうもそうではないらしく、なぜと言えば今まで一度もその顔を見たことがないし、噂すら聞いたことがない。九月のお三の宮の時、公園のテントの下にハゲの町内会長と有志(ゆうし)が集まって豚汁を食べていたが、それは昨年とまったく変わらない光景で、住民はみな見知った顔だった。





となれば、祭りに来ないだけで店は開いているのだろうかと、こうしてフラっと立ち寄るのだけれど、いつもの(ごと)く窓にはシャッターが下がったまま。クリーム色の外壁は段ボールのようにくすみ、日中でも変わらない(ひさし)は、吸い込んだ光をより濃い影に変えて足元を滲ませる。シャッターが上がっているところなぞ見たことないし、いつ開いているかわからない。ただグーグルマップに〈営業中〉と表示されているだけの、古臭い建物だ。






 誰が買うんだよこんなところで






 下がったシャッターを見ながら考える、考える。考える。そして、考えた。きっとここは、いわゆる()()()()専用の店なのだろうと。顔も名前も隠した()()()()が、必要な時にこっそり利用している、シークレットショップなのだ。外観からはわからないが、どこかに秘密の扉が存在していて(じゃなきゃ専用の合言葉があって)、数十秒もかからずに購入を済ますことができる特別なお店。()()()()はサッと夜気に溶け込むようにして、一陣の風のようにその場からいなくなるから、誰もその存在を確認することはできないのだ。






 ()()()()は何を買っているのだろうか。疑問が湧くのはもっともだが、それは誰にもわからない。もちろん姿がわからないから。けれどこの店が煙草屋である以上、そういう嗜好品(しこうひん)を扱っていることはほぼほぼ間違いなく、火をつけて煙を吸い込む、ただそれだけ。簡単なことだ。そういうものを数多く揃えているのだろう。そしてそういうものは、だいたい屑みたいなものから、とびきり上等なものまでピンキリで、そこらのコンビニで売っている安っぽい香りは、(くず)にちょっと芽が出たくらいの安物だろうけれど、お得意様はお得意様なのだから、そんなもので満足するはずもなく、滅多に手に入らない高価な品を求めてくる。海外から取り寄せないとダメな、極上(ごくじょう)なヤツだ。だから値段も一般の倍以上もする。お札一枚じゃ到底手の届かない、金持ちの嗜好品なのだから。それに、時期によって値段に振れ幅があるから、意外に安く手に入ることもあれば、通常の二倍くらいする時期もある。在庫が少なくなると、三~四倍と値を上げて、購買意欲を変に(あお)ったりもする。店主はかなりのやり手だ。けれどそれも、あっという間に切れてしまう。人気なのだ。そして希少なのだ。






 それが()()()ものであるか、正確にはわからない。見たことがないから。でも、多分、こんなもんなんだろうなとイメージはつく。ありきたりな想像で。()()()くらいの、でっかくて黒いヤツ、あれだろう?()()とかで見るからわかるんだ、多分。いや、でも、本当は()()()()()()ィみたいに千切れそうなほど細いかもしんないけどさ。でも、高級品って一様に体裁よく作られているからさ、何も()()()()()()()みたいな、()()()()()()()()みたいなものは似合わないだろうか。()()()はちょっとやりすぎだけど。









 いや、ほんとうのところはわからないよ。だって俺煙草(タバコ)吸わんし。でもそういうのって、なんとなくわかるもんじゃん?ほら、スマートフォン(スマホ)見てたら、短編(ショート)動画でよく流れてくでしょう。ミスタービースト(やたら歯の白い外人)が一ドルから一万ドルまでの商品買って紹介するみたいな。あれに出てくるようなやつだよ。巨人(ジャイアント)が使うんかってくらい大きく(デカ)って、毒々しい(キモイ)見た目してるやつは、大抵高級品(ゴージャス)なんだ。で、そういうのって変に突飛(意味なく派手)的外れ(見当違い)なことしてくるから、見た目はいいんだけど口当たりは最悪。一瞬だけ電流が走ったみたいにワッとなるけど、それは未知のものを身体に入れた衝撃からくる拒否反応みたいな痙攣(ビリビリ)で、感動でも何でもない。すぐに頭の中は困惑(ぐるぐる)。色の統一しない安い油絵具みたいに、我の強い成分だけが波のように現れては流れていく。色んなものが浮かんで、「なんだぁこれ」美味しくねえじゃん。絶対普通のほうがウマいって。そう愚痴を繰り出すことは想像に難くないのに、それでももうちょっとだけ吸ってみたい、身体の中でどんな反応が起こるのか試してみたいって、恥かしいけど少し思ってみたりするのは、まだ俺が知的好奇心に飢えている餓鬼だから?いいや違う。人は幾つになっても恐ろしいもんに飛び込んでみたくなるものだから。「やっぱ高ぇもんは違うなぁ」って陶酔(とうすい)するか、「ぼったくりじゃねえかクソが」って中が(あふ)れるくらい踏んづけるかはわかんないけどさ。でも、その体験をしたって事実、世界一高い草を吸ったって経験は、時間みたいに、お金で代えられないものなのかなって。どんなにツラくて寂しくて苦しくて、もう駄目だって喉元に彫刻刀突き刺す一歩手前のところで踏ん張って、「あのニオイは、相当キチだった、一生もんだぞ」って、ちょっと笑えるくらいの想い出に変わっていたりするのかなぁ。なあんて。絶命する瞬間はオーガズムを超える快感が身を震わすらしいけど、それと同じようにあの匂いも、ゲンジボタルみたいにフッと一瞬またたいて、幻影(げんえい)の起こす陶酔に身を沈ませてくれるのだろうか。










 アイツもそんなことを言っていた。確か、あの辺りで。



五階建てマンションと月極駐車場の間にある、狭い通路の電柱の隅でパンツを下げ、勢いよく放尿したかと思うと、すぐに煙をくゆらせた。



「冠水した排水溝がお日様で輝いている味だ」と言っていた。




アイツがそんなこと言うのははじめてだった。タバコももうかなり吸っていて、えんじ色のジャンパーに匂いがしみ込んでいたけれど、不味そうな気配は一切見せたことがなく、それどころか吐き出された煙に込められた甘い時間や空気を楽しんでいるような、奔放で型に囚われない身軽があった。




「タバコが嫌いな女って、なんか、いいよな」




「顔か、声か」




「どっちもだよ。ゴミみたいな目つきで吸い殻つままれてみろ、考えただけでゾクゾクする。射精もんよ」




 アイツは可笑しくもなんともないと言った風に真顔でタバコを落とすと、力いっぱいそれを踏む。まるで吸い殻の下にあるアスファルトからマントルに向かって、自分の強さを誇示するように。




サンダルが乾いた音を通りに響かせる。吸い殻に残っていた火花がアスファルトに溶けていく。不自然に肌に溶け込んでいくローションみたいに。




アイツ吸殻をまともに捨てたことなんて一度だってない。いつもその辺りの道端で踏みつけてそのまま通り過ぎていく。道で吸っているやつはみんなそうだとアイツは言うが、それでは町が吸い殻だらけになってしまうんじゃないか?アイツはコンビニの可燃ごみに捨てるわけでも、姑息に側溝に落とすなんかもせずに、踏んだ足そのまま知らん顔で歩き出す。もはや咎めるのが申し訳ないくらいの清々しさで。今までどんな風に生きてきたら、そんなことになってしまうのだろう。




 アイツは一度タバコを食べたことがある。



いつだったか、いつもよりショット多く頼んで飲み切れなくなった帰り、アイツと顔を真っ赤にしてこの通りを歩いていた。




空にはもう明け方のもっとも神々しい薄日が洩れはじめて、爽やかな風が気温以上に辺りを冷えさせていた。アイツは真っすぐ歩くこともできていなかった。中国企業がつくったロボットみたいに、右右左左。そしておもむろにタバコを取りだすと、力ない指先で口元に持っていく。「ひ、ひ」と笑うように顎で示してくる。これだけ酔ってもヤニは吸いたくなるものなのだろうか。




仕方なくライターを持って行ってやると、ふっと笑みを見せて目で煙を追い、強く吐き出す。スチームアイロンのように止めどなく鼻から押し出される白煙を、見ているのか見ていないのか判別できない虚ろさでしばらく無心を(つらぬ)いている。




肩は小さく震え、目ヤニのこびりついた眼球は赤く充血している。一瞬で十も二十も年を食ったように見えてくる。アルコールとタールの混ざった酸っぱいような苦いような息の間から、しぶとく生き残った整髪剤(せいはつざい)の甘ったるいグレープの香りが不快に鼻を(かす)めた。



「あぉい」




「おおいどおしてなんだああおれが」




 アイツは目をつむり、煙だけ勢いよく吐き出している。




「おおいどおしてありゃあ負けんんんきゃいけへんだかあああっずもおお おりゃあこんなやっとんんのんんいあひつはえんらあそうおおにしてんじゃあけぇぇぇ えんらそおおにいばりくはってえええぇあふひやああ てめえええりゃああなんおかげでえやれてっとおもってんやはさあああ」




 電柱に回していた手を放し、やじろべえのように右に左に傾いたかと思うと、アパートの縁石(ふちいし)になだれ込むように倒れた。そのまま仰向けになって静かに寝息を立てたかと思うと、すぐに上半身だけムクっと持ち上げ、不自然にタバコを口へ持っていく。




「ばかんやぁあいつらあ ばかばか しんねぇやあ」





「死ねや」の発音が「シニア」に聞こえて思わず吹き出しそうになる。アイツはそんなこと気にもしないで叫び続ける。



「おんまあぁずっころしてくやはんきゃあああ しんね しんね ばいばい ばいばいじゃああ」




 静かな明け方の住宅地にアイツの痰の絡むようながなり声だけが断続的だった。そろそろ住民たちが起き出して、通報を受けた警官がやってくる頃だろう。Tシャツ一枚でもハッキリとわかる胸板の伸縮を認めながら。先ほど見かけた珍しい空き缶――もう店では売っていないチェリーコーク――がトラックに踏み潰されていく様子を頭の中で描いていると、アイツは突然立ち上がり、何を思ったのかタバコを口の中に入れた。火のついたままで。




「どりゃあああああああ」




 煙が顔を覆い、視界が白く霞んで見えなくなる。アイツはすぐにタバコを吐き出して「ぎゃ、ぎゃ」と首を絞められたカエルみたいに嗚咽(おえつ)したかと思うと、腹ばいになって胃の中を絞り上げていた。



 胃液がびちゃびちゃとコンクリートを濡らす。それはもう清々しいくらいに勢いよく。ダムから放流された水流のように。小刻みにウェーブする腰。飛沫(しぶき)がそこら中に散る。どこか遠くの電柱で小鳥の鳴く声が聞こえた。




 やがて口元から垂れる水滴が減り、荒い息の中に正気(しょうき)を取りもとした息遣いが聞こえてくると、アイツはアスファルトにへたり込んで僕を見上げた。その口に笑みを浮かばせて。




「良くなったか」

 ああ、とアイツは返事する。額からこめかみにかけて濡らしていた汗が、前髪を細く崩れさせていた。




「泣かせてくれ」



 朝の光が眠たげなアイツの顔に差していた。むくんでいても、はっきりとわかる二重のまぶた、ピラミッドのように片側だけ陰影を濃く浮かばせている鼻筋、そしてまだ、産毛の一本も生えていない若々しい口元。アイツの顔には確かに力がよみがえっていくのがわかった。無気力と退廃(たいはい)が全身を覆っていた顔が、その時緩んだかと思うと、すぐに真面目を(つくろ)ういつものアイツに戻っていた。けれどそれは、心機一転を図る経営者の目にも、リベンジを狙うスポーツ選手の目にもない、成熟さを扱いきれていない精一杯の青臭さがあった。





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